忘れものひとつwritten by Mis.生奈
ひだまりにつつまれたあたたかい場所にいて、誰かの手を握り締めて笑っていた。 そこは青々と茂る草木に、黄色や白のかわいらしい花々が咲き乱れていて鈴が鳴るような小鳥の囀りが聞こえている。 私は手を握ったまま、やわらかい白い光の中を草花の匂いを吸い込んで駆け回っていた。 ざっと春疾風が通り過ぎると、たちまちのうちにその景色はなくなって雨雲のたちこめた暗く荒んだ荒野にひとりぽっちでぽつりとたたずんでいた。 私はあたりを見回す。 なんでだろう。 風がふいたとき、私は握っていた手をはなしてしまったような気がする。 だからかもしれない。 きっとあの手をはなしてはいけなかったんだ。 そうしたら失わずにすんだのに。 本当に一瞬にしてそれは消えてしまうから、私の中で色んなものが慎重に臆病になっていっている。 大切なものがあって、一瞬のうちにそれをなくしてしまう夢を何度も何度も見ている。 毎日なにかを失っているような気分でぞくりと震える。 自分は無力で非力だから、なにもできない。 そのせいでなにかを失うのが悔しい。 まだ傷が癒えない。 ふさがったはずの傷だけれどたまに自分で引っかいてじゅくじゅくと化膿していくときがある。 きっと跡形もなくその傷が治ることはない。 その傷を一生背負って生きていくことは重々わかっているつもりだ。その覚悟もある。 だからやっぱり悲しみは消えない。 まだ彼女達の笑顔が思い出せるから、約束や願いを憶えているから、重い重い思い出をひきずって歩いている。 あのときがなつかしくもあるし、自分の情けなさに悔しさが滲む。 だからまだ怖い。 優しいものがとても怖くて、今でもまだ誰かの手を握ることが少し怖い。 ゆっくり目を開けると上り始めた日で薄い藤色に浮かび上がる見知らぬ板張りの天井が見えた。 昨日の昼に着いた小さな町の古びた宿屋の天井だ。 ぼんやりとした頭を動かしながら数回まばたきをする。 三蔵が寝ているベットの方へ寝返りをうち、顔の前に中途半端に開いた手をかざした。 ものたりぬような感覚が残っている手のひらを握ってまた開いてみる。 指の隙間から見えた三蔵の肩は規則正しく上下していてまだ眠っているようだ。 いつも朝は三蔵に起こされる。 今まで三蔵達と旅をする前は手を数えるほどしか悪夢なしでぐっすりと寝むれたためしがなかった。 そのせいか最近はむさぼるように深い眠りについていて日が高く上って誰かにたたき起こされるまで目覚めない。 日中のどんちゃんさわぎの疲れのせいでもあるのだろうが。 睡眠が一番の回復法だった。 三蔵の背を眺めた後、シーツに埋まるように顔を押しつけ毛布にくるまり込んだ。 中途半端に開け放たれた窓のカーテンの隙間から朝日がだんだんと差し込みはじめていた。 その日はなんとなく体がだるかった。 夢見が悪かったせいであろうか。 あれからなかなか寝付けなかった。 目が冴えていたわけでもなく眠気はあるはずなのに眠りに落ちていくことができなかった。 筋になって差し込んだ朝日に照らされてきらきらと宝石のように光る埃をぼうっと眺めていた。 何かはわからないが気に掛かるものがあった。 似たような夢は随分と前から見続けているような気がする。 夢の物語はなんとなく断片的にしか覚えていない。 まるで靄に包まれているようで、夢を思い出してその答えを理解しようとしても頭の中はさらに濃い霧に遮られていた。 はっきりわかるのは何かを失うことと、何かを忘れているということだ。 どうしてか忘れてしまった幾多の記憶・・・。 もう居ない最愛の二人・・・。 急に独りになったような気がした。 「」 三蔵の呼びかけに、はっとうな垂れていた頭を上げた。 「朝飯食いにいくぞ」 「あ、うん」 「早くしろ、猿が煩くてかなわん」 三蔵が起きたと後、待っていたように体を起こしベットに座って俯いていた。 なんだかいつもの調子がでずになんとなく手の平をずっと眺めていた。 今までの時間どれくらいそうしていたのだろうか。 三蔵に見られていたかもしれない。いや、絶対に変に思われた。 あの人は察しがいいから。 三蔵の後を早足で追いかけて食堂へ向かう。 食卓にはすでに料理がはこばれていて円になって悟空達が座っていた。 「あ!やっときた!おはよー」 「おはようございます」 「よっ、良く眠れたか」 三蔵はそそくさと席へ座る。 はいつもとかわらぬ三人の笑顔に表情を和らげた。 「おはよう」 上手く笑えていたんだと思う。 だいたいつくって笑ったわけでもないし、この空間にくれば自然と笑みが零れるのは自分でもわかっている。 後から気づいた。 つくり笑顔を自覚していなかった私は、つくり笑顔がへたな私は、このとき私がとても哀しい顔をしていたんだってことを。 は空いている席に座ろうと椅子を引いた。 だけれどそこから動けなかった。 まるでここには目には見えない壁のような膜があってそれらがこの空間をしきっているような気がした。 「?」 悟空が、なかなか席につかないに不思議そうに問いかけるとは眠りから覚めたようにはっとして「なんでもない」と言って座った。 その後はいつもとなんら変わらない日常の間にはふとした瞬間に夢を思い出した。 まるでどこかへいこうとすると制止がかかるような気分だった。 悟浄と悟空のおかずの取り合いを聞き流して二人がそれた話で言い合いをしているうちにが何食わ顔でおかずを頂く。 にけんかの矛先がむくのならにっこりと一言言ってやれば二人はむすっと頬をふくらまして大人しくなった。 最終的にまた同じことが繰り返され、三蔵のハリセンで食事が終了した。 その後は宿屋の主人と女将に挨拶をし、まとめた荷物をジープに乗せ、後部座席に乗り込み出発した。 この日はが後部席の真中だった。 過ぎ去る町並みを見送る暇もなく他愛もない会話が弾んでいく。 ここまでになにひとついつもと違うところなんてなかった。 だけが不安を抱いていた。 ガタガタと揺れるジープに、だんだんと人気がなくなっていく道。 その中でまるで奇抜に見えるこの一団。 たった五人しかいないのに、騒々しさは賑わっている厨の喧騒と大差ない。 めまぐるしく感じる一瞬一瞬の会話に、表情に、声に、景色に。 まるで花火が弾けて消えていくようだった。 はふっと話の輪から抜けた。 気になったのだ。 自分の手のひらが。 −なにが足りないんだろう。 はじっと手のひらを黙って見つめていた。 夢の足先がちらつく。 なにか、大切なものがあった。 風が吹いてそのとき手をはなしたからそれは一瞬で消えてしまった。 手をはなしたのはきっと自分。 風はすなわち「危機」だ。 手をはなした自分は「愚か」だ。 毎日毎日、何かを自分のせいで失っている。 自分の愚かさを見せつけられる。 支鬼と丹火は無知な私にあらゆるたくさんのことを教えてくれた。 一番愛していたんだ。 唯一の人だったんだ。 だけれど、もう二人はいない。 後悔ばかりが募る。 彼女達が自分の笑顔を望んでいたのに、笑えなかった。 彼女達が大好きで、愛していたのにそのことを上手くつたえられなくて。 手をつないでいたはずなのに。 私が手をはなした。 見渡しの良い林の木陰で昼食をとるために一旦ジープから降りる。 すでにはいつもの調子で悟空とくだらない話をしていた。 木々は風にさわさわと揺れ、その葉の間から漏れる木漏れ日が地面に宝石を散りばめたように光っている。 木は傘となり、雑草は絨毯になった。 最近梅雨入り晴れが続いている。 日照りはそこそこ強いが風も絶えずそよそよと吹いて影に入るとひんやりとして気持ちが良い。 昼食が終わって一息ついているときだ。 笑い声が高く澄み渡ったつきぬけるような空に響いていた。 もその中に混じって笑っていた。 どうでもいいような話のひとこまがなにより幸せだった。 そのときにまるで一瞬、すべてのものを飲み込み連れて行ってしまうような疾風が吹きぬけた。 ざっと草木は倒されそしてすぐに立ち上がる。 「うっわ、すっげー風」 悟空はぐちゃぐちゃになった髪を頭を振り回すようにして整えながら通り抜けた風を追うように風が去った方向を見つめた。 「?」 絶望したように顔色を悪くして放心しているに八戒が気づいた。 眉を切なげに寄せ、不安に揺れる瞳には明らかに恐怖の色があった。 「ごめん、ちょっと顔洗いたいから水探してくる」 はさっと立ち上がってそう行った後一目散に林の奥へ走っていった。 悟空の呼びかける声が聞こえた気がしたけれど、かまう余裕などなかった。 膨れ上がってリアルになった恐怖と四人に心配をかけたことの罪悪感が頭の中を全て支配していた。 どうしよう。 絶対変に思われた。 理由も理由でお粗末だ。 でも、どうしようもなかった。 −怖かった。 そのぬくもりが、優しさが、消えてしまう。 それなら逃げれば良い。 もとからその幸せを知らなければ良いのだ。 幸福や優しさが怖くて怖くてたまらない。 いつもそれを失くすことを考えるから。 残された悟空はすぐにを追いかけようとしたが悟浄に止められた。 「なにすんだよ!」 「お前は適任じゃねえよ」 「どういう意味だよ!」 わけがわからずぐちゃぐちゃになった思考回路で悟浄に怒鳴る。 冷静な悟浄がなんとなく気に障った。 「やっぱり、今日変だもん、気になるよ!八戒もそう思うだろ?」 「まあまあ、悟空。大丈夫ですよ、二人で戻ってくる頃にはいつものに戻ってますから」 「え、」 二人という言葉にふとすでに三蔵がが走っていった方へ歩いている姿が見えた。 気づかなかったことと、出遅れたことが少し悔しかった。 は湖のほとりにしゃがんでいた。 「」 呼びかけても返事はない。 三蔵は軽く溜息をついた。 「向き合えよ。顔が見えねえだろ」 びくりとの肩が震える。 三蔵は今自分と話すために向き合えといっているわけではない。 やっぱり三蔵は気づいていたんだ。 自分の不安さえよく知ろうとしていなかった私の恐怖を。 今までずっと知らずのうちに四人と顔をしっかり向き合わせていないことを、言われてはじめて気づく。 向き合っていないなんて、思っても見なかったけれど言われると実に簡単に納得できることで胸に槍を刺されたような気分だった。 三蔵はゆっくりとの隣まで歩いて止まった。 「俺らはそんなにたよりねえか?」 悲しそうな声に三蔵を見上げると、三蔵もを見ていて、寂しそうに揺れる紫暗の眸に絡め取られた。 確かに私は荒涼とした森に閉じ込められていたけれど、それから後は今まで自分がいた籠の檻は自分でつくって自分で鍵をしめていたんじゃないだろうか。 そうだ。夢のように失ったとき思い出が重くならないようになるべく自分が辛くならないように孤立して全てを跳ね返していたんだ。 手をはなしたら悲しみの渦にほうりこまれるから、最初から手を握らなければ良いと。 あたたかいものなど、優しいものなどいらないと。 失ったときの辛さを知っているから、怖かった。 すぐになくなることを想定するからその手を握ることすら恐怖で。 は湖に視線を戻した。 澄んだ水には悲しみに歪んだありのままの自分が映されていた。 「私、逃げてたのかな」 は俯き、縮こまるように膝を抱いた。 「ちゃんと、もっと、どうにかできてたのに。なんでだろ、なんで私ちゃんと、もっと丹火と支鬼と一緒にいて色んな話して、・・なんでできなかったんだろう」 の薄い肩が小刻みに震えている。 「もっともっと、なにかできてたはずなのに」 膝にぽろりぽろりと滴が落ちた。 なんだかそれが溜めていた後悔や恐怖のような気がした。 「大好きだって、なんで素直に言えなかったんだろう。ずっと約束を憶えていたんだって、本当は支鬼達が願ってたことだってわかってたのに。どうして私笑えなかったんだろう。支鬼達といて幸せだったのに」 「そう思うならまた同じ過ちを繰り返そうとするんじゃねえよ」 三蔵の声は強かった。 刺すような強さだけれどそれが酷く優しくてまた涙が溢れ出した。 「くだらねえこと考えてねえで、お前はあんなかで笑ってりゃいいんだ」 は声をしゃくりあげながら何度も何度も頷いた。 三蔵はしゃがんでの涙が止まるまで時折髪をなでてずっと頭に手を置いていた。 泣き止んだに「大丈夫か」ときくと、赤くなったほほをゆるめて笑った。 その不器用な笑みがとても純粋でいとおしかった。 前を歩く三蔵の背を眺めふと目に三蔵の手が目に入った。 は自分の手のひらを仰いで眺めてみた。 そして跳ぶように三蔵に近づいて三蔵の手に自分の手を絡めた。 何か言われると踏んでいただが、三蔵は気づいてないくらいに無反応だった。 ただの細く白い指をぎゅっと握り返してくれた大きくあたたかい手が嬉しかった。 そのときふっと自分を包んでいた靄が晴れた気がした。 ずっと違和感のあったもの足りぬ手のひら。 もとめていたのはこの手のぬくもりだったのだ。 は声を立てて笑った。 私は何を忘れていたと言うのだろう。 記憶がないのだからどうしようもないことで、彼女達の思い出があるのだからそれで十分なのだ。 でも、ただ一つだけ忘れていたものがあったんだね。 彼女達が全てをかけて教えてくれた大切なことを。 強く生きることは難しいけれど、きっともう大丈夫。 また立ち止まることはあるかもしれないけれど、そっと背を押してくれる人がいる。 だからもう恐れない。 あの場所を抜けて新しい場所で生きるから。 ただ悲しみを糧にしているわけじゃない。 彼女達はいつまでも私に大切なものを教えてくれているんだ。 彼女達が教えてくれたことを胸に生きていくんだ。 私はもう同じ後悔は繰り返さない。 −ねえ、支鬼、丹火、私笑ってるよ。
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