最初に出会ったのは、孤児院の前の山桜の木の下。 青々と生い茂った大木の下で、年老いた僧に手を引かれて立っていた小柄な男の子。 何故だろう? 確かにその子は笑っていたのに。 お日様のような笑顔というのは、本当にその子のためにある言葉のようでさえあったのに。 「初めまして。あなたが、悟空君?」 こっくりと頷いた少年の大きな金色の瞳は、綺麗に澄んで乾いていたのに。 それなのに、そのとき私には、その笑顔がまるで、今にも泣き出しそうに見えたのだ。 ++ Sunshine Smile 〜全ての子ども達に〜 ++written by Mis.にしゃと
周囲を険しい山並みに囲まれた、細長い谷間の平地にその孤児院はあった。 俗事を絶って寺院に籠もりきり、ただ神に祈りを捧げるだけで本当に救えるものがどれほどあるのか? この身、この手足を使って、もっと積極的に何かできることはないのか? そんな疑問から一度は僧籍を捨て、やがて、たどり着いたこの山中の集落で、私は小さな孤児院を営んでいた。 村人たちは親切で、時折、食べ物や古着を差し入れてくれたし、力仕事を手伝ってくれることもあれば、町に用事のある時などは、ついでに馬車に乗せて連れていってくれたりもした。そのかわり、私は彼らに文字を教えたり、手紙の代筆を頼まれることもあった。 小さな孤児院の経営はいくらか経済的な困難も伴ってはいたけれど、食べ物はほとんど自給自足でまかなっていたし、寺院時代の友人や知人が少しずつ援助してくれたりもして、順調に日々を過ごしていたと言える。 時折、そんな援助者たちの寺に預けられたり捨てられた子どもを、私の孤児院で引き取ることもあった。大きな声では言えないが、女人禁制の寺院前に捨てられた女の子や、全ての民に平等に慈悲を与えるはずの寺院でも引き取りを拒否される妖怪の子ども達などがその中心である。 悟空もまた、そんな子ども達の一人だった。 今は東方の大きな寺院に勤める古い知人の僧から、急な話で申し訳ないが子どもを一人預かって欲しいと連絡があったのだ。 妖怪の少年で一時はその寺院で引き取ったものの、問題が有って留めて置くことができなくなったという話だった。暴れて人をひどく傷つけてしまったのだという。 そのまま、寺院から放逐されかねないところだった少年を不憫に思ったその知人が、かつての交遊から私を頼って来たのだ。正直、自己コントロールがきかない暴れん坊の子どもを引き受ける自信は無かったのだけれど、制御装置を外しさえしなければ、快活な普通の少年だという彼の話に、それならばと、私は二つ返事で承知したのだった。 「悟空! ほら、悟空! 起きなさい!!」 シーツを無理矢理引っぺがして小柄な身体をごろんと転がす。窓を全開にして朝の光を招き入れると、どんなに寝惚けていても、この子はすぐさま飛び起きた。 「おはよう」 にっこり笑って言うと、かならず眠そうに目を擦りながらも返事をする。 「ん、おはよ」 素直で扱いやすい子どもだ。多少元気が有り余って、あちこち軽い怪我をしたり、物を壊すことはあっても、おおむね、とてもよい子だった。暴走して人に大怪我をさせただなんて、とても信じられない。 唯ひとつ気になることが有るとすれば・・・・・・ 「あら? 悟空、もう、食べないの?」 ほとんど手をつけられないまま、片づけられようとしている食器に、私は驚いてストップをかけた。ここへ来た当初から、この子はひどく食が細い。あれだけ元気に動き回るエネルギーをどこから補給しているのだろうと不思議に思うほどだ。 「ごめん。食べたくないんだ」 「ホントだ。昨日も残したでしょう? 美味しくない?」 ここではすっかりお姉さん格になる朱夏という少女が、心配そうに口を挟む。 「そんなことない! 野菜ばっかの寺のご飯より、ずっと美味いよ」 「じゃぁ、もしかして、どこか体調が良くないの?」 「ううん、平気! ごめん、ホントにお腹減ってないだけだって」 悟空は心配しないでというように、にっこりと笑う。 ああ、また、だ。 曇りのない明るい笑顔。なのに・・・・・・。 「本当に?」 「うん!」 ほら、また、泣き出しそうに見えるのは、何故? その時ふと、悟空が顔を上げた。視線が私を通り越して、遠いどこかを映す。 それを追った朱夏が首を傾げた。 「御山がどうかした?」 「御山? あの山が、そう?」 振り返った窓の外には険しい山の影が見える。 「そうよ。神様のおわす山」 「ふぅん、ホントにいるのかな」 「え?」 「ごめん、なんでもない。ごちそうさま!」 「あ、ちょっと。悟空!」 元気良く食堂を駆けだしていく後ろ姿に、体調不良の兆候は見えない。 それなのに、また、胸が痛んだ。 明るくて元気な悟空は、あっというまに周囲の子ども達とも仲良くなった。 自分より小さな子に懐かれるのが珍しいらしく、一生懸命にぎこちなく世話を焼く姿もよく見かける。 悟空が来た頃はまだ緑の濃かった山々に、紅葉の気配が訪れつつあった。 このあたりはかなりの高地にあるため、夏が短く秋が早い。 「そのうち、もっと紅くなったら、みんなでお弁当持って紅葉狩りにいきましょうか」 洗濯物の取り入れを手伝って貰いながら、私がそう切り出すと、お弁当という言葉に目を輝かせながら、悟空は小さく首を傾げた。 「御山にも登る?」 「ダメよ。あの山は大地の女神様の御山だから。お祭りの時に、限られた人しか登れないの」 よっこいしょと両腕の洗濯物をとりあえず足下の籠に放り込んで、私はすぐ近くに見える御山の麓を指さした。 「あそこに小さな鳥居が見えるでしょう? あそこから沢沿いに登ると、頂上の近くに小さな祠があるの。そこにお供え物を持って登って、山の恵みをお祈りするんですって」 「ふーん、それっていつやるんだ?」 「春よ、雪が解けてすぐ。まだまだ、当分先のことね」 行ってみたい? そう尋ねると、悟空は少し迷ってから、頷いた。 「なんだか、呼ばれてるような気がする」 懐かしそうに僅かに目を細めた表情は、いつになく妙に大人びて見えた。 女心と秋の空。 そんな言葉を引くまでもなく、山の天気は変わりやすい。 今朝方までは、昨日と同じくらいの洗濯日和に見えた青空は、朝食後の僅かの時間に、瞬く間に厚い雲に覆われて行った。 ポツッ。 後片づけが終わって一息ついた私の耳に、小さな音が届く。 窓ガラスに叩きつけられる小さな雫が、水玉の模様を描いた。 「・・・・・・雨?」 まだ、どこか、ぼんやりとしたまま見つめる私の目の前で、ガラスの水玉はあっという間に大きくなり、激しく流れる縞模様へと姿を変えた。 皆で手分けして、大慌てで洗濯物を取り込み、朝食を終えて外で遊んでいた子ども達を部屋の中に呼び戻す。 すっかり濡れてしまった子ども達は、小さな子から順に大急ぎでお風呂場へと追いやった。 もともと今日は外で遊ぶつもりだった元気の有り余っている子ども達は、部屋の中で大人しくなどしてくれない。てんやわんやの大騒動の中、朱夏が青ざめて飛んでくるまで、愚かなことに私は何も気付いていなかった。 「院長先生! 大変!! 悟空君がどこにもいないの!」 「なんですって?」 「ご飯の後、みんなと一緒に外に出て、それから一人でどこかに行っちゃったみたい。誰も見てないって・・・!」 鋭い雷光が部屋を照らし出す。 青ざめた朱夏の横顔が、一瞬、ひどく明るく浮かんで、沈んだ。 「お風呂にもいない? 部屋には?」 彼女は無言で首を横に振る。 「手分けして、探しましょう。誰か、村の方へ連絡して! 朱夏は大きい子達と裏の畑を見てきて頂戴。無理しちゃダメよ、私は御山へ入ります」 予感があった。御山のことを話して聞かせたときの、悟空のどこか遠い眼差しが浮かんでは消える。 「でも、院長先生。あの山はっ!!」 「非常事態よ。禁足地だなんて、言ってられますか!」 泣きそうな顔で頷いた朱夏を送り出し、手早く外套を纏うと、私は外へ飛び出した。 視界の悪い雨の山は、たとえ普通の山だったとしても、危険な場所だろう。 年の割には足腰に自信がある私でも、この山を地図も無しに彷徨うのは自殺行為に近い。 とりあえずは己が迷わないことを最低条件に、私は渓流に沿って山を登った。 私が一番恐れていたのが、あの子が川に落ちたかもしれないということだったせいもある。 雨のために水嵩を増した渓流は、泥色の濁流となって、目の端を凄まじい勢いで流れていく。 私はひたすら、その中に小さな子どもの姿が無いことを祈りつつ、目を皿のようにして川辺を探りながら、慎重に歩いた。 雨の勢いは衰えることを知らず、けれど、それを冷たいと感じる余裕も既にない。 必死で悟空の名前を呼び続けた声は、少し掠れかけていた。 足下には私の肩にも届こうかという熊笹がびっしりと生い茂っている。渓流沿いの水気の多い場所には、同じく腰の丈ほども有りそうなシダ類が鬱蒼と茂り、頭上を覆う針葉樹の林で視界はひどく薄暗かった。 足場の悪い、とても道とは呼べぬ細い獣道のような道を慎重に進む。 紅葉を始めたとはいえ、初秋の山は未だ夏の名残が強く、緑が濃い。酷使する五感と疲労、更にこの豪雨で勢いを増したような濃密な森の香りに、一瞬、頭がくらりとして・・・・・・。 しまったと思う暇もなく。 ずるりと足を滑らせた。 悲鳴をかみ殺し、咄嗟に近くの熊笹の蔓に掴まる。 そのまま、どうにか勢いを殺して滑り落ちたその先で。 私は、短いとは言えぬこの人生で、初めて・・・。 神様を見た。 濃い緑と黒い岩場を背景に、白い衣が鮮やかに浮き上がる。 水の紗幕に遮られてなお、煌めく黄金の髪。 触れれば切れるのではないかと思われるほどの凛とした空気を纏って。 その横顔はこの世の者ではないことを示すかのように、恐ろしく美しく表情が無かった。 身じろぎすることさえも憚られるような、畏怖さえ誘う静寂。 けれど。 その腕の中に、探し続けた子どもの姿を見つけて。 私は思わず小さく声を上げてしまった。 美貌の神が、ゆっくりとこちらを振り返る。 「・・・にん、げん?」 射すくめられるような強い紫闇の眼差しは、恐ろしく美しかったけれど。 ひどく怒ったような激しい感情に揺れていて、それは人にしか見えなかった。 神のようにさえ思えたその少年が、ふいに現実のモノとなる。 「誰だ?」 低い誰何の声に、ようやく我に返る。 瞬間、私の中でずっと燻っていた不安が爆発した。 「悟空は! その子は!? 無事なのっ!?」 駆け寄って抱き取ろうとした腕は、直前で撥ねのけられる。 「触るな」 「え?」 「お前は、何者だ?」 心が凍えるような美しく冷たい瞳。 そのとき、いったいなんと答えたのかを、私は覚えていない。 「院長先生!」 明るい声に振り返る。 最近は、すっかり視力が衰えて、よほど近づかなければ人の顔さえ判別がつかない。 その分、少し耳が良くなったようで、この年にもかかわらず、だいたいは声で誰だか判別がつく。 柔らかな春の陽射しのような響きのこの声は、たぶん朱夏。孤児院で世話をした子ども達の一人だ。 「私はもう、院長じゃありませんよ」 微笑んで告げると、小さく舌を出してゴメンナサイと謝る。もっとも、何度言っても、彼女はずっと私を院長先生と呼び続けるのだろう。 あの孤児院は、今はもう無い。 突然の妖怪達の異変。 妖怪の子ども達も多く受け入れていたことで、私達はあの村を出て行かざるを得なかった。 つてを頼りに全ての子ども達をどうにか他の施設へ移したものの、どんどん悪化した状況に、今となってはあの子達がどこでどうしているのか、知り得る術もない。迫害され、傷つけられてはいないことを、ただ、祈るだけだ。 私自身、行き場が無かったのだが、朱夏をはじめとする幾人かの孤児院を出て独り立ちした子ども達が、何の役にも立たないこの年寄りをわざわざ引き取ってくれた。 彼らは今でも私を『院長先生』と呼ぶのをやめない。 「さっき、街で聞いたんですけどね」 もう、二人も子どもがいるとは思えない、子どもっぽい仕草で私にじゃれつきながら、朱夏が笑う。 いつ、妖怪に襲われるともしれぬ、不安に満ちた街の空気を振り払うように。 「妖怪達の異変には何か理由があるんじゃないかって。それを解明して、桃源郷を昔みたいに、平和で仲良く暮らせるようにするために、三蔵法師様が任務を受けて旅立たれたんですって」 「三蔵様?」 「そう! あの、三蔵様。院長先生と一緒に遭難した。もちろん、悟空も一緒ですって!」 「まあ、まあ」 結局、あの時。 嵐の中を這々の体でなんとか無事に孤児院まで戻った私達は、あっと言う間に風呂に追いやられ、村の人々からこっぴどく説教を食らった。 あの御山の中では本当に神様に見えた年若い三蔵法師も、山に慣れた村人達には、ただの少年でしかなかったらしい。こんな日に、よりにもよって御山に入るだなんて自殺行為だと、それはもうもの凄い迫力で、私達には返す言葉も無かった。 しかもあの時、三蔵様はひどい怪我が未だ治りきっておらず、後で傷口が開いて大騒ぎになったことも、3人揃ってしばらく寝込む羽目になったことも、よく覚えている。 「だから、きっと、大丈夫よ、先生」 微笑んでぎゅっと抱きついてくる朱夏の腕は柔らかく、石鹸と牛乳の良い匂いがする。お母さんの匂いだ。もっとも、母親を知らない彼女たちに言わせれば、院長先生の匂いらしいが。 「きっと、昔みたいに、みんな仲良く一緒に暮らせるようになるわ」 「・・・そうね」 優しい朱夏の香りに包まれて思い出すのは、悟空が三蔵様と一緒に孤児院を出ていくときに見せた、Sunshine Smile。 雨上がりの初秋の光は、とても眩しく、でも、どこか柔らかく。 澄み切った空は高く、青く、どこまでも透明で。 しっかりと繋がれた掌を嬉しそうに振り回しながら、鮮やかに笑ったあの子の笑顔。 あれがきっと、私が見た、最初で最後の、悟空の本当の笑み。 そう、きっと。 あの子がああして笑っている限り、そして、子ども達が笑っている限り、この世界は大丈夫。 たとえ、どれほどの狂気が、今、この世界を蝕んでいるのだとしても。 大丈夫。 ほら、こんなにも、母の腕は優しく暖かい。太陽は眩しく柔らかく、大地をその腕で暖める。 いつでも、いつまでも・・・。 ああ、だから、どうか。 みんな、無事に帰っておいで、私の子ども達。 |