恋する病気


written by Mis.柚原 桂



 神様というやつは、よほど、アクシデントをプレゼントするのが好きらしい。
 ――に。



 の目が見えなくなった。


 雨の中、ぬかるんだ泥道にタイヤをとられて横滑りにスリップしたジープから放り出された衝撃が原因らしい。
 とっさに悟空がタックルして空中での身体を抱え込み、自分の身体をクッションにしたため、が直接地面に叩きつけられることはなかったのだが。 
 半妖怪でも鍛え上げられているわけでもない、ただの女の子でしかないの身体に、その衝撃は思いの他大きかったらしい。

 悟空に助け起こされたときには、の視界は真っ暗にとざされていた。







◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆




 恐いくらいに闇しか存在しないの視界に、淡いカスタード色の優しい光が、ほんの仄かに点った。
 その温度とやわらかさを、はよく知っている。
 八戒の気孔。

 ショックが原因の一過性のものなら、そのうちに治る可能性は高い。だが逆に言えば、心と身体が「びっくりした」ことが原因で見えなくなったのだから、精神的なその症状に対する有効な治療法はないように思えた。

「……どうですか?」
 見えなくなったの両目に、気孔による治療を試みたのはこれで2度目だった。
 1度目は、見えなくなったと分かってすぐ。雨の中でその場で八戒が気孔を施したが、効果は得られなかった。今は、夜更けにようやくたどりついた街の宿の一室で、全員が見守る中で気孔による治療を試みた。

「………ごめん。やっぱり…だめ…みたい」
 いつになく神妙な八戒の声に、申し訳なさでいっぱいになりながらは答えた。八戒は、もうずいぶん長いこと気孔を放出してくれている。今日は1日雨の中でジープを運転してただでさえ疲れているだろうに。

 重苦しい沈黙の中が流れる中、はあっと八戒が吐息をこぼした。

「……すいません。僕の不注意で」
 思いがけない謝罪の言葉に、が見えない瞳をみひらいて、弾かれたように立ち上がった。
「なんでそんなこと言うのっ?! 誰も八戒のせいなんて思ってない。それは違うよ。あんなに冷たい雨の中でずっと運転するのがどんなに大変かくらい皆分かっ…」
 声のしたほうに身を乗り出したの鼻先が、とんっと濡れた服にぶつかった。おそらくは八戒の胸のあたり。距離感がつかめずに、自分でぶつかっていってしまったらしい。
「鼻、低くなりますよ」
 苦笑まじりのやわらかい笑いが、の頭上から振ってきた。大きな手がそっとの華奢な両の肩に置かれて、向かい合った二人の胸の間に拳ひとつぶん入るくらいの空白が保たれる。

「それでも、もっと気をつけるべきでした。あんなにスピードを出すことはなかった」
「だって、それもあたしのためでしょ」
 走行中も、雨の中で震えていたに、八戒はひどく気をつかっていた。

「あの、ね。そんなに心配しないで。ちょっと身体がびっくりしてるだけだと思うの。悟空がかばってくれたおかげで、頭もどこも打ってないんだもん。それにね、まったく見えないわけじゃないの。光はぼんやりと見えてるか……っ」
 がんっ。
 見えなくても平気なところをアピールしようとしたが、一歩足を踏み出したとたん、膝を思いきり椅子の角にぶちあててしまった。は声も上げられずに涙目でその場にうずくまった。
「〜〜〜〜〜〜〜っ」
「……もう絶対に一人で動くなよてめぇは」
 三蔵が呆れたように溜め息ついて、うずくまったの身体を抱えて椅子の上に座らせた。

「そ、そんなこと言ったって……っくしゅ!!」
 反論しようとしたの言葉尻にくしゃみが続いた。この騒ぎですっかり忘れていたが、全員、宿にかけこんだそのままの格好――つまり、びしょ濡れのままだ。 
 雨の中を何時間もジープで走行してきたのだ。髪も衣服もぐっしょりと雨水を吸って濡れた身体は芯まで冷えきっている。

「…………てゆーか、見えないんじゃ一人じゃ風呂には入れないよな」

 ぽつり、と悟浄が呟いた言葉に空気が凍りつく。



「………どうすんの?」

 悟空がそろっと全員の顔を眺めた。皆、顔が異様にマジだ。もしかして、の目が見えなくなったと分かった瞬間以上に。

「どうするもこうするも…」
 口を開いたのは悟浄だった。からかうような声。
が決めるしかねーんじゃねーの?」

「ええええええええ?!」

 体中に刺さる男4人分の視線に気づいたが、心持ち身をひいた。相手の表情なんて見えないほうが、人の心が分かるかも知れない。

 せめて罪滅ぼしさせてくださいモード全開の八戒の視線や、自分は頼ってもらえないないんだろうなという哀愁モードの悟空の視線や、てめぇここで違う男択んだら殺すぞモードの三蔵の視線が、の皮膚をちくちくと突き刺す。そんななかで提案者であるはずの悟浄だけが、唯一わざとそっぽを向いているのが分かった。選択肢を減らしてくれる配慮はありがたいが、よく考えたらこの状況を作ったのもこの男だ。なんの意地悪だろう。


 パニックを起こしたの前に、八戒が曲げた片膝を床についた姿勢で、を見上げた。
「誓って妙な気は起こしませんから今夜だけは僕に世話させてもらえませんか?」
「っっっ」

 八戒に! お風呂ーーー?!

 思いもかけない申し出に、は酸素不足の金魚のように口をぱくぱくさせた。
「そんなものは自己満足だと怒ります?」
 ……こんなに怖いほど真摯な声を、どうやって拒絶できるというのだろう。きっと、泣きそうな表情をしているに違いない。
 がおずおずと頷いた瞬間、八戒がやわらかく苦笑する気配がつたわった。

「……と言いたいところですけど、後ろでものすごい目で僕のこと睨んでる人もいますし、僕も命は惜しいですしねぇ」
「………」
 からかわれているのだろうか。
 テンションが乱降下して一気に緊張がほどけたが、八戒の言うところの「ものすごい睨み目線」に気づいたのはそのときだった。

「……いいからさっさと決めろ。全員風邪ひくだろうが!」
                               、、
 不機嫌を隠そうともしない三蔵の声。それで、すでに今夜の彼女の下僕は決定したようなものだ。







◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆




 阿呆かあいつは。

 バスタブに湯がたまるのを眺めていた三蔵が眉間に皺を寄せた。雨でびしょ濡れになった衣服は備え付けの洗濯槽につっこみ、今はジーンズだけを身につけている。の風呂の介助をすれば、どうせまた濡れてしまうのは分かりきっていたので上半身は裸のままだ。

 好きな相手に――絶対に近い確率で自分のものにはならない相手に。こんなシチュエーションで。妙な気を起こさない男がいてたまるか。
 こんなこと、させてたまるか。

 バスタブに湯がたまる。蛇口をきゅっと捻って湯をとめると、あたりは急に静けさに包まれた。


「用意はできたのか」
 脱衣所から顔を出して声をかけると、は、胸のあたりから、太股もの付け根までをようやく隠すくらいのバスタオル一枚に身をくるんでベッドの縁に腰かけていた。
 細っそりとしなやかな手足が、明るい部屋の中でさらされることは滅多とない。いつも行為は薄闇の中だ。
「………」
 小さなタオル一枚では隠しきれない、きめのこまかい真っ白な膚の上に、ところどころ自らが落とした朱が薄く残っている。明るい場所で見るのが後ろめたいほど艶かしい。

「あ、うん。用意出来た…と思う」
 三蔵が一瞬だけ沈黙した意味も解さず、は、自分の荷物の中から手探りで取り出した着替えを胸元に抱えた。パジャマはともかく、さすがに下着までを男に用意してもらうわけにはいかない。
「…抱くぞ」
 いきなり触れられる、というのは、恐いものだ。
 目の見えないに細心の注意をはらい、が頷くのを確認してから、二の腕に軽い身体を抱き上げて浴室まで運ぶ。

「……っ」
 冷えきったの耳と肩が、抱きかかえた三蔵の胸に直に触れた。彼女が、ぴくんと身体をかたくしたのがわかる。自分を抱き上げる男の上半身が裸であることに気づいたのだろう。
「何を意識してんだ阿呆。どうせ濡れるだろうが」
「……阿呆って言わないでよっ」
 いつも通りに生意気な反論も、だが、さすがに羞恥のせいか声は消え入るように小さい。
「じゃあ大莫迦だな。他の男にこんな真似させる気だったのか」
「そうじゃないけど…っ! あんな風に言われたら…」
「あいつはてめぇが思ってるほど殊勝な男じゃねーよ」
「なによその言い方! 三蔵ほどすけべじゃないわよ!」
「助平じゃない男がいるかっつってんだガキ!」
 二人の声は狭いバスルームに反響した。見えないにも、湯気が立ちこめているのが分かる。
「浸けるぞ」
 叱る言葉の乱暴さとは裏腹に、律儀にそう言いおいてから、の身体をゆっくりと透明な湯の中にしずめた。まるで壊れ物をあつかうように、そっと。
「えっ? 湯あみしないと…」
「いい。てめぇ自覚ねぇのか。氷みたいに冷えきってるだろうが」
「………」
 たしかに三蔵の言う通りだった。熱い湯につかったとたん、身体の冷たさと湯の熱さの温度差の違和感に皮膚が泡立った。そのうち身体全体がじわじわと痺れて、手足の先に、ようやく感覚が戻る。
「あったかい……」
 湯舟の中で猫のような仕種を伸びをするが、自分の身体にまとった白いバスタオルが、濡れてとっくに肌色に透けていることを知ったらどんな反応をするだろうか。

「……のぼせる前に呼べよ」
 目の毒だ。
 さっさと風呂場をひきあげようとした三蔵の腕を、しかし、の両手が何度か空を掻いてから、がしっと掴んだ。
「えっやだこわい!!」
「………はぁ?」
「こ・わ・い! ひとりにしないで!」
「……怖いのか」
「莫迦ーっ!! 怖いに決まってるでしょ! ずっと見えないままだったらどうしようかとか変なことは考えちゃうし…」
 が泣き声になる。
「……そうだな。とりあえず、ジジイになったら抱えて風呂は入れられんな」
 わざと軽い口調で、そんな心配は杞憂だと教えるその冗談に、がぱちぱちとまばたきした。不意打ちのように甘い空気が滲む。
「……ね、じゃああたしが64歳になっても面倒みてくれるの?」

 泣いたカラスがもう笑う。
 嬉しそうに腕に頬をすりよせてくるのやわらかい髪をすくようになぜてやりながら、三蔵がああ、とうなずく。


「俺がいてやるよ。目に見えるものなんか呉れてやれ」


 今、本当はずっと前からお前の目をふさぎたかったんだと言ったら怒るか?
 お前の目をふさいで、他の男なんか視界に入らないようにしたかったんだと。

 だって言うだろう。


 恋は盲目。








柚原 桂様のサイト「replica*」は→こちら から。


>> Return to index <<

Material from "Salon de Ruby"