花しぼみて 露なお消えず








ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。――



は朗読を止めて、傍らの上司の顔を伺い見た。憮然としたその表情に笑いをかみ殺す。

「ご不満でしょうか?」

観世音菩薩は、彼女の甥もかくやという顔で、眉を寄せた。

「俺は『面白い物を読んで聞かせろ』と、言ったはずだぞ」
「先日、長恨歌をお聞かせしましたら、あまり愉しんでおられないご様子でしたので」
「あの程度じゃちっとも面白くねぇよ」
「では、金瓶梅の方がよろしかったですかしら」
「くだらんことには変わらんじゃねぇか」

彼女は高く組んだ足を、億劫そうに組みなおした。ついでに、の持つ本を、ひょいとつま先で指して言った。

「で、それは天蓬からの入れ知恵か?」
「ええ。元帥閣下が仰いましたの。『爛れ具合はあのかたの方が上なんですから。僕の蔵書で一番過激なのでも、ご満足いただけないでしょうね』、と」
「白衣長髪のオタクに言われたかねぇなぁ」
「お互い様という気も致しますが」
「何か言ったか?」
「いえ、別に」

にっこりと微笑むと、は再び朗々と読み始めた。
細い体のわりに、よく通る声をしている。



たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。――


観世音菩薩は、ぼんやりと、書を持つ部下の姿を眺めた。
天界の、彼女の持つ宮の中でも内宮に属するこの場所には、華やかで多種多様な植物が威容を誇っている。
温かく、柔らかな空気の中で馥郁と咲き誇る花々。その中を流れていく、凛とした涼しげな声。
内容を聞き流していると、別の考えが浮かんでくる。
……何かもっと、こんな風にすっぱりと気持ちのいい奴があったよなぁ。何の花だったっけ。

「ああ、そうだ」
「何か?」
「いや」

……朝顔だ。

夜明けに咲き、昼には潔くその身を終える花。
その上に置く露と大差ない、短い命の色。

「で、わざわざ俺に、隠遁じじいの戯言を聞かせるのも、奴の作戦なのか?」

書に目を落としたまま、表情まで素知らぬ風に涼しげに、部下は答えた。

「いえ。この本は私が選んで参りました。以前、あんな事を仰っておいででしたので」
「何か言ったっけ?」
「貴女は、不変のものは嫌いだ、と言っておられましたわ。観世音菩薩様」

は顔を上げて微笑んだ。

「永遠の愛を歌うものより、世の移ろいを嘆くものの方が、お気に召すかと思いました」
「俺は全然嘆いてねえんだよ」

観世音菩薩は、ふんと鼻を鳴らした。

「変化しないものは、その時間が長ければ長いほど、外から判らなくても内から腐っていく。お前だって、よく知ってるだろうよ?」

絢爛たる宮殿の装飾を、彼女は顎でしゃくって見せた。
2人は知っている。豊かで美しく平和な天界は、既にその内から崩れ始めている。退廃を嘆かわしく思う者も、腐敗から甘い蜜を享受する輩も、誰一人としてそれを止める事は出来ない。

は何も言わず、本を膝に広げたまま、静かに、自分の髪に刺していた簪を手に取った。
光にかざすと、小さい透明な石がきらりと光る。

「美しいとは思われませんか?」
「……琥珀か?」
「はい」

丸い橙色の玉の中には、薄い葉片が封じられている。目を凝らせば、葉脈の一つ一つまで、はっきりと見える。

「下界に降りた際、元帥閣下が持ち帰ってくださいました。何もかもが無常である下界に於いては、稀有の物であると」

は悪戯っぽく笑って「御内密にお願いしますね」と言ってから、続けた。

「また同じ時にご帰還なさった大将閣下からは、美味しいご酒を賜ったのですが、ひどく残念がっておられました」
「何をだ?」
「下界で一番美味な酒を卸していた店が、無くなっていたとの事。『これで煙草も無くなったら、下界に下りる意味がない』と仰って、元帥閣下を困らせておられたそうですわ」
「ふふん。奴らしい言い草じゃねぇか」

観世音菩薩は愉しげに破顔した。は、胸中密かな充実感を覚える。
この人を愉しませるという所業は至難の業だ。天蓬を論破する事の次くらいに難しい。
彼女は、簪を髪に戻すと、再び書物に手を添えた。

「『変わらぬ物』『変転を惜しむ心』も、悪くはございませんでしょう?」
「ふん。まあ、モノによりけりだけどな」
「下界では全ての物が転々と変わっていきます。だからこそ、永劫を尊び、無常を嘆くのです」

添えた手で表紙を軽く持ち上げると、は、本を静かに閉じた。

「天界でご覧になるからこそ、変化を面白くお感じになられましょうが、移ろいゆく物の中で、確固として変わらぬ事も、悪いものではございますまい」

あるかなきかの風が流れ、水面の花がゆらゆらと揺れる。

「変わるべき物が変わる事、変わるべからざる物が変わらぬ事、どちらも同様に、私は好ましく思いますわ。でも……」

は、いつか言ってみたくてたまらなかったと言う面持ちで、愉しそうに一言付け加えた。

「……元帥閣下が、こうも言っておられました。『本当に不変のものなんて、理論的には有り得ないんですよ』、と」

ご安心なされました?、と、微笑まれて、観世音菩薩もニヤリと笑った。

「ふふん。今日のところはそういう事にしといてやるよ」
「恐れ入ります」



鈴のように密やかな笑い声が、部屋に満ちた花を微かに揺らしていく。

さざめきは、また、風を伴って、辺りをゆっくりと巡っていった。









知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。

―――― 鴨長明 「方丈記」 序









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