乾坤独歩〜無門の関 その後〜……光明三蔵法師が亡くなったと言う知らせを聞いたのは、それから1年後の事だった。 報せを聞き茫然とする暇も惜しんで、は出来得る限りの伝手をたどり情報を集めようとした、が、詳細は容易には判らなかった。――金山寺に物品目的の暴徒が押し入ったという事。それにより、殆どの門徒は殺されるか行方知れずになったこと――。それ以上は確定的な情報は何も無く、返って、政治的な意図により隠蔽されているかのような感触があった。 大きな組織、まして宗教というものが絡めば、部外者になど容易に情報は漏れては来ない。 詳細のわからぬまま1年の月日が経ち、流石にも諦めはじめた頃、彼女は学院の所用で長安へ赴いた。 その寺院は、町の中心部に威容を誇っていた。 正式に使者として訪れたとは言え、女性であるは門を入ることを許されるはずも無い。彼女は、寺門近くの寺所有の庵に通され、そこで使いの用を済ませてしまった。 勧められた茶菓も断って、彼女はさっさと外に出た。やはり、自分が女だから扱いが違うのか。正式に学院に所属する研究員でも、女性では物品の伝達の用しか足せぬというのか。 は、門前の道をひとり、ぶらぶらと歩き出した。正面から真っ赤な夕日が、彼女を照らした。逆光で、両脇の並木が黒い紙を切り取ったように見える。夕刻が近いが、急ぐ必要は無いだろう。宿も取っていなかったが、野宿だって構わない。彼女は、自分ひとりの身くらい、自分で守れる自信はあった。 門前の市を眺めながら歩いていると、無意識に、溜め息が1つ出た。 何を期待していたのだろう。学問の世界ですら、ここまで来るのに沢山の障害があったのだ。ましてや宗教の世界が、未だこんな時代に、おいそれと女性に門戸を開くはずが無い。この1年、あの方のことを調べていて身に沁みていたはずだ。 「…………光明様……」 我知らず独り言が漏れたとき、いきなり屋台の隙間から、小柄な影がひょっこりと出てきた。 「これから暗くなるのに、供もつけないで帰ろうと言うのかの。豪気な嬢ちゃんじゃ」 「きゃあっっ」 不意をつかれて、思わずは飛びのいた。見ると、飄々とした白眉白鬚の老人が、彼女を面白そうに眺めていた。 「慶雲院のお方でいらっしゃいますか?。あの……『嬢ちゃん』はやめて頂けますか……」 「なんのなんの。若いおなごを呼ぶのに『婆さん』じゃまずかろうて」 老人の高笑いにこめかみを押さえながらも、はあることに気がついた。 先刻、彼女が飛びのくほど驚愕したのは、この老人は彼女の視界に入るまで一切の気配を消していたからだ。この老人、ただの好々爺ではないようだ。 道端の屋台に誘われて、彼女は不承不承着席した。先刻の寺の庵では意地でも断ったものを、この老人の誘いは素直に受けざるを得ないような気がした。運ばれた茶と点心をはさんで、は改めて老人の様子を観察する。やはり見た目は好々爺にしか見えない老僧は、口の端に笑いを残したまま、彼女に問いかけた。 「光明を、知っておられるのかな?」 「はい」 「去年、あ奴が死んだこともご存知か」 「……はい」 「なるほどの……」 老人は呟くと、紙巻の煙草を一本取り出した。その後、あちこちと何かを探してからふんふんと肯き、に向かって「嬢ちゃん。火はもっとらんかの」と言った。 は苦笑すると、携帯していた野営用のライターを点し、両手を添えて差し出した。 深々と一吸いし、満足そうに煙を吐き出すと、老人は彼女に言った。 「いやいや、寺に忘れとったわ。しかし、嬢ちゃんが火を持っとるとは思わなんだ。吸うのかね?」 「いいえ、私の物は屋外で焚き火をしたり、明かりを点すときに使うことが主です。研究室で実験をするときも火を使いますし、持っていると何かと便利なので。それとも……」 「何じゃな」 は笑顔を収めて言いよどんだ。やっぱり、この人もそうなのだろうか……。 「こんな小娘が、女の癖に煙草など吸うのではと、ご不快に思われましたか?」 老人は、からからと笑った。 「何とのォ。煙草なんてものは吸ったから偉いというもんじゃないわい。まあ、吸ってサマになる奴とならぬ奴はおるがの」 は赤面した。呵呵大笑している老人に、拘っているのは他ならぬお前だと、厳しく諌められているような気がした。 「そういえば光明は煙管を吸うておったな。女のような優しげな顔じゃったが、そこそこサマになっておったろう」 「はい。私がお話を伺ったときも、こっそり吸っておられるときでした」 「ほっほっほ、そうじゃろうて」 老人は短くなった吸殻を、灰皿にぽとりと落とした。 「嬢ちゃん。煙草というのはな、やせ我慢なんじゃよ。それが出来ればまあ便利じゃが、出来たから偉いっちゅーもんじゃ無いのじゃ」 吸殻から暫くゆらゆらと立っていた煙が、ふつりと消えた。 「のォ、嬢ちゃん。光明の死の真相を知って、お前さんはどうするつもりなのかの?」 はどきりとし、そして、唇をかんだ。 通りは暗くなり始め、屋台の軒先に明かりが煌々と灯り始める。 彼女は老人の顔を見つめなおし、周囲の喧騒に負けぬよう、努めてはっきりと口にした。 「ご存命中に光明様から、公案を1つ賜りました。私は未だその答えを探しております。迷いのあるままお教えを請いたいというのは甘えであることを重々承知しておりますが、お亡くなりになった以上、それも叶いません。ならばせめて……」 は身を乗り出した。 「せめてあの方が、何に命を託して逝かれたのか、それだけでも知りとうございます。お坊様は、何かご存知ではないのでしょうか?」 老人は、微笑みながら何度か頷いた。そして、もう1本煙草を取り出すとトントンと根元で卓を叩く。その斜に構えた仕草が、妙に老人らしからぬ雰囲気を醸し出していて、何だか可笑しかった。 「嬢ちゃんや。儂ら坊主が、何故女を遠ざけるか、判るかの?」 は首をかしげた。この人の物言いも、どこかしらあの方に似ている。 「怖いのじゃよ。女は強いからのォ、儂らは勝てん」 老人は煙草を咥えると、「もう一度いただけるかの」と言った。 は先ほどと同じように、静かに、それに火を点した。 「お前さんはもう充分に独りで答えを探せるんじゃよ。女というものはな、天と地の間にあるもの全てをその身のうちに持つ。答えは自ずからその身の内に見つかるじゃろうよ」 老人の咥えた煙草の先が赤く染まり、また、ゆらゆらと煙が立ち昇った。 「男は駄目じゃのォ。誰かに託したり、託されたりしないと立ってはおれん。ほんに不完全な生き物じゃ」 老人はふーっと煙を吐き出し、そして、「男っちゅーのはの、せいぜい煙草吸って酒呑んでやせ我慢するくらいしか、能が無いんじゃよ」と言って、またからからと笑った。は、1つ息を吐くと深々と一礼し、そしてやっと、ぬるくなってしまった茶に口をつけた。庵で用を終えたときには疲れも空腹も感じなかったのに、添えられた月餅がとても美味しかった。 老人は、2本目の煙草を吸い終えると、にやりと笑ってに言った。 「さて、すっかり日も落ちたことじゃ。嬢ちゃんにはもう少し爺のやせ我慢に付き合ってもらえるかの?」 「私は煙草は嗜みませんと……」 「いやいや。もう1つのほうじゃよ。酒は飲むかね?」 「ご無礼ながら、そちらは大好きですわ」 「ほっほっほ。そりゃあ頼もしいのォ。店主店主。またツけといてくれるかね」 奥に向かって老人は慣れた風に声をかけた。どうやら常連らしい。厨房のほうから「しょうがねぇなあ。またですかい?。待覚様」と声がした。 「では、行くかいの」 前を行く待覚の背中を眺めながら、もまっすぐな長安の往来を歩き出した。 地上の明かりも、空の星も、天と地に数え切れぬほどに満ちていた。 頌に曰く |