無門の関








講話を終え、伴の者を撒いて、1人探し当てたのは、若草の茂る小さな庭園。
陽だまりに腰を下ろして暫く一服していると、背後から声をかけられた。

「お楽しみのところ、失礼しても宜しいでしょうか。光明三蔵法師様」

声の方を振り向くと、ここの学生と思しき人物が笑っていた。寺院のように皆無でないとはいえ、それでも、若い女性とは珍しい事だ。
「構いませんよ。どうぞ」
光明も、手にしていた煙管で隣を指し示す。「失礼します」と言いつつも、相手は全く遠慮した風でもなく、ふわりと腰を下ろした。
「“三蔵法師”ともあろうお方が、煙草を嗜まれるとは思いませんでしたわ」
「お嫌なら、消しましょうか?」
「いいえ、お構いなく。キセル煙草の香りは、私も嫌いではありませんから」
教師の秘密を見つけた生徒のように、彼女は楽しげにくすくすと笑った。
「それで、私に何のご用ですか?」
彼も、気分を害した風もなく、のほほんと微笑み返した。紫煙がふわふわと、羽衣のように、その周囲を漂う。
問われた方は、僅かに表情を改めて光明の方を見た。
「女性(にょしょう)の身で、直に御教えを賜りとうございます。お許しいただけましょうか?」
「……ふむ」
煙管を持ち替えて、光明も彼女の顔を見直した。

「貴女の名前を聞かせてくれますか?」
と申します。 
「では、。私に答えられる事でしたら、何なりと聞いてください」

は、すいと背筋を伸ばして彼に正対し、発語した。

「『狗子に還って仏性有りや無しや』」

ほう…という吐息を、光明は僅かな煙と一緒に漏らした。禅の基本の公案である。
「犬と言えども、仏の性質を持っているか否か」という意味の問いで、最終的な答えは「無い」とも「有る」とも言える。但し、公案というものは100回問えば100通りの答えがあるとまで言われる。それに、今、彼女が問いたい事は、そう言う意味ではあるまい。

「己が身を、犬に擬えるは、いささか謙遜が過ぎると思いますが?」
「……やっぱり、お見通しですのね」

苦笑する彼女の顔は、先刻の屈託無い笑いとは僅かに違う色があった。

「開けてきたとは言え、こんな学院に身を置ける女性は、まだまだ少数派ですからね。想像はつきますよ。更に、貴女の先ほどの言葉にも、そう言うニュアンスがありましたよ。周囲から言われて反発を感じた事が、却って、無意識に自分の中にもこだわりを作っているのではないですか?」

光明の言葉に、は深くうなずいた。自分でも薄々は気付いていて、それでいて目を瞑っていた事だ。
恐らく、他の人間にこう言われれば、きっと反発してしまうだろうに、この人の言葉は、何故こんなに滑らかに心に入ってくるのだろう……。

煙管をくるくると回しながら、光明は言った。
。貴女は何故、ここで学んでいるのですか?」
「……?」

即答できずに、は相手の顔を見返した。

「それは本当に、貴女の内から湧いた志ですか?。もし、他への反発によって勉学にこだわるのなら、それは貴女を含めて誰のためにもなりませんよ」
「そんな事ありません!。私は本当に学問が楽しくて、だから…………っっ」

思わず強くなりかけたの口調は、静かな、重みを持った声と言葉によって遮られた。

「わかりました。では、何故学問が楽しいのですか?」
「この世の真実に、少しずつ近づくように思えるのです。“知る”という事そのものが、私は楽しいのです」
「ならもう1つ。“楽しい”とは、どのような事でしょう。それを楽しいと感じるのは何故ですか?」

は、もう1度絶句した。
しかし光明は、今度は、そんな彼女を見てにっこりと微笑んだ。
煙管の火が消えかけているのを見て、「おっと…」と一吸いし、彼は更に続けた。

「『女子出定』という話は、ご存知ですか?」
「……いいえ」
「釈迦如来の元で瞑想をしている女性が居ました。後から来た文殊菩薩が、『この女人は何故、仏座近く に居るのですか?』と聞くと、釈迦は『では、彼女の瞑想を覚まして聞くが良かろう』と言いました。
 しかし、文殊菩薩はどうしても彼女を瞑想から呼び戻す事が出来ませんでした。が、修行の初心者の 罔明菩薩が、一度、指を鳴らしただけで、その女人は瞑想から覚めました。……さて、何故でしょう?」
「????」
光明はくすくすと愉快そうに笑った。
「即答しなくて結構です。宿題にしときましょう」
「……はい」

短く答えると、は黙して暫し考え込んだ。それから、再び光明に向き直り、ゆっくりと礼をした。

「でも、やっぱりお話が伺えて良かったです。有難うございました」
「いえいえ、私も楽しかったですよ」
「至らない生徒で申し訳ありません。御山には優秀なお弟子さんが沢山いらっしゃるでしょうに……」
「とんでもない。私は何人も弟子を抱えられるほど、偉くはありませんよ」
光明は、ふうと煙を吐いた。
「それに、寺院の中しか知らない朴念仁は、つまんないですからねぇ」
「…………つまんないんですか?」
あんまりと言えばあんまりな言い方に、思わずの目が丸くなる。
「ええ。あぁ、でも今、私の側付きの12歳の男の子は、面白い子ですねぇ」
「利発なお弟子さんなんでしょうね」
「それだけじゃないですけどね♪」

楽しそうに微笑むと、彼は煙管の灰をポンと落として、袂に仕舞った。

「さて、そろそろ私も戻らなくては。供の者に怒られてしまいますね」
法衣の裾を払って光明は立ち上がった。も立ち上がり、再び、深く礼をして、飄々と立ち去る後姿を 見送った。
何時の間にか日が傾き、夕刻の風が、キセル煙草の香りをゆっくりと散らしていった。










光明三蔵法師が亡くなったと言う知らせを聞いたのは、それから1年後の事だった。
それ以上の詳細は、部外者のには当然伝わるはずも無く、彼女もそれ以上調べ正すことも出来 ず、ましてや金山寺へ出向く事など叶わず、黙視するしかなかった。
“宿題”の答えは未だ見つからず、見つかっても、もうそれを伝えられない事が、とても、心残りだった。






が、玄奘三蔵と出会うのは、更に10年後の事になる。
しかし、彼女はまだ、それを、知らない。









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