シュレディンガーの猫









「箱の中に居るのは、生きた猫か?。死んだ猫か?」

気だるい薄闇の中で、彼が、仰向けのままつぶやいた。言葉に紛れて、煙草の煙が、ぽかりと浮かび上がる。
は、腕を伸ばして枕元にあるはずの灰皿を探る。ナイトテーブルの上にも、文献やら実験道具やらが乱雑に置いてあり、結局、彼女は諦めて、彼に話しかけた。

「貴方は生物学専攻でしょ?。もう、量子力学まで食指を伸ばしているとは、凄いわね」
「シュレディンガーは、後に生命論も書いているよ。象徴的じゃないかい?」

彼は、どんな時も、口の端に皮肉な笑みを絶やさない。情事の時すら、そうだったように思う。そして、その口が語る言葉は、いつも、更にシニカルだ。

「そもそも、量子力学的に見たら、この世の全ての物体は粒子であると同時に波動なんだ。粒子的属性で考えたとしても、原子核を握り拳大の大きさに仮定すると、電子の軌道との間隔は、5kmもの距離になる」

口は笑っているのに、その目は決して笑わない。この世の全てを冷静に観察し、解析しようとする、冷たい、科学者の目だ。

「生命云々どころじゃない。全ての『物質』にだって、確かな実体はないのさ」

あまり吸いつけてもいない煙草を、火も消さずに、ピンと指先ではじく。
赤い火が放物線を描きかけ、中途で、ふっ、と消えた。

「ずいぶん不毛な思想ね。なら、私達は実体の無い物を、こんなに心身を削って研究しているの?」
「そうさ。全ての事象は、観測者の視線に影響される。こうして……」

ベッドから降りようとした所を、腕を掴んで引き戻された。

「君の体を開いて、」

振り払う間も無く、両手首を、シーツに縫いとめられる。

「その表面を、観察する。」

ついさっきまで重ねていた体なのに、その目で見られると、全身が戦慄く。
皮膚に触れるような視線に感じるのは、羞恥というより、恐怖に、近い。

「その、行為だけで、」

反射的に身を捩ると、のど元を強く抑えられた。……息が、つまる。

「君の心も体も、こんなに乱れてるじゃないか。」

声すら上げられぬ状態で、施されるのは、濃厚な、愛撫。

「ボクの、モルモットになったら、」

こんな、実験動物みたいに扱われて、嬉しいはずは、ないのに、

「そしたら、もっと、ヨクしてあげるよ。」

脊椎を駆け上がるのは、狂おしいほどの、快感。


…ああ。この人は、いつも、常に、傍観者なのだ。
この世の全ての事を、事象の外から、見届けようと欲しているのだ。
その、貫くような目で、乱れていく自分を みられルノガ、コンナニ、 気ガ クルイソウ ニ、 イ…










意識が戻った時、彼は既に衣服を身に付けて、やはり、を『観察』していた。
一瞬、羞恥に身が染まったが、すぐに思い直す。
この人に対して、いちいち恥ずかしがるなんて、無駄な事だ。
が、シーツを手繰り寄せて身を起こすと、彼は、言った。

「君は、面白いね」
「…………ほめてるのか、けなしてるのか、判んないわ」
「ほめてるのさ。大抵の女はね、一度、イかされるとモノになっちゃうんだ。本当に、モルモットと同じさ」

彼は、の頤を取って、ぐい、と引いた。

「君は違う。その目は、抱かれた後もまだ、『探求者』の目をしてるよ」

至近距離で観る、観測者の視線。
その目を通して初めて、
決定される、1つの真実。

「ボクと同じだね」

互いに、見つめ合うという行為は、どちらが観測者なのだろう…等と考えて、は、少し可笑しくなった。
この人も、自分が観察される事によって、何かが、変わるのだろうか。

「その目に免じて教えてあげよう。ボクはもうすぐ研究所を出るよ」
「…出て、何処へ行くの?」
「ナイショ。名前も変えるから、ここの関係者とは、もう、誰とも会えないかもしれないなぁ」

確率の数だけ分岐していく多元宇宙。
貴方が、その何処までを乱す事が出来るのか、私も、観てみたい。

「でも、君にだけは、名前くらいなら教えてあげてもイイかな。聞きたいかい?」
「ええ、聞きたいわ。教えて頂戴」

私も、この世の全てを知りたい。貴方と同じに。







「ボクの次の名は、『烏哭』、だよ」








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