一つの石〜2.Theory of Relativity〜特殊相対性理論によれば、運動する物体のエネルギーは次の式で表される。(^2は2乗を表す) 砂漠の夕は冷える。 テントの傍で焚火を眺めながら、は手に包みこんでいたカップに湯を注ぎ足した。更に暫く思案してから、傍らの壜に入った酒を、少しだけカップに落とす。芳香が、暖かい湯気に混じって辺りに漂った。 そのまま、薪が燠(おき)になり、赤い薄布がなびくような光が舞うのをぼんやりと見ている。 遠くで鳥の鳴く声が聞こえる。 空はもう随分前に暗くなり、地平線の際(きわ)の紫もとうに没してしまった。 代わりに、数限りない星が頭上を満たしている。但しそれらも、もう随分出現場所から傾いてきた。 そろそろテントに戻って寝ようかと思い始めたころ。 烏が、啼いたような気がした。 「こんな所に女一人で、相変わらず大胆だねぇ」 「私は貴方ほど大胆じゃないわよ。あのねぇ、何にもご存知ない教授は、それはそれは心配しておられたのよ」 「大丈夫さ。もう心配なんかしてないよ」 「そうね。もう10年以上前のことですものね」 がゆっくりと振り返ると、夜空より暗い墨染めの衣が翻った。 「本当に、久しぶりね。健一」 「今は、烏哭三蔵っていうんだよ」 「そうだったわね。烏哭三蔵猊下」 「嫌味だなぁ。三蔵法師様って呼んでくれないのかい?」 「もう駄目よ。貴方よりずうっと若い人を『三蔵様』って呼ぶようになっちゃったからね」 男は気分を害する風でもなく、笑い顔を張り付かせたまま、焚火の傍に腰を下ろした。赤い、燠き火の光が、その顔を照らした。 その三日月のような口が、更に、言葉を紡ぐ。 「でも君はさ、あの金髪の彼より、眼鏡のお兄さんの方が好きでしょ?」 「ええ、そうよ」 は微笑んだ。 「一見、貴方と似てるようで似てない男なのよねぇ。彼は、自分で考えてるよりずっと、『命』に執着があるから」 「僕も一応『生命工学者』なんだけどなぁ」 「自分が本当に執着してるものなんて、研究対象には出来ないもんよ。貴方、自分のものも含めて、生命が重たいなんて感じてないでしょう?」 「うん。そうだね」 男もあっさりと肯定した。 溢れるような銀河を横切って、星が1つ、流れた。 「命なんてものはさ、必死になって追い求めていくと、どんどんつまんないものになってきちゃうんだよね。生命活動って言うのも、結局はシステムでさぁ、神秘でも何でもないのにね」 風が吹いて、静まっていた炎がふわりと舞い上がった。 踊る光が、ゆらゆらとゆらめいて男の顔を照らす。 「誰も彼も有難がるんだよね。馬鹿みたいに」 「システムなのはよく判ってるわよ。でも、解明し尽くされてない部分は認めて尊重する分には……」 そこまで言って置いて、は何かを思い出したように言葉を止めた。 苦笑と尊崇の混じったような微笑が、彼女の顔を横切った。 「解明なんかしなくても関係ない方も居られるわね。『神は誰も救わない』と言い切ったお坊様がいらっしゃるわ」 「知ってるよ。彼も可愛い小坊主さんだったのになぁ」 「……本人に言ったら、殺されるでしょうね……」 男女は互いに顔を見合わせて、にやりと笑った。 は、焚き火の燃えさしを新たな木で突付きながら、夢見るような目をして、言った。 「ねぇ。解明されたシステムって、そんなに卑小なものかしら」 静まりかけていた焚き火は、また、炎を上げて燃焼を始めた。 木片の中の炭素が酸素と結合し、紅くゆらめく光と熱を吐き、二酸化炭素になって、天へ昇っていく。 「私はね、神秘を貶めたくて、神様のパズルに挑んでる訳じゃないのよ。解明されて立証されたシステムって、それがシンプルなほど崇高なものだと思うの。とても単純で、極めて堅い理論の上に成り立っている法則そのものを、私は神秘だと思うわ」 「じゃあ君は、まだ正体のよく判んない神様より、解明されて立証されてなおかつ有難いその『法則』の方が大事なのかな?」 「その質問は定義から間違っているわね。法則とか理論って言うのは、大事にされるような物じゃ無いじゃない。よっく判ってるくせに」 彼女はまた、けらけらと笑った。 「疑われて、反証を試みて、それでも壊れないものが『公式』足り得る訳でしょ。違う?」 「まぁね」 「それに、決して壊れない物が尊くて、壊れてしまう物はそれに劣るって言うのもナンセンスでしょ?」 「…………。」 男は答えずに、ただ、口の端を上げた。 それを見たも、猫の様に目を細め、それからゆっくりと空を仰いだ。 「世界なんてモノもね、研究し尽くしていくと、ぶっ壊し方が判っちゃう事があったわよねぇ」 「ああ、あったねぇ。そんな事」 は自分とは別のカップを取り出し、酒を注ぐと微笑みながらそれを差し出した。 受け取った男は、静かに、と自分の杯を合わせた。 幾万の星々が、地上の一つの炎を見下ろしているように観えた。 それは、相対的な観測者の視点であり、宇宙に絶対の真理が存在するのか否かは、まだ誰にも、判らない。 この世の理(ことわり)を表した1つの式。 E=mc^2 もう、今は昔、 時空の真理を追い求めた、1人の男。 Ein - stein(アイン−シュタイン) 一つの 石。 |