一つの石

〜2.Theory of Relativity〜



特殊相対性理論によれば、運動する物体のエネルギーは次の式で表される。(^2は2乗を表す)
E^2=m^2c^4+p^2c^2
ここで、E はエネルギー、m は質量、 はp運動量、c は光速である。
物体が静止している場合、p=0であるから、
E^2=m^2c^4+0*c^2
E^2=m^2c^4
両辺を平方すると、
√E^2=√m^2c^4
∴E=mc^2

つまり、一定の質量を持つ物体はそこに存在するだけで、
質量×光速の二乗分のエネルギーを持つのである。――――





砂漠の夕は冷える。
テントの傍で焚火を眺めながら、は手に包みこんでいたカップに湯を注ぎ足した。更に暫く思案してから、傍らの壜に入った酒を、少しだけカップに落とす。芳香が、暖かい湯気に混じって辺りに漂った。
そのまま、薪が燠(おき)になり、赤い薄布がなびくような光が舞うのをぼんやりと見ている。

遠くで鳥の鳴く声が聞こえる。
空はもう随分前に暗くなり、地平線の際(きわ)の紫もとうに没してしまった。
代わりに、数限りない星が頭上を満たしている。但しそれらも、もう随分出現場所から傾いてきた。
そろそろテントに戻って寝ようかと思い始めたころ。

烏が、啼いたような気がした。

「こんな所に女一人で、相変わらず大胆だねぇ」
「私は貴方ほど大胆じゃないわよ。あのねぇ、何にもご存知ない教授は、それはそれは心配しておられたのよ」
「大丈夫さ。もう心配なんかしてないよ」
「そうね。もう10年以上前のことですものね」

がゆっくりと振り返ると、夜空より暗い墨染めの衣が翻った。

「本当に、久しぶりね。健一」
「今は、烏哭三蔵っていうんだよ」
「そうだったわね。烏哭三蔵猊下」
「嫌味だなぁ。三蔵法師様って呼んでくれないのかい?」
「もう駄目よ。貴方よりずうっと若い人を『三蔵様』って呼ぶようになっちゃったからね」

男は気分を害する風でもなく、笑い顔を張り付かせたまま、焚火の傍に腰を下ろした。赤い、燠き火の光が、その顔を照らした。
その三日月のような口が、更に、言葉を紡ぐ。

「でも君はさ、あの金髪の彼より、眼鏡のお兄さんの方が好きでしょ?」
「ええ、そうよ」

は微笑んだ。

「一見、貴方と似てるようで似てない男なのよねぇ。彼は、自分で考えてるよりずっと、『命』に執着があるから」
「僕も一応『生命工学者』なんだけどなぁ」
「自分が本当に執着してるものなんて、研究対象には出来ないもんよ。貴方、自分のものも含めて、生命が重たいなんて感じてないでしょう?」
「うん。そうだね」

男もあっさりと肯定した。
溢れるような銀河を横切って、星が1つ、流れた。

「命なんてものはさ、必死になって追い求めていくと、どんどんつまんないものになってきちゃうんだよね。生命活動って言うのも、結局はシステムでさぁ、神秘でも何でもないのにね」

風が吹いて、静まっていた炎がふわりと舞い上がった。
踊る光が、ゆらゆらとゆらめいて男の顔を照らす。

「誰も彼も有難がるんだよね。馬鹿みたいに」
「システムなのはよく判ってるわよ。でも、解明し尽くされてない部分は認めて尊重する分には……」

そこまで言って置いて、は何かを思い出したように言葉を止めた。
苦笑と尊崇の混じったような微笑が、彼女の顔を横切った。

「解明なんかしなくても関係ない方も居られるわね。『神は誰も救わない』と言い切ったお坊様がいらっしゃるわ」
「知ってるよ。彼も可愛い小坊主さんだったのになぁ」
「……本人に言ったら、殺されるでしょうね……」

男女は互いに顔を見合わせて、にやりと笑った。
は、焚き火の燃えさしを新たな木で突付きながら、夢見るような目をして、言った。

「ねぇ。解明されたシステムって、そんなに卑小なものかしら」

静まりかけていた焚き火は、また、炎を上げて燃焼を始めた。
木片の中の炭素が酸素と結合し、紅くゆらめく光と熱を吐き、二酸化炭素になって、天へ昇っていく。

「私はね、神秘を貶めたくて、神様のパズルに挑んでる訳じゃないのよ。解明されて立証されたシステムって、それがシンプルなほど崇高なものだと思うの。とても単純で、極めて堅い理論の上に成り立っている法則そのものを、私は神秘だと思うわ」
「じゃあ君は、まだ正体のよく判んない神様より、解明されて立証されてなおかつ有難いその『法則』の方が大事なのかな?」
「その質問は定義から間違っているわね。法則とか理論って言うのは、大事にされるような物じゃ無いじゃない。よっく判ってるくせに」

彼女はまた、けらけらと笑った。

「疑われて、反証を試みて、それでも壊れないものが『公式』足り得る訳でしょ。違う?」
「まぁね」
「それに、決して壊れない物が尊くて、壊れてしまう物はそれに劣るって言うのもナンセンスでしょ?」
「…………。」

男は答えずに、ただ、口の端を上げた。
それを見たも、猫の様に目を細め、それからゆっくりと空を仰いだ。

「世界なんてモノもね、研究し尽くしていくと、ぶっ壊し方が判っちゃう事があったわよねぇ」
「ああ、あったねぇ。そんな事」

は自分とは別のカップを取り出し、酒を注ぐと微笑みながらそれを差し出した。
受け取った男は、静かに、と自分の杯を合わせた。

幾万の星々が、地上の一つの炎を見下ろしているように観えた。
それは、相対的な観測者の視点であり、宇宙に絶対の真理が存在するのか否かは、まだ誰にも、判らない。










この世の理(ことわり)を表した1つの式。
E=mc^2
もう、今は昔、
時空の真理を追い求めた、1人の男。

Ein - stein(アイン−シュタイン)
一つの 石。








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