卵と鶏と、そして悲しみと― 前編 ― 山の天気ってのは、変わりやすい。 吹雪くかもしれないから、と、麓で暮らすおばさんが親切にも貸してくれた外套が、思いのほか早々に役に立つことになりそうだ。 周りの景色は、ちらちらと雪が舞い始めていて、このぶんだと夜を待たずに視界を遮るほどになるのかもしれない。 「――最悪だわ」 小さく舌打ちしたが、受けてしまった依頼を投げるわけにはいかないと、外套の前を強く合わせた。 立ち寄った小さな村で、ちょっとした妖怪退治の依頼を受けたのは、つい先日の話。 『最近姿を見せなかった妖怪が再び出没するようになり、女を中心に攫っては喰っているらしい』ので、その妖怪を片付けろ、と。 情報収集という名目で、村のおいちゃんたちと飲み比べしたりして『穏便』に聞いたりした結果、ある一人の妖怪の名前が浮上した。 けれど。 あたしは、その妖怪を知っていた。 いや、そいつの性格も、ほんの一時の間だけではあるものの、大方把握できたのを、あたしは敢えて伏せることにした。 これでおまんま喰いっぱぐれることになったらそれはそれで寂しいし、何よりもその情報が信じられるものかどうかもあやしい、というのが理由だ。 いや、酔っ払いの言うことってわかんないから。 こんなしょーもない屁理屈をこねる辺り、あたしとしてはどうにもならない。 それはおいといて。 ともあれ、あいつがそんな非道な真似をするようには思えない。 頭の中では、常にその一文がぐるぐると回っていた。 そうこうしているうちに、雪はいよいよ勢いを増し、風も随分強くなってきた。このままでは、山に慣れた人間すらも迷って行き倒れる可能性が高い。 まして、たまたま通りすがっただけのよそ者のあたしが迷ったとなれば、いとも簡単にぽっくりと逝きかねない。 「困ったわ」 ぽつり、呟いた言葉は、白い息といっしょに宙に溶けていった。 その時。 「――!」 声が、する。微かにだけれど、確かにヒトの声だ。 「どこ?」 反射的に、あたしはそれに向かって問い掛けた。雪崩にでもなったら洒落にならないが、こればかりは仕方が無い。できるだけはっきりした声音で、意識して少し大きめの声を出す。 「――こっちだよ」 囁くような声とともに、ひらりと小さな子供が横に並んだ。 この子は、何者だろうか。いくら注意していなかったとはいえ、気配を悟らせずにあたしに近づいてきた、とは。 まだ十にも満たないだろうその子供は、黒い髪と眼をして、じっとこちらを見つめていた。伸ばしっぱなしのざんばらな髪の隙間から、尖った長い耳が覗いている。 「――あんた、妖怪なの?」 思わず、間の抜けた声で子供に言ってしまった。 その子の目は、こちらもびっくりするほど無機質で、強い輝きなどは微塵も感じられない。 しかし、人を惹きつけざるをえないほどの透き通った目をした子供だった。 「このままだと、大荒れに荒れる。俺が住んでる洞穴で、今日は休んだ方がいいよ」 『この荒れた空の下じゃあ、のたれ死ぬぜ。お嬢ちゃん』 何故だろうか。 目の前の子供と、あの時出会ったあいつの瞳が、だぶって見えた。 自分が住んでいるという洞穴に案内した子供は、まずは身体を温めるのが先決だからと熊の肉でこしらえたスープを振舞ってくれた。 そいつをはふはふと掻き込みながら、あたしは子供に犯人らしき妖怪のことについて色々と聞き出すことにした。 ああ、冷えた身体に染み込む、熊の肉の癖の強さよ。 ……そんなことはどーだっていっか。 「……で、あんた名前は?」 ひとまず自分の名前を名乗ってから、子供の名前を聞く。このままずっと『名無しのゴンベエ』で通すつもりもないし、何といってもどう呼べばいいか分からない。 このくらいのお子様は非常に敏感なお年頃だし、まさか『チビちゃん』呼ばわりもまずかろう。 「――耶雲」 「耶雲?」 「うん」 「お父さんとお母さんは、何をしているの?」 「父ちゃんも母ちゃんも死んじゃった。ずっと前に」 ……うあ、しまった。暗くなってしまった。 は、話を変えよう。 「えっと、耶雲は、どうしてここに住んでるの?」 「――離れたく、ないから」 「何?それ」 「……父ちゃんと母ちゃんが死んですぐに、俺、この辺りで凍え死にかけたんだ。その時助けてくれたおっちゃんっていうか、人がいて」 「――ちょっと待って」 慌てて、子供――耶雲の言葉を遮る。 「その人って、黒い髪で無精ヒゲ生やしてて、無駄にごついゴーグルかけた山男みたいな妖怪の奴?」 「――知ってるんだ」 小さく呟いて、耶雲はあたしを見た。 一見無表情だが、そこはかとなく目元や口元が和らいだ――ような気がする。 「――そうね。一度、あたしもあいつに助けられたのよ。こーんなナイスバディのいい女捕まえといて『お嬢ちゃん』呼ばわりする失礼な奴だったけどさ」 言いながら、茶目っ気を出してセクシーポーズなぞ披露してみるが、当の耶雲はにこりともしない。 うう、可愛げのないお子様だこと。 そればかりか。 「お姉ちゃん、そうやって胡座かいたままだと、ちっとも『いい女』に見えない」 至極まっとうなツッコミを返してくれた彼を、あたしはジト目で睨み付けた。 「――でも、耶雲はそんな人だよ。あの人にとって困ってる人は、助けなきゃいけない存在なんだ。仲間だろうと――人間だろうと」 「――そうだよね」 けれども、そのまっすぐで静かな言葉は、あたしの心に優しく染み渡った。 この子も、あいつの性分をよく知っているのだ。そして――これは憶測だが――、彼は同じ名前の妖怪に対して、尊敬だとか誇りといった感情を持っているのだろう。 まあ、ひたすら能面みたいに無表情を保ったままだし、あたし自身他人の心を読む芸当などはできないので、あくまでも推測だが。 「んで、ね。実は、その耶雲を探しているのよ」 「耶雲を?何で?」 「んー……その時のお礼もしてないし……。久しぶりにあの濃ゆい顔を拝みたいからってのもあるんだけどね」 まさか『退治しろって言われたから探してとっちめる』と説明するわけにもいかず、ぽりぽりと頬を掻きながらてきとーにごまかしてみた。 だが、彼は静かに首を振った。 「お姉ちゃん。嘘は、よくない」 「え」 思いがけない耶雲の言葉に、あたしは思わず言葉に詰まった。頬を掻いていたはずの指も止め、呆然と目の前の子供を見つめ返す。 対する彼は、まっすぐに静かな視線を返すだけだ。 「俺、何となくだけど分かった。お姉ちゃんが、耶雲を探してるわけ」 驚くほど勘の鋭い子だ。あたしの一挙一動を注意深く観察して、こちらの目的を見抜いてしまったのだろう。 仕方が無い。 あたしはため息を一つつくと、麓の村で受けた依頼の話を語り聞かせた。 「――とゆーわけでね。 個人的には、耶雲と闘う気にはなれないのよ。だって、女を攫って喰い散らかすような奴には見えないんだもの」 だから、真実を知りたい。ちゃんと、あいつの言葉で。 「ね、耶雲。あいつの居場所、わかる? 分かるのなら、教えて欲しいの。あいつがそんなことをするわけがないって、頭ん中ではわかっているけど……。 もしも本当だとしたら、あたしはあいつを倒さなきゃいけない」 だから、隠さずに教えて欲しい。 あたしは、耶雲の目をまっすぐ見て言った。 彼はしばらく固く唇を結んでいたが、やがて小さなため息を一つ。 「――耶雲は、いないよ」 「え?」 問い返すあたしに、今度ははっきりとわかるほどの悲しそうな顔をして、あいつと同じ名前の小さな妖怪は言った。 「耶雲は、もういないんだ。 ――死んじゃったから」 重い、重い現実が、そこにはあった。 |