NAIL夜の街を歩いていく。一日の仕事を終えた人、始める人、ただ当ても無く歩く人。早さの違ういくつもの流れの中を、泳ぐように進んでいく。 この街は昼よりも夜の方が明るい。居酒屋、ドラッグストア、電器屋、コーヒースタンド。居並ぶ店はそれぞれに、瞬く電飾で癒しを売り物に誘いを掛けてくる。マニュアル通りの笑顔でビラを配る少女の横をすり抜けて、はゲームセンターの角を曲がった。 明るすぎる大通りから一本脇道に曲がると、街はほの暗く表情を変える。電柱にはちぎれかけたピンクチラシ。空のペットボトルが転がる狭い路地は妙にぬめって、注意しないと何を踏みつけるか分らない。建物の隙間には隠れるように黒い人影が佇み、煙草の火だけがぽつりと赤い。 そんな裏通りにも馴染んだ風では歩きつづける。やがて古びたビルの前で足を止めた。見上げた二階の窓に灯りはついていない。居ないはずは無い。いい加減に見えて、人との約束は破ったことがない男だから。 ―でも、もしかしたら……― 仕事が伸びた。急な仕事が入った。事故か怪我をした。もしくは……忘れている。はビルに入ると狭い階段を一段ずつ踏みしめて登った。突き当たりのドアの前で足を止め、薄暗い蛍光灯に手をかざす。 スクエアオフにカットした爪は筋もへこみも無く、艶やかな薄桃色に磨かれている。 夕べ念入りに手入れをした甲斐あって、指先には勿論ささくれも甘皮も無い。準備は万端、だが相手がいなかったら全ては空廻り。 ドアノブに手を掛けて軋むドアを押す。 「悟浄?」 返事がない。 ドアに鍵がかかっていないのだから、留守ではないはず。という常識は、この部屋の住人には通じない。気が向かなければ居ようと居まいと鍵は掛けない。「取られるようなもんねぇし」というのが当人の言い分だ。 灯りのスイッチを入れて部屋を見回す。大小のブラシ、空き瓶、切り抜かれた雑誌。 は床に散らばる物を避けながら、部屋の隅に据え置かれた黒い革張りのソファに向った。 足が一本折れているこのソファは、粗大ゴミ置き場からの戦利品だ。悟浄はとても気に入っていて、重ねた煉瓦を折れた脚の代わりにして使っている。新しいのを買えばいいのに、とが言っても聞き入れない。 時折り差し込む車のライトに目をこらすと、壁を向いたソファの背から赤い触角がゆれるのが見えた。は足音を忍ばせて近づき、そっと覗き込んだ。 悟浄が寝ている。 ずり落ちる寸前の微妙なバランスで、ソファに体をもたせて。手の甲にラメがうっすら光っているのは、仕事を終えてそのままなのだろう。 顔を近づけて軽く息を吸い込んでみる。汗と煙草と牡の臭い。髪も眉も閉じた目蓋をふちどる睫毛も鮮やかな赤。ボートネックの衿元からのぞく、少し日に焼けた肌。 頬の傷跡を皮膚から三センチ指を離してなぞってみる。起こしてしまわないように。 晩秋の風が窓ガラスを揺らす。火の気のない部屋は上着を着ていても肌寒い。なのに悟浄の傍にいると、ほんの少し暖かい気がする。 規則正しい呼吸。充足しきった寝顔。ずっと見ていたい気もするが、ぐずぐずしていると今日が終わってしまう。は手を伸ばすと、寝息と同じリズムでゆれる触角を、軽く引っ張った。 「ご・じょ・お。起きて、風邪引くわよ」 「ぁ〜〜?」 悟浄は目を閉じたまま、うるさそうにの手を払った。 「起きて、もう七時よ」 悟浄は顔を両腕で覆ってソファに突っ伏す。 「俺ぁ寝たの、今朝の三時なんだけど」 「今は夜の七時なんだけど」 のろのろと悟浄が顔を上げた。 「マジで?」 「十六時間も寝れば、もういいでしょ。起きて」 悟浄は体を起こすと大きく伸びをした。チャコールグレイの薄いニットの下で、筋肉がしなやかに伸びる。 「シャワー浴びてきたら?」 「そーするわ」 欠伸をしながら悟浄は立ち上がり、部屋の奥のドアから出て行った。流れる水音を聞きながら、は灯りと古ぼけたストーブを点けた。上着を脱ぎ小さなキッチンに立つ。湯を沸かして、コーヒーを濃い目に二人分淹れる。遠慮なく冷蔵庫を開けて、ミルクを取り出すと片方のカップに注いだ。 ソファに戻ってミルク入りの方のカップを持ち上げた時、悟浄が戻ってきた。下はジーンズ、上はタオルを掛けただけ。髪から滴る雫が肌を濡らし、筋肉の流れにそって滑り落ちる。 「おはよう」 「おはよーゴザイマス」 悟浄はの隣に腰を下ろすと、ブラックの方のカップを取り上げて一口すすった。 「きのうは遅かったんだ?」 「モデルのスケジュールが押してな、来たら今度は曇りやがるし」 「お疲れ様」 フリーでメイクの仕事をしている悟浄は、その気軽な性格と腕の良さを買われて、地方のロケやグラビア撮影に声が掛かる事が多い。生活時間が不規則なのは当たり前、だが、それはこちらも同じ事。 そうでなくてもお互い忙しくて、すれ違いの日が続いているのだから、年に一度しかないチャンスを逃がしたくはない。 「寝起きに悪いんだけど、約束のアレは?」 「はいはい。できてますよ〜」 悟浄は立ち上がるとデスクからアクリルのケースを取り上げた。の前に差し出して蓋を開ける。 中にはネイルチップが一組。ベースカラーはパール・ベージュ。小指から人差し指にかけて緑の蔓が這い、親指で薔薇が咲いている、一続きのデザイン物だ。薔薇の花弁はクリーム色、先端だけが濃いローズ・ピンク。アクリル絵の具のてかりが抑えられた、上品な仕上がりにの口元がほころぶ。 「さすが、いい出来」 「とーぜん」 ネイルもメイクもコーディネートするべきだ。そう言い出して悟浄は、最近ネイルアートも始めている。髪をかきあげた時、頬杖をついた時。顔と指先が引き立てあって、カメラ写りが格段に上がる。とモデル内では評判がいいらしい。 「じゃ、お願い」 は両手の指をそろえて差し出した。 「今からかよ」 「今夜いるのよ。言わなかった?」 「オフに働かせる気か?」 文句を言いながら悟浄はの手を取った。プロの視線に曝されて指先が少し緊張する。 「相変わらず、きれーに手入れしてるのな」 それは当然。普段からモデルや女優を見慣れている悟浄が相手なのだから、隙は見せられない。 悟浄はソファから立ち上がると、いい加減くたくたになったネルのシャツを上半身に羽織った。そしてデスクから仕事用のバニティ・ケースを取ると、の隣に戻る。 マッサージクリームを取り出して指先にすくい取り、掌になじませて温めながら悟浄は言った。 「おら、寄越せよ」 「ん」 まず右手から預ける。悟浄の大きな掌がのそれを包み込み、まんべんなくクリームを塗っていった。まずはゆっくりと親指の付け根を押す。そして悟浄の指はクリームを馴染ませながら、の親指から小指へと移っていった。指先から付け根へ、一本一本を丁寧に揉みほぐしていく。 「ココ痛くねぇ?」 「ん、ちょっと」 悟浄の体温で温まったクリームが、の肌を潤していく。 右手を終えて、悟浄はの左手をとった。手首の少し上を取られて、の掌はくたりと悟浄の手の中に垂れる。何も考えずに悟浄の指の動きだけを追っていると、少しずつ肩の力が抜けていく。 悟浄がモデルの女達に人気があるのは、腕のせいだけではないだろう、といつも思う。 たぶんまだ開いてもいない蕾の香りを、悟浄は嗅ぎ当てるのだ。そして硬くつぼんだ薄い花びらを、一枚ずつ丁寧に丁寧に緩めていくの好きなのだろう。 悟浄は花の性質に合わせて日光や水のように与えるように、アイカラー、チーク、ルージュ、ファンデーションを使い分け、葉や枝を剪定するように眉や爪を整える。 だがその赤い瞳で見つめられて、その指で触れられることが、なによりの糧になることに気づいているのか、いないのか。 やがて鏡の中に咲いた艶やかな花を見つけて、女達は狂喜する。そして自信と賞賛を糧に次々に大輪の花を咲かせていくのに。 「いーね、綺麗な女の子は」 そう言って悟浄はあっさりと花達を手放すと、また次の蕾に取り掛かるのだ。いつもいつも。 咲いてしまった花には興味はないの?そう聞いてみたい。でも聞くのが怖い。 悟浄はマッサージの仕上げに、の小指の先をかるく摘んで振った。細い指は猫の尻尾のようにくにゃりと曲がる。実際、喉でも鳴らしてすり寄りたい気分だ。夜気に冷えていた指先が今は熱い。 次に悟浄はコットンにアルコールを含ませると、爪についたクリームをふき取っていった。一瞬のひやりとした感触に、弛緩しかけていた神経がまた緊張していく。 危ない、危ない。 接着用のシールを爪の形に合わせて切ると、悟浄は一枚ずつの爪につけていった。は指先に緑の蔦が伸びていく様子を、じっと見守る。 「今日なんかあんの?」 手元から目を離さず悟浄が問い掛ける。 「ちょっとね、大事な勝負がね」 「どおりで気合入ってると思った」 「爪までしっかり武装しないと、勝てそうにない相手なの」 悟浄の口元が薄く歪んだ。 「大した奴だな、あんたにそう言わせるたぁ」 片頬だけの笑みで答えてみせる。 「いい加減で、女ったらしで、困っちゃうの」 右手の五本の指にチップを付け終わり、悟浄は左手に取りかかる。 「だったら止めとけよ」 「でも欲しいの」 「勝手にしろ」 「そうね」 は右手を持ち上げてしげしげと眺めた。肌の色とよくあって、指先に直に花が咲いたようだ。 クリーム色の薔薇をオーダーしてみたが、赤いほうが良かっただろうか。でも赤では目立ちすぎる、ような気がする。 「今日はね、その人の誕生日なの」 一つ息を呑みこんで、悟浄が乾いた笑い声を上げた。 「プレゼントはワタシってか?」 「そんなベタな真似しない。逆よ」 「逆?」 左手の親指に最後のチップが付いた。 「年に一度のその日にね、丸ごと一人占めしたいの。その人を」 の両手が悟浄の腕を捕らえる。指先の緑の蔓を巻きつけて絡め取る。 ―あ……― 蔓に棘が無い。これでは逃げられてしまう。一瞬ためらいを見せたの手に悟浄の掌が重なった。 「普通、誕生日ってなんかくれるモンじゃねぇの? それを寄越せってか」 「嫌なら止めるけど」 「嫌、じゃねぇな」 ゆっくりとの視界が赤く染まっていく。赤い髪と赤い瞳に侵食されて、目が眩む前に目蓋を閉じた。少しかさついた、だが暖かい感触が唇に触れる。そのまま流されそうになって、は目を開くと悟浄の胸に手を当てて押し戻した。 「ちょっと待って、大事なこと言うの忘れてた」 「ぁんだよ」 おあずけを喰らって恨めしそうな悟浄の耳元でささやく。 「お誕生日、おめでとう」 「そりゃどーも」 |