PINKIE RING




首筋が寒くて目がさめた。
―ん・・・・・・―
布団を引き寄せようとして、は一瞬動きを止めた。
窓の辺りで人の気配がする。冷たい夜気は開いた窓の外から流れ込んでいるのだ。ここは宿の3階で窓は通りに面している。治安はそう悪い街ではないし、寝る前に戸締りは確認した。
一つ一つ思い出すうちに、寝ぼけていたの頭がだんだん覚めていく。

―泥棒? それとも・・・―

人の気配はこちらの様子を覗うように、しばらく窓の辺りを動かなかったが、やがて窓を閉じ部屋の中に入り込んできた。忍ばせた足音が、の寝ているベッドの脇を通り過ぎ、ぎっぎっと部屋の出口に向かっていく。
「う・・・ん」
寝たふりを続けながら、はそろそろと枕の下に手を差し入れていく。そこに忍ばせておいた短剣を握りしめると、は薄く眼をひらいた。
部屋の隅に人影がうずくまっている。暗闇を透かして見えるのは二本の赤い触角、そして空気に混じるハイライトの匂い。
体中から力がぬけた。はむっくりとベッドに半身を起こして問いただす。

「なにやってンの? 悟浄」
「悪りィ、起こした?」

部屋の床にしゃがみ込んで、バツの悪そうな顔をしているのは、確かに悟浄だった。

「宿に戻るのが遅くなってよ、締め出されちまった」
「夜遊びがすぎるからでしょ」

ため息まじりにそう言うと、は握った短剣をそっと枕の下に戻した。とけた緊張と一緒に、眠気もどこかに吹き飛んでしまった。枕もとの時計を見れば、とうに夜半をすぎている。

「で?」
「一晩泊めてくれねぇ? 床でいいからさ」
「そりゃ構わないけど・・・」

砂漠のはずれのこの辺りは、昼と夜との温度差が激しい。昼間の焼けるような暑さと、夜中の凍えるような寒さのくり返しだ。
薄いパジャマの下の肩が、そろそろ冷えてきた。はやく布団にくるまってぬくぬくと眠りたい。だが同じ部屋の隅で悟浄が丸まっているかと思うと、おちおち寝てもいられない。

「こっちに来れば?」

そう言っては掛け布団を少しめくって見せた。

「さんきゅ、やっぱ優しーよな。はさ」
「ン・・・」

は気のないふりであくび交じりにうなづくと、少し左によってベッドの場所をあけた。そこに悟浄が猫のようにするっと中にもぐり込んでくる。

「お〜、あったけぇ〜」
「寒いから早く入って頂戴な」

悟浄とはもぞもぞと動いて、ベッドの中に自分の体を落ち着かせていった。の肌にふれる悟浄の体は、どこもかしこも冷たい。

「こんなに冷えちゃって、どこで何してたのよ」
「ナイショ」
「あ、そぅ。じゃあベッド代はらってね」

は悟浄の左腕をとって伸ばさせると、その上に自分の頭をのせた。

「へぇへぇ」

シーツと毛布の間の空気が二人の体温で少しずつ温まっていく。
はくすんと鼻をならした。悟浄の体からは、いつも通りの匂いがする。
汗、酒、煙草。それに移り香らしい香水。

―石鹸の匂いがしないだけマシ、ね―

酒場か賭場で遊んでいたのだろう。
いつ、どこで、だれと、なにを。
鬱陶しいのはお互い嫌いだから、それは聞かない。
聞けない。

「悟浄、もう寝ちゃった?」

口に出せなかった問いの代わりに名前を呼んでみる。

「ん?」

もう寝かけていたはずなのに、悟浄は律儀にの側に顔を向けた。以前に比べて少し削げた頬に赤い髪がかかる。
それを払おうとしては右手を伸ばした。
悟浄の左頬から髪を後ろに撫でつけて、そのまま手を悟浄の頬にあてる。少しのびかけた髭の感触。その中のさらりとした筋が二本。
悟浄の左頬の傷。
はそれを指でつっと辿ってみた。左頬からななめに顎、そして右頬。小指が半開きになっていた悟浄の口元にかかる。そこだけ不思議に柔らかな手触りを追って、の小指が悟浄の口に潜りこんだ。
悟浄はだまっての好きにさせている。
歯の間をくぐりぬけたの小指の先は、温かく湿った感触に包まれた。軽く小指を曲げてみると、上あごの裏側をつるりと指先がすべった。

「くすぐってぇ」

悟浄がの手首をつかむ。

「食っちまうぞ」

はくすくすと笑って答えた。

「いいわよ、できるンならね」
「言うじゃねぇの」

悟浄はの手首をつかんだまま、あごに力を入れる素振りをする。だがの指を挟んだ歯は、まだ甘噛みのままだ。

「全然ね」

悟浄の腕に頭をもたせたままは、笑って手を引こうとした。
その瞬間、悟浄の歯がの小指に食い込んだ。

「ッ!?」

の口から、小さな悲鳴が漏れる。逃げようとするの手首を悟浄は握りしめて放さない。
それは一瞬のことだったのだろう。
互いの息のかかるくらい近くに、悟浄の顔があった。いつも冗談と口説き文句をふりまく口が、の指を束縛している。
捕らえられた指の付け根はきりきりと痛むのに、指先は柔らかに包み込まれて・・・熱い。
悟浄の紅い切れ長の目がうすく笑って問い掛ける。

―どうして欲しいワケ? −

のどにからんだ声では答えた。

「放して頂戴、悟浄」

悟浄はゆっくりと口を開くと、の小指を解放した。
月明かりに透かして見れば、濡れた小指の根元近くには、くっきりと赤い歯形が刻まれている。

「痛いか?」
「平気」

は微笑んで首をふる。悟浄は寝返りをうって、の上に覆い被さった。

「寝ようぜ、もう」
「そうね」

は静かに目を閉じた。悟浄の体の重みと疼くような小指の痛みをうっとりと感じながら。
翌朝、が目を覚ますと、悟浄の姿はもうなかった。ベッドの左側はからっぽで、ただ白いシーツに赤い髪が二、三本落ちているだけだった。
はその髪をつまみあげると、右手の小指に巻きつけた。
一回、二回。細くしなやかな赤い髪は小指をしめつけ、やがてぷつりと切れた。はそれをほどくと床に落とした。
部屋の窓と扉に目をやると、しっかりカギがかけてある。たぶん出るときに悟浄が外から掛けていったのだろう。そういう技術はこちらが呆れるぐらい豊富な悟浄のことだ。

―妙なところで真面目なンだから・・・―

夕べ横たわった時にはぱりっと糊の利いていたシーツが、今は二人分の体温と重みで柔らかく皺になっている。なんの気なしにその皺を伸ばそうとはシーツの上に手をすべらせた。その眼がふっと右手の小指にとまる。
そこにはいつも通りの自分の指があった。
ゆうべの薄赤い歯型も、甘い痛みもなにも残せかなった指。
は小指を口元によせて軽く曲げた。根元近くに歯を当てると、薄い皮膚の下で骨がうごく細い感触が伝わってくる。

―いっそ・・・・・・―

きりっと歯に力がこもる。

―噛み切ってくれればよかったのに・・・・・・―

の口の中に、ゆっくりと鉄錆の味が広がっていった。




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