翠帳紅閨すいちょうこうけい

 


牛頭鬼、馬頭鬼を従えて、冥府の妃が黄泉路を下る。
天界よりの略奪品は、胸に抱いた魂四つ。
昼もなければ夜もない、薄暮の道行きひたひたと。
静かな静かな行列は、黄泉路を流れる大河のほとり、三途の渡しに差し掛かる。
昏い川辺を染めるのは、血涙したたる曼珠沙華。
五色の玉砂利踏みしだき、居並ぶ冥府の十王は、妃を迎えて一斉に頭を垂れた。
秦広王、初江王、宗帝王。

「お帰りなさいませ」

五宮王、閻魔王、変成王。

「ご無事のお帰り、何よりでございます」

秦山王、平等王、都市王。

「天界より下知がまいっております」

転輪王。

「その魂は我らにお任せを」

十王らは死者を裁く。
生前の行いを審査し罪を量る。悪行に見合った地獄に落とし、罪を償わせて次の転生を決める。その審判は上級神でも逃れる術はない。
天界での命令違反や些細な間違いを咎められ、天界人が妖怪や動物に転生させられることも珍しくはない。
まして今、妃が胸に抱えているのは、大逆の罪を犯した魂。火炎地獄に氷結地獄。血の海、針の山、飢餓の宴を、未来永劫味わせよと、天から命が下るのは自明の理。
冥府の妃は冴え冴えとした眼を十王に巡らせると朱唇を開いた。

「必要ない」
「陛下っ!」

色めき立つ王達を見返す瞳は、永久氷河よりまだ冷ややか。

「死せる魂の扱いは冥府の領分。たとえ天帝とてその処遇に口を出される謂れはない」
「ですが・・・」
「わたくしに同じ命令を繰り返させるな」

妃が裳裾をひるがえし、流れる川に足を踏み出せば、蝶の縫い取りをほどこした靴の下に、陽炎のように橋が建ち現れた。
現世と幽世を隔てる大河。川面を渡る風には、悲鳴とも嗚咽ともつかない声が、途切れ途切れに入り混じる。その血生臭い風に銀糸の髪をなぶらせながら、妃は緑柱石の橋を渡る。
橋のたもとは冥府の宮、冬華宮へとたどり着く。
先触れの馬頭鬼が錫杖で叩けば、鈍く光る鋼鉄の扉はぎぃと音をたてて内側に開いた。扉の内側にはずらりと並んだ侍女、侍従が口頭礼で妃の命令を待つ。

「童子殿らはあちらに」

魂の三つは従者にまかせ、あとの一つは胸から離さず。

「大帝様へご帰還のご挨拶は・・・」
「必要ない」

おずおずと問う侍女を振り向きもせずに、妃は後宮に足を向けた。侍従の一人が追いすがり、留守中の出来事をこと細かに申し立ててくる。それに軽く頷きはするが歩みを緩めはせずに、妃は中庭を抜けて後宮の門をくぐる。
ここより先は男子禁制。侍従、牛頭鬼、馬頭鬼らは足を止め深い跪礼で妃を見送った。代わって付き従うのは後宮の侍女達。
後宮のさらに最奥に、正妃である自らの部屋はある。さやさやと衣擦れの音をたてて侍女が手をかけると、紫檀の扉は音もなく開いた。
妃の部屋に窓はない。
壁には退紅色の緞子がかかり、空気はそよとも動かない。漆塗りの衝立では夜光貝で描かれた鳥が翼を広げ、無音の歌を唄い続ける。黒磁の壷には深紅の薔薇があふれ咲き、部屋に蜜を含ませる。
妃はいつものように鏡の前に立つと腕を伸ばした。部屋付きの侍女の一人が、慣れた手つきで妃の衣装を、ゆったりとした部屋着に替えていく。

「酒の支度を」

短い一言に別の侍女が応え、小卓に酒肴を調えてゆく。一つ置かれた白磁の杯に目をやり、妃は再び口を開いた。

「二つ」

侍女は軽く頭を下げると、もう一つ杯を並べた。小卓の上に箸、小皿を二組ずつ揃え、琥珀色の酒を満たした玻璃の壜を置く。
妃はすんなりとした首をもたげた。控えていた侍女が、高く結い上げられた妃の銀の髪から、金、銀、玉細工の笄や瓔珞をはずしていく。すっかり取り終えると、侍女は象牙の櫛で妃の髪を丁寧に梳き始めた。
蜘蛛の糸を思わせる髪は櫛の歯が通るたびに冷ややかな艶を増してゆく。妃は目を細めて髪を梳かせていたが、やがて侍女の手を止めさせると、猫足の長椅子に腰を下ろした。

「下がってよい」

侍女達は黙礼すると静々と退室する。
躾のゆきとどいた召使いは、主の言葉に疑問を持つことはない。二人分の酒肴の意味も、給仕の者さえ残さない理由も。
柔らかな長椅子に一人身を預けた妃は、懐から魂を取り出した。手の中で転がしながらしげしげと眺めた後、両の掌で包み込み、ほぅと息を吹きかける。
熱く湿った息を受けて、固く結ばれていた魂は、くるりと解けて人の形となった。
短く黒い髪。固く結ばれた唇。体を包む黒い軍服は裂け、左手に握りしめたままの刀には、紅い血糊がこびりつく。

「起きろ」

瞳は閉じられたまま。

「起きろ」

血刀を握る手が僅かに痙攣する。

「起きろ、捲簾大将」

目蓋がゆっくりと持ち上がる。と次の瞬間、弾かれたように剣を構え、軍大将は妃の白い喉元に切っ先を突きつけた。
風信子紫の瞳と錆色の瞳が睨みあい、ふっと捲簾が息をついた。

「あんたか」

捲簾は片頬を歪めると辺りを見回した。

「どこだ?」
「わたくしの部屋だ」
「どこの」
「冬華宮」

捲簾はしばらく記憶を探るような表情で黙り込んだ。

「俺は・・・死んだ・・・な」
「そうだ」
「だろうな。あれで生きてりゃバケモンだ」

捲簾は右手で自分の首筋を撫でた。

「悟空はどうなった」
「ここにはいない」
「殺されたわけじゃねぇんだな」

妃は黙って頷いた。
死者の魂は冥府の領分。どう扱おうと思いのまま。しかし生者に関わることは許されない。いかに理不尽な定めであろうと。

「那托は・・・」
「ここにはいない」
「生きてるんだな」

―あれを生きている、と言うのならな―
言葉には出さず、妃はただ頷いた。
闘神太子はあれ以来、動くことを止めている。
魂もなければ魄もない。殺生を咎められることもない代わりに、救われることもない、使い捨ての殺戮人形。それを庇いとおして地獄に落ちた天界軍の大将に、何を告げても今は無為。

「捲簾」
「あ?」
「童子殿と元帥殿もこの宮にいる。まずはゆるりと過ごせ」
「なんだよ。地獄の方が待遇いいじゃねえか」

くっと笑って妃は向かい合った椅子を示した。
「座れ」

それを無視して捲簾は妃の隣、長椅子にどさりと腰を下ろした。床に剣をつきたて、空いた手を小卓の杯に伸ばす。
冥府の妃が酌などするはずはない。捲簾は玻璃の壜を取ると自分の杯に酒を満たす。
つっと妃が杯を出す。そこにも注いで杯を差し上げた。

「乾杯」
「何に」
「いい女といい酒に」
「なるほど」

妃は薄い杯を軽く持ち上げた。

「乾杯」

ひと息に飲み干して、互いに空になった杯を見せ合う。

「結構いける口だな、あんた」
「嗜みだ」

古酒は喉の内側を撫でるようにすべりおち、身体の奥から芳香を立ち昇らせる。知らずの内に杯と時は重なり、酒も大分まわった頃、妃が問うた。

「転生を望むか?」
「転生、ねぇ」

六道輪廻は衆生の定め。それを決めるは冥府の務め。

「まずは天界」
「嫌だね」

誰もが望む最上の転生を一蹴されて、妃は肩をすくめた。

「では地獄か」
「ここだろ」

捲簾は小皿に残っていた肉をつまみあげると口に放り込んだ。地獄でここまで寛げる魂には、なんの脅しにもなりはしない。
妃は右手の掌を天井に向けた。指をくねらせ手招く仕草をする。すると部屋の奥からするすると鏡が現れた。手を添える者もいないのに、鏡は勝手に長椅子の前に進み出でる。

「なんだ、こりゃ」
「六明鏡という」

妃は長く伸ばした爪を鏡に向けて告げた。黒く塗られた爪には極小の真珠の粒が淡い光をともしている。

「餓鬼」

妃の言葉に従い硬い鏡面が揺らぎ波立つ。やがてそれが納まった時、鏡の中には飢えた妖がいた。骨の上に皮がへばり付いただけの痩せ細った身体の中で、腹だけが異様 に膨れ上がっている。
食べても食べても満たされることのない心の飢え。それを満たす物を探して歩き続ける妖は、ふと満開の桜の根本で足を止めた。

「これで酒がありゃ文句はねぇな」

妃と並んで鏡を眺めていた捲簾は、満更でもなさそうに言った。
六明鏡は現世を見せる。時にも空にも妨げられず、六道輪廻に生きる者たちを映し出す。

「畜生」

妃の言葉に鏡は次の在り方を映す。
痩せた犬がいた。
艶のない毛皮の上からあばら骨がくっきりと見て取れる。しかし眼は爛と光り、歩く足取りは軽い。

「いいねぇ、気楽で」

成る程この男なら、悠々と獣の自由を生きるだろう。

「阿修羅」

短剣を握る子供がいた。
生きる糧は闘って奪い取る。負わせた傷も負った痛みもすべて自分の物として、生きるために殺し続けていく。いつか誰かに殺されるその日まで。

「根性あるじゃねえか」

妃は少し躊躇した後、鏡に告げた。

「人間」

赤い髪の男がいた。
酒と女に目がない、その日暮らしの賭け事師。喧嘩は強いが情には弱く、いつも引くのは貧乏籤。
「いるなぁ。こういう奴」
言いながら捲簾は傍らの妃を見て笑いを飲みこんだ。
妃は微笑んでいた。鏡を見つめる目は愛しげに細められ、唇はほころびかけた蕾のよう。

「知り合いか?」
「少しな」
「へぇ」

ただの知り合いを見る目ではない。捲簾はぐいと酒をあおった。
妃は捲簾のことなど忘れたように、鏡に映る赤い髪の男に見入っている。細い指先に持った杯には、捲簾が注いだ酒が取り残されていた。
捲簾は持った杯を小卓に置くと、妃の手首を掴んだ。妃の三日月の片眉が訝しげに上がる。

「なんだ」

捲簾は顎で鏡を示した。

「誰だ」

妃は金糸雀を食べたばかりの猫のような笑みを浮かべる。

「教えてはやらない」
「知られちゃ困る間柄、って奴か」
「どうだろうな」

薄青く血管が透ける妃の白い手首から、ゆっくりと力が抜けていく。妃が長椅子に身を傾けていくのと、その上に捲簾が覆い被さっていくのは、同じ鼓動の速さ。
二つの身体が重なりかけたその瞬間、六明鏡が唸り声を上げた。
はっと顔を上げると、鏡の奥から飛来する月の形の刃が見えた。捲簾が剣を取るより早く、妃が印を結んだ手をかざす。刃は届かず鏡は静まる。
だが鏡に映る男は地獄の底まで貫くような視線で、こちらを睨み続けている。捲簾はその視線を受けて立った。薄く笑いながら剣を取り鏡の男に向かい合う。
六道輪廻をあまねく映し出す六明鏡。それを挟んで二人の男が対峙する。一人は地獄、一人は人界。闘わせるのは、意地と矜持と惚れっぷり。
男が錫杖を構えなおせば、捲簾は剣を一振りして血糊をとばす。似ていると言えば双子のように似ている。似ていないと言えば他人のように似ていない。
妃は興がるように二人を見比べていたが、やがて杯を干すと長い爪でそれを弾いた。
杯の澄んだ響きに呼応して、六明鏡は再び揺らぎ、もとの鏡に戻る。その銀面に映るのは、今は捲簾ただ一人。

「止めんなよ」
「六明鏡を壊されては困る」

言って妃は杯を差し出す。舌打ちをしながらも、捲簾は長椅子に戻って酌をした。
捲簾はしばらく手酌で酒をあおっていたが、やがてぼそりと呟いた。

「悪くねぇな」

聞こえなかった振りで妃は小首を傾げる。

「人間、か・・・」







  煌々と月は輝く。空だけでは足りないといわんばかりに、地上の湖にもその影を落として。風のない夜となれば、湖面に映った月影はまさに鏡のように滑らか。
湖畔に佇んでいた男は、不意に手にした錫杖を振りかぶったかと思うと、水面に向って切りつけた。月は粉々に砕けたが、やがてまた一つに丸くなる。
水の滴る鎖を手繰り寄せる男に背後から声がかかった。

「何やってるんです、悟浄」

悟浄は振り向くと、きまり悪そうに口を開いた。

「あれ見てたらムカついてな」
「あれって、月をですか」

八戒が呆れたように言うのも無理はない。大の男が水に映る月にキレて、いきなり殴りかかったら、それはかなり危ない。

「なんか目の前で、すっげえいい女とイチャつかれてるみてぇな気がしたんだよなぁ」
「はぁ・・・」

二人は肩を並べて歩き出す。そろそろ宿に戻らないと抜け出したことがバレるだろう。今更とは思うが発砲されるのは少ない方がいい。
流れはじめた夜風に混じるのは、踏みしめた緑と水の匂い。

「なぁ八戒。お前、って知ってる?」
「さぁ? 女性の名前ですけど」
「だよな。俺も今、思い出した名前なんだけど、どーしても顔が思い出せねぇの」

悟浄はがりがりと頭を掻いた。

「珍しいですね。貴方が女性の顔を忘れるなんて」
「とりあえず、美人は決定な」







月も昇らず陽も射さず。黄泉の空はただ薄暮。赤く染めるは浄化の劫火。青くなびくは亡者の嘆き。
冬華宮の奥深く、鏡に魅入る妃は独り。

「覚えているのか」

転生の際、一切の記憶は消した。
余計なもんは要らねぇ。そう笑った魂を肉の器で包み、現世に送り出したのは妃自身。
新しい命を得て現世にあれば、それはすでに別の魂。

「悟浄・・・」

魂が命か、命が魂か。
死すべき定めの人の子なれば、百とは経たずにまた落ちる。

「捲簾・・・」

蓮のうてなに微睡むよりも、冥府魔道をひた走る。それを選ぶという男ゆえ。

「わたくしは見届けよう」



天帝に比肩する冥府の統治者、東岳大帝。
その玲瓏たる正妃、名はという。









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Material from "篝火幻燈"