偽りの霞の中で




「……どうしたの、悟空?」
 雨が、降っている。
 外では雨が降っていて、きっと今頃「彼ら」はそれぞれにいつもの様に過ごしているに違いない。
「止まないかなあって思って……」
 ここには、この中には雨が降らない。
 元々、森の中にある小屋は森が大部分の雨を避けてくれる。まったくと言うわけにはいかないが、それでも外に出るよりはるかに雨のダメージは少ない。
「仲間が……心配?」
「心配って言うか……うん、心配……かな?」
 少し悩んで、悟空は自分で納得したのか頷いている。その前に、はお茶と食事を差し出した。
「そのままでは体が冷えてしまうわ」
 春の雨は優しく、それでいて冷たい。
 たまたま薪用の小枝を探しに歩いていたらの森に現れたと言うのは偶然と言うにはおかしな話だが……別段、悟空は気にしていなかった。
 いつもの旅の途中、大体は旅館に泊まる事になるけれど野宿だとて珍しい事ではない。砂漠のど真ん中で眠る事もあれば、こうして森の中で立ち往生してしまう事もある。特に、今日みたいに山越えの途中で雨が降ったりすると無理して進むと言うわけには行かなくなる。
 追われている事とは関係がない。数は問題ではなく、たかが妖怪に過ぎないのだ。問題は、彼らの場合もっと肉体的物理的ではなく精神的な部分での事である。それは、残念な事にの目の前の彼にも言える事で。
「ありがとう、
 三蔵達も一緒だったら良かったな、そうしたら皆でこうしての飯が食えたのに」
 悟空の言葉に、は少し困ったような笑顔を向けるだけだった。
「何? 俺、何か悪い事いった?」
「いいえ、そう言うわけではないのだけれど……大勢の人がいるのは、苦手なの」
 悟空を合わせて総勢4名をもって「大勢」と言われるのは、流石に悟空でも頭の中?マークが出てしまうものだが、口に含んだ甘酒を飲むのに忙しくて問いかける事はしない。出来ないというべきかも知れないが……飲み込んでも、悟空は聞かなかった。
「ねえ、悟空……」
 夜中に押しかけたせいか、はいつもより少し元気がない様に見える。
「もしかして、俺。邪魔しちゃった? こんな夜だし」
「そう言うわけでは……ないのよ。本当に。
 誤解させてしまったのならごめんなさい……そうではなくて。
 もし、私が雨を降らせているのだって言ったら。それを信じてくれるのならば、悟空は怒るかしら?」
 答えが出たのは、たっぷり数分後だった。
「……は? 何それ? ……?」
 つまり、よく判らなかったらしいがそれも無理はないだろう。
 自分自身も強大な力を持つ悟空だし、様々な強敵とも戦ってきた悟空ではあるが。確かに世界創造までやり遂げた存在もあったが、それでも天候を操る相手はいなかった―――創造の為の力は悟空の力ではあったが。
 手の、届く所にいた。
 座っている自分の、常に側に彼女は立っている事が多かった。決して騒がしい人物と言うわけではなく、それでも会話には付き合ってくれていた。
 その、彼女が。
「ごめんなさい、なんでもないの……なんでも、ないのよ……」
 悟空の伸ばした手が、の顔に届いた。
 立ち上がってみると、の身長はさほど変わらない事がよく判って驚いた。
「どうかしたのか、?」
 表情が曇っているのが、こんなにも悲しみを覚えるけれど。理由は判らないし対処のしようがないのは確実だ。ただ、それと雨とは何か関係があるのだろうか?
「少し……きっと、そうね。夢を見てしまったのよ。
 多分、それだけの話なのよ」
「夢?」
「そう、かなわぬ夢……何も力がないから。私には、何も出来ないから。
 だからこそ、力ある存在にすがりたくなるのね、誰もが。私も……」
「俺……よく判らないけど、は別に何も出来ないわけじゃないと思う。
 ここでこうして一人で住んでるし、飯食わせてくれるし、そう言うのだって悪い事じゃないと思うし、俺には出来ないし……八戒なら出来るだろうけど、三蔵にも悟浄にもきっと出来ないと思うし」
 きっと心からの言葉なのだろう、この世界を簡単に滅ぼす事が出来る少年が。元気がないと言うだけの理由で食事をくれる女性を相手に慰めの言葉を紡ぐとは。
 なんて滑稽なことなのだろうか?
がさ、もし本当に雨を降らしてるなら。せめて山越えするまでは雨止めてくんないかなあ?
 俺は大丈夫だけど、三蔵も八戒も暗くなるし。悟浄は暇になるらしくて時々ちょっかいかけてくるしさ。それで暴れると三蔵も八戒もいつもと調子違うし」
「……そうね、本当にそんな事が出来たら。そうしなくてはいけないわね。
 もう、雨も止んだ事だし」
「え、本当? じゃあ、もう遅いしそろそろ帰るね」
「そうだ、悟空?」
 の「雨が止んだ」と言う台詞に、慌てて帰ろうとする悟空をが呼び止める。
 判らないではないけれど、嫌われてるわけではないし好かれている部類になると思うけれど、彼らより大切にされていないと思ってしまうのが浅ましくて悲しい。
「何、?」
 顔はこっちを向いているけれど、心はすでにこの小屋を出て仲間達の所にいるのだろう。
 そう思うと、少し胸の奥に感じるものがあるけれど……例え、どんな手段を使ったとしても。悟空をこの小屋に、この森に留める事は出来ないことも同じくらいわかっているから。
「お土産にお持ちなさいな、焼き菓子。好きでしょう?
 あと……誕生日おめでとう。クリームのケーキは落とすと危ないから、何日か食べられる木の実の入ったパウンドケーキにしておいたわ。皆さんでおあがりなさいな」
「え、ほんと? 俺、今日誕生日?」
「私の記憶が正しければ……だけどね。それと、もう一つ」
 そわそわしたり、びっくりしたり、慌てふためいたりと忙しい表情をする悟空を見て。今さっきとは別の感覚が浮かび上がってくるのが判ったけれど。わざわざ口にする必要がない事をは知っていた。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
 口をぽかんと開けていた悟空は、信じられない顔をして緩やかに首を下に向けた。
 言ってしまったの方こそ、悟空のこの態度は何かまずかっただろうかと悩みはじめてしまった。
 声をかけることも出来ず、そのまま戸口に歩いてしまう悟空を止める事も出来ずには流石に後悔し始めていた。タブーになる台詞ではなかったと思うのだが、こんなにショックを受けるのならば言わない方が良かったのかも知れない。
 矢先だった。
「あの……、ありがとう。俺、すっげー嬉しい」
 顔をうつむいたままで、少し頬は赤く染まっているだろうか?
 それだけ言った悟空は扉を少々乱暴に閉めて―――八戒あたりが見たら何か言うかも知れないくらいが、は悟空がどんな顔をしていたのか知らない。
 悟空も、その後の事は見ないで走り去ったのでがどんな顔をしていたのかを知らない。
 ただ……。
 悟空が持ち帰った桃のケーキは三蔵と八戒を除いて取り合いになり。山を越えるまで雨は降らなかった。









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