彼は天へ背を向けない





 よくある場所、だった。
 彼にとっては旅の途中であり、いずれ忘れてしまうか忘れてしまうか。
 とにもかくにも、暖かい寝床と楽しい声、可愛い女の子と清潔な空間に満腹感を得られるための手段―――主に食堂があればそれで満足するだけの。それだけのものでり。
 だけど、彼にとってその「場所」は後世にまで記憶へとこびりつく事になる。
 彼女の名は、
 泊り客の一人である彼、孫悟空が覚える数少ない女性の名……周囲に群がる人物が、圧倒的に男性(?)が多いせいでもあるのだが。
「……どうしたんだい、坊や?」
 いささか、坊やと言うには年が上の様な気がするし。あげくに悟空の正体を知れば普通の人間にすぎない彼女が、一体どう言う反応に出るのか……まあ、あまり想像に難くないだろうとは考えられるのだが。
「いや……?」
 宿で悟空が一人きりでいるのは、実は珍しい事ではない。
 各々が勝手な事をするのは、これまでにも良くある事ではある。特に制限があるわけでもない。
「おやまあ……珍しいかい? まあ、珍しいだろうね。
 坊や達は南から来たんだろう? 南にはこう言う人は少ないかい?」
「少ないって言うか……」
 西を目指して旅をしている筈の彼ら一行が何故南から北上しているのかと言えば、理由は簡単な話であり。要するに、情報からして面倒くさそうな砦がまっすぐつっきるとあったから迂回しただけだと言う話。
「……えっと?」
 忙しそうに立ち働く女性は、ぷっくりと下腹部が膨らんでいる。
 初めて見るような感じで―――実際、彼の記憶している限りの人生で女性ですら確率的には会うのに多くなかったし。ましてや、それほど膨らんでいる女性と言うのも初めて見るものだった。
「もうすぐ、ここから新しい赤ちゃんが生まれてくるんだよ」
 愛しそうに優しくなでる手は、この宿の女将さんであるのものだ。
 世は大変危険な情勢下ではあるものの。その中で、まともに子作りを励んでいるヒマがないのか。それとも単純にお腹が膨らんでいないだけだったのか、小玉スイカもかくやという女性に会う事はなかった。
「もう臨月でね……予定日もすぎてるんだけど、まだ出てこないんだよ。
 おかげで、あたしゃ忙しくて。何しろ、このご時世だ。あの人も昼間っからお酒を飲んで飲んだくれたい気持ちだってわかるさ。だけどね、この子はそれでも必死になってあたしの中で今にも生まれそうになっている。
 お客さんが来ているって言うのに、のうのうと休んでる暇なんてないだろう?
 なんて、坊やに愚痴っちゃって悪かったね。お詫び一つおあがり」
「ありがとう……うっめー! これすげーうまいよ、!」
 宿泊客の為に用意されていた焼き菓子を一つわけてもらったものの、女将のの顔色はお世辞にも良いとは言えなかった。その理由の半分くらいは理解出来るのだけれど―――何しろ、それだけ大きなお腹を抱えていたら足元すらよく見えないだろう。
「そうだね……生まれてきて、この子が本当に幸せになれるのかが心配でね……。
 まあ、それこそどんな世に生まれてきてもこの子が決める事なんだからどうにもならないのは判ってるんだよ。判ってるけど、それでもどうしても心配になるのは親の性って奴なんだろうねえ」
 理由を聞いた悟空に答えたのが、それだった。
「よくお聞き、坊や。
 あたしも長いこと宿をやっていて、ずっと長いこと子宝に恵まれなくて初めての子供。年をとればそれだけ危険になるから、もっと早いうちになんとかしておきたかったんだけど。こればっかりはどうにもならない。
 早く、一刻も早く『永遠』が欲しくてたまらなかった。こうして、あたしの『永遠』が出来てどれだけ嬉しかった事か……もっとも、うちの人にはそんな事わかりゃしないんだろうけど」
 焼き菓子をあっさり食べ終えてしまったものの、お茶も出されたので立ち去るに立ち去る事もできず。悟空は、とりあえずの言葉を聞き続けたのは「なんとなく」その方がいいのかも知れないと思ったのかも知れない。
「そう、人は生まれて育てて貰って、いずれ子を産んで老いて死んでゆく。
 人は産んでくれた誰かの、人生の中で出会った人達の『想い』を受け取って。子を成して、その子達に与えて、いずれは人生を終えて行く。そうやって人は『永遠』の中を生きてゆくんだよ」
「……そう、なんだ?」
 理解したわけではなかったけれど、悟空は愚かではない。
 彼女が今、今にも生まれようとしている子供の力に圧されて。無意識に気晴らしを求めている事くらい判った。
 かと言って、それをどう伝えれば良いのかまでは判らなくて途方にくれていたのもまた事実ではあったけれど。
?!」
 なんとなく落ち着かない様子でいたが、突然。油汗を流してテーブルに突っ伏している。焼き菓子達はほどよく冷めて美味しそうに食べてくれるのを待っているけれど、今の悟空にはそれどころではない。
「いた……痛っ……うまれ、産まれ……る!」
 旅の途中と言う事もあって、これまで女性が女性として側に居る事が多くは無かった悟空に。妊娠や出産の知識などもちろんあろう筈もなく、旅に出る前など女人禁制の寺にいたのだから当然であり。
「う、産まれるって……俺、俺……そうだ、医者!」
「待って! うちの人……うちの人を呼んで!」
 とてつもない痛みを持っているだろう事は、の顔をみればよくわかるし。医者を呼びに行こうとした悟空の腕を握り締めた、その握力の強さからも伺い知れた。
「酒場に……きっと酒場にいるから、飲んだくれてるから、お願い!」
 その、激しいまでの感情が。思いが、命をかけるが如くの必死の思いのすべてが。
 悟空は、これまでどんな相手と闘うよりも。激しい恐怖を、全身から感じ取る事が出来ていた。
の旦那さんってあんたか!」
 ずかずかと入り込んだ酒場には人が少なく、薄暗い店内には気だるい空気とタバコの薄白い煙が流れている。
 片隅に、酒ビンを幾つか転がせて独りでうつろな目をした酒に飲まれた男の一人が緩慢な仕草で酒に縋っている目が。次第に悟空の姿を視界に映し、そしてようやく理解できたようだった。
「なんか用か?」
 焦りまくっている悟空からすれば、今の男の動作についてはとてつもなく文句を言いたいところだったが……そんなヒマすら既に無い事がわかっているのか、忘れているかのどちらかの様だった。
「子供だよ! が、子供が生まれそうなんだ、今産まれるんだ。あんたを呼んでるんだよ!」
 男の名は、久宝と言った。この土地で妻と暮らして何年になるか?
 世間が平和な間、ずっとは妊娠する気配がなかった。けれどは働き者だったから、寂しいけれど気にはしなかった。けれど、が妊娠してしばらく世の中は妖怪達が暴れ回るようになった。
「何してるんだよ、早く来いって!」
 じれったそうに声をかける悟空を見て、久宝は眩しいものを見つめる気分だった。
 いつか、見たかも知れない眼差し。だけど、それがいつ。どこで、誰のものだったのか思い出せない。
「こんな世の中に生まれて、子供なんてすぐに死んじまう……それなら、今生まれなくてもいいさ」
 ウソ、偽りのない言葉なのは本当で。だけど、だからこそ悟空の手が反射的に久宝を殴りつけていた。
 天地がひっくり返って、体中と顔に激しい痛みを感じて、自分がもんどりうった事を久宝は後から自覚した。
「やべ……あー、えーと……大丈夫か?」
 小さな身体に秘めた力を受けて、四肢がばらばらになるかと思ったがなんとか大丈夫だったらしい。
 思わず殴りつけたと言った感じの悟空に、体内に蓄積された酒が怒りの感情に火をつけるのがわかった。
「……何しやがる、このガキ!」
 久宝の怒りが悟空にも燃え移り、悟空も知らず叫んでいた。
「そうだよ、俺はガキだよ! だけど、ガキでもわかるんだ。
 あんたのやるべき事は、今ここで酒飲んでることじゃなくて。の側に居てやる事じゃないのか?
 の旦那なんだろう? 生まれてくる子供の親父なんだろう? どんな時に生まれたって、子供は子供の人生を行くんだ、あんたの人生じゃない。あんたが嫌だって、あんたにの『永遠』を止めさせない!」

 どうなったのか悟空は知りたかったが、状況は待ってはくれなかった。だから、翌日に赤ん坊が生まれてからちょっとだけ見せてもらい。そのまま出立してしまった悟空は知らない。
 お礼と愛を込めて、生まれてきた新しい赤ん坊に。と立ち直りかけた久宝が、この世の中を生き抜く力を得られるようにと「悟空」と赤ん坊に名づけたことを。









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