目覚めの時は鏡を見る瞬間に似ている。




 問題があった。
 否、問題らしい問題といえば常にあるしどこにだってあるとも言えた。
「鏡?」
 常に幾許かの『間』が、彼女の受け答えにはあると彼は思った。
 彼女の名は、
 ただ一人、本人すら知らぬ理由により人の踏み入る事の無き森の奥深くで暮らす少女。
 彼の名は、孫悟空。
 3人の仲間と共に西域へと旅を勧める、人ならざる人たる存在。
「……これ?」
「やるよ、にはいつも飯食わして貰ってるし」
 外見によらず穏やかな物腰のは、珍しく少しは戸惑っている様に見える。
「でも……」
 外見よりも、最近になって多少はやんちゃと称されるようになってきたと思いたい悟空は満面の笑みをたたえながら小さな飾り鏡を粗末な机に載せた。
 否、机だけではない。
 人一人が暮らすだけでやっとと思える、作り付けの物入れすらない様な粗末な小屋は。何故に風が吹き込んでこないのかと問いかけてしまいたくなるし、その身にまとう衣服は素材こそ上質なものではあるものの熟練した職人の手ではなく手作りだと思わされる。
 楽な暮らしではない筈のの小屋に出入りをするのを、悟空とて気が咎めないわけではない。
 それ以前の問題として、何故に西域を目指して旅を続けている悟空が度々……と言うほどでもないがの住居へ来る事が出来るのか物理的に説明が出来るはずもない。
 何故なら、悟空は始まりの都市からずいぶんと西方に移動してしまったのだから。
 いかに旅の途中で知り合ったからと言って、幾らなんでもおかしすぎると言う仲間達の言葉も判る……が。

が居るんだから、別にそれでいいじゃん」

 何とも前向きと言うか、楽天的と言うか、明るく元気で良い子なお返事である。
「八戒と悟浄が『散々世話になってるんだから、たまにはお礼でもしてこい』って……でも、俺よくわかんないし。
 食べ物とかだと、に渡す前に俺が食べちゃそうだし」
 十中八九間違いなく、渡す前に消費するだろうと思われる。
「でも、これは一体……」
 が戸惑った様子なのは、悟空が基本的に所持金を持たないことを知っているからだ。
 多少の金子を彼らも持ち歩いてはいるが、悟空の場合はお金を持って居るとすぐに食べることに使ってしまうし。仮に使い切ったとしても悟空の空腹を満たせるほどの分量を買うことは出来ないので、結果として仲間達のお使いに便乗してモノを買ってもらうと言うスタンスが確立していた。
「三蔵が駄目だって言わなかったから、色々考えたんだけどさあ……」
 それで手に入る程度の、鏡面が細工されている小さな手鏡になった理由と言えば。
「俺、もしかして三蔵から金を出して買ったものじゃ駄目じゃないかなって思ったんだ」
「え?」
 その言葉は、思いのほかを驚かせる事となって悟空は何ともいえない感情を覚えた。
 嬉しいのかもしれないし、楽しいと思ったのかもしれない。とにかく、愉快と言うのが近い感情ではあるが、誰か……主に敵や仲間をやり込めた時に感じるのとは、また違った愉快さである事だけは判った。
「って言っても、どうやったら金が手に入るとか判らないから聞いたんだけど……」
「もしかして……」
 少し迷いながら口を抑え気味に、は聞いてきたのだが……それは、まさかとは思うが笑いをこらえているのかも知れないと悟空は思った。少なくとも、いつもの仲間達とのパターンならばそうなってもおかしい事は何一つなくて他の事など考えられない。
 しかし。
「悟空の話に出てくる皆さん……三蔵殿や悟浄殿、は『盗賊を襲えば金子を持っている』とか口にされたりは、しなかったかしら?」
「すごい! マジすげえ!」
「……そ、そう」
「で、八戒がそんな金で買ったものなんては喜ばないって言うんだけど。どうやったらいいかは教えてくれないんだ」
 八戒ってそういう所がスパルタだよなあ……とか言いながらの顔を見ると、片手で顔を抑えてうつむき加減だ。
 流石の悟空も、これには困った。
 いつもの仲間達ならば笑いものにしたりする事もあるし、たまに来る紅骸児達ならば案内真面目に考えてくれたりもしないわけではない……敵の一派を相手にする思考とはとうてい思えないが、悟空にしてみれば即座に茶化しまくる仲間よりも真面目に考えて答えてくれる敵の方がマシな場合も結構あったりする。
 けれど、は彼らとは違う。
 違うから、他のパターンが出てこられると悟空は戸惑うし困る。
「それは……きっと、皆さんがそれだけ、悟空を愛おしいと思っているからではないかしら?」
「愛おしい?」
「ええ、そう……好きと同じ好意を意味するけれど、好きと同じくらい強い言葉だけれど。
 好きとは、また少し違う意味を持つ言葉……」
 静かに、は顔を上げた。
 少しばかり、その瞳が雫で潤んでいる様に見えるのは気のせいだろうか?
……?」
「聞かせて、悟空?」
 泣いているのかと聞くのは、別に難しい話でも何でもない。
 ただ、が悟空の望みどおりの答えをもたらすとは限らないと言うだけの話だ。
「俺……よく判らなかったから、宿を出て町に行ったんだ。
 町には市が立ってて、市にはいろんな奴らが居て。あ、そうだ美味そうな肉まんとか色々売っててさ、八戒でも連れて来るんだったって思ってたらさ、チンピラって言うの?
 悪い奴らがショバ代がどうのとかって市場のおっちゃん達に悪い事してたんだ。
 なんか、考えすぎて疲れちゃってさ……憂さ晴らしも兼ねて、その……。
 、怒ってる?」
 語尾が弱弱しくなったのは、流石に「チンピラを相手に大暴れをしました」と言って喜ぶ女性がいない事くらい悟空が知っていたからだ。これで「もっとやれー!」とか言う女性だったら、別の意味で仲良くなったかも知れないが、そうでない以上はどうしようもない。
「そんな事はないわ……怪我とかは、なかったの?」
「うん……そいつらひどいんだ、屋台なんて幾つも壊されてさ。ショバ代が払えないなら娘よこせーとかって今時つまんねえ台詞はいてさ……」
 助けられた人々が悟空にお礼を言うと、ちょうど良いとばかりに悟空は今置かれた状況を周囲に相談した。
 本当は、別にお礼なんて興味はなかった……屋台の食べ放題とかならば話は別だろうが、暴れたかったのが本音で助けようとか思ったわけではないと言うのが先に立ったからだと言うのもある。
「そうしたら、これをくれたんだ」
 屋台の人達はもっとお礼をしたいと申し出てくれたが、手に入る小さな手鏡に好きな絵を彫ってくれると言う細工師を紹介してくれた上に鏡代と細工料をお礼にと申し出てくれただけで十分うれしかった。
「とても……可愛らしい絵ね……」
 鏡は、実際には両面鏡だ。
 鏡の片方は普通に使える鏡で、逆の面には鏡の裏側にスモモの絵が彫られているから飾っておいても良いし日に反射させた影が逆転して写る状態になっている。
「小物とかって食えないしどうかなって思ったんだけどさあ……」
 悟浄が「お前と違って女の子は食うことばっか考えてるわけじゃねえんだよ」とあからさまに言い、八戒もやんわりと悟浄の言葉に味方し、三蔵は人の話を全く聞いていないように見えて聞いていたのかどうかは判らない。

 悟空が立ち去った小屋は、ただでさえ粗末な小屋が更に惨めさを感じさせる。
 もし、客観的に誰かが見たとすれば言われたかも知れないが。
 この場には以外は存在しないので、必然的に誰もそんな事は言わない。
「斉天大聖様……わたくしの罪を、明らかにせよ言う思し召しなのでしょうか……」
 小屋には、化粧道具の類は何一つない。
 それどころか、余所行きの衣装もない。
 身を飾る装飾品も当然ある筈もなく、見るものが見ればわびしさのあまり悲しさを覚える事だろう。
 けれど、一人で住むのに誰に見せると言うのだろう? 己の日々を生きるだけで精一杯なが、飾り立てた所で何のために? そもそも、そんな事を考えるに至ることなどなかった事だ。
 少なくとも、今までは。
「これが……わたくしの、顔……」
 小さな、丸い反転する世界には顔があった。
 丸く切り取られた世界で、鏡の全面に映し出されているのは幼い少女と言っても過言ではない姿だ。
「何も、過去へつながるものなど知りえないと言うのに……それでも?」
 の立場は、悟空のそれと似ている。
 500年の昔に封印され、それ以前の何事をも覚えていない悟空と。
 気がつけば日常生活の知識を除けば何もかもを忘れている事だけを知ったと。
 判っているのは、悟空にもにも各々負うべき罪があると言う事だけ。
「いえ、もう一つ……ありましたね。
 わたくしは、いずれ……それを、忘れてはならぬと言う意味でいらっしゃいますか?」
 そうだろうか? どうだろう?
 悟空は、恐らく何も考える事などなく純粋な好意だったのだろう。
 だが、悟空が知っていて知らない「彼」ならばどうだろう?
「……どうやら、いつの間にやら夢の中に居たようですね」
 は、周囲の景色がわずかに。そして止める事適わぬ力強さを持って白く色あせて行くのが判った。
 紛れもなく、これは夢の世界からの離別を意味している。
「そうなのですか、斉天大聖様?」
 己の小屋、そこは決して広い空間ではない。
 そこに、今の今まで存在する筈のない存在が居た。悟空だ。
 だが、それは決して悟空には持ち得ない瞳をしてこちらを見ているのが判った。
 これが夢の世界だからこそ、は寝台の上で横になったまま起き上がる事もしなかったし。心のどこかで無礼を働いた事に焦りを感じながら無礼撃ちにあわない事への理不尽さを感じる部分もあった……どうやら、とは気がつく。
「わたくし、自滅願望でもあるのでしょうか……」
 零した言葉を、悟空ではない悟空が聞いたかどうかはどうでも良い。
 これは、の夢の中なのだから。
「斉天大聖様、貴方様の願いはかなうのでしょうか?」
 どうせ夢なのだ、そんな気持ちがの口を軽くしていた。
 常の悟空へのそれではない、隠された本当の気持ちを口にして……だからと言って、悟空へ相対している時のとて事実本物のに過ぎないけれど。
「……さあな」
 だから、は驚いた。
 激高したと言っても、決して過言ではないだろう。
 にやりと言う笑みを浮かべて、こちらを見る悟空の姿は音を無くし、急速へ覚醒へと促されるの意識を始めて夢の世界へと留まらせたいと思わせた。
「お待ちを、お待ちくださ……!」

 最初に目に入ったのは、己の姿だった。
 上半身を持ち上げて、片手で体を支えて反対の手は伸ばされていた。
 どこからどこまで夢だったのか……それとも、アレは本当にあった事なのか?
 ため息をつきそうになって、は堪えた。
 物思いに耽っていれば、次に悟空が来た時に気がついてしまうかも知れない。
 たかだか神が施した封印など、悟空にとっては本来何の意味を成さない事を知っているから細心の注意が必要だ。封印を解除させてしまう様なことを呼び込まぬ為に、何が起こるか判らないために、この考えを頭の中で沈殿させなくてはならない。
「貴女が……わたくしの知らないわたくしを、語ってくだされば良いのにと、思います」
 鏡の中のは、決して現実に存在するに逆らうことはなく。
 何も、語らない。








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