春 雨ずるりと引きずる足と、罰を浴びているかの様な雨の感覚に不快感を覚えた。 けれど、これは致し方ない事だと思えば自嘲の笑みすら浮かぶ様な気がした。 浮かびはしなかったけれど。 ただでさえ重い体を、足場も視界も悪い雨の降る森の中を進むのは苦行だ。どちらかと言えば、気分だけ修行僧な気持ちになる……修行僧と言えば、某金髪と紫の瞳の職業だけ僧侶を思い出すけれど。残念な事に想像出来ないのと同じ程度、彼はこんな修行をしたことがないだろう。すべてが実践だから。 家、と言うより小屋に戻っても、誰も居ない中を一人で体を清めて手当てを行い、手入れもされていない寝所で眠ることを考えると億劫ですらある……誰かが居れば異なるだろうが、かと言って誰かが勝手に入って来られないのは誰よりも知っている。あの片眼鏡の彼ならばあるかも知れないけれど、さりとて妖怪化した元人では根本的には不可能だ、聞いただけではあるけれど家事の腕前を考えると少し羨ましい気がしないでもないけれど。 そう言う点から言えば、片眼鏡の彼としばらく同居していたと言う赤い髪の彼は一人の時などどうしていたのだろう? 女性との係わり合いが多いと言うくらいだからと思ったけれど、そう言う気配を感じたことがないと言う言葉を信じるならば意外と家事に精通しているのかも知れない……否、そうだろう。 「彼」が嘘をつく必要はなく、「彼」の性格を思えばその様な事があるわけがない。 「!?」 届いた声に、思わず舌打ちをしたくなった。 幻であったならば、己がいかに弱っているか思い知る事になる。それは否定しないけれど。 現実であれば……この後に起こる事は、想像できてしまう。 だから、もしも現実ならば幻である事を願うだろうし。 逆に、もしも幻であるならば……きっと。 現実である事を、願ったのだろうか? 「、目が覚めた?」 目が覚めて一番に感じたのは頭痛、恐らくは高い熱でも発していたのだろう。 次に感じたのが四肢の痛み、これは頭痛と同じ理由で気にするほどの事でもない。 室内に変わった所は……ないと言えばない。とは言うものの、変化が起こるほどこの小屋の中にモノはない。 「ええ……まあ。 こんにちは、悟空」 にこりと微笑む動作をしてみたが、目前の。少年とも青年とも言えない人物は違和感を感じている様だ。 「ええと……?」 「はい」 「……じゃ、ない?」 一気に室内の空気が変わったことを感じてしまい、何やら困った事になったと認識する。 理解する、と言う言い方では少し違うと思う。 「いいえ、わたくしは『』と言う肉体に宿る人格意識。つまり、わたくしが『』です」 「どういう意味?」 体を起こす、重力を感じる。 理解していないと言う表情は、可愛らしさを連想させるのだろう。 「すべての記憶を内包しているのが、わたくしであると言う。それだけの話。 わたくしとは、そう言う存在です。あえて、わたくしを『』と切り離すのであれば」 体を起こした際に、額から落ちた布は冷たさこそ感じなかったけれど湿ってはいた。 寝台に乗せられて居た事を含めて考えれば、悟空は病人に対する処置方法を知っていたと言う事になる。 孫悟空は、記憶にある通り優しい。 「よく判らないけど……、である事は確かなんだ?」 「はい、わたくしは肉体に収められた『』のすべての記憶を引き出す事が出来る存在。 ですが、彼女……常に貴方と接して居る彼女……『』はわたくしの存在を知ることはありません」 「それって、俺がもう一人の俺の事を知らないみたいに?」 「似ていると言う点では同じです」 言わないけれど、本当はもっと複雑な事情がある事を。知っているけれど、それは言えない事。 そして、言わなければ知る事も判る事もない。 「俺がいつも会ってるは、じゃないって事?」 「それは違います、わたくしはすべてを知る存在。けれど、わたくしが常に表にある事はあってはなりません。 何故なら、わたくしは彼女が……『』が生きる為に作り出した存在だからです」 「あのさ、それは俺が聞いて良い話?」 「……そうですね、では少し落ち着きましょうか。 わたくしも、少し喉が渇きました」 ゆっくりと体を起こすと、視界が揺れる。 放って置けば倒れただろう体を支えたのは、悟空。 「ありがとう、ございます……」 急に動いた訳ではないが、肉体は休息を欲している。 「いいよ、お茶くらいなら俺が入れるから。 ええと……は休んでなよ、傷だって癒えてないんだから」 「お茶が、入れられる様に……なったのですね……」 「それって、一体何時の事を言ってるわけ? で、なんであんな格好であんな所に居たわけ?」 確かに、『』の記憶では悟空は常にお客様として椅子に座っているだけだった。 確かに、いつだって悟空は出されたものを口にしているだけだった。 確かに、知っている姿は子供でしかなかった。 けど、本当にそれだけだったのだろうか? 「『』としては……貴方が来られる時を避けるつもりだった様です」 「……あのさ、あんたは『』じゃないの?」 「表に出ている『』とわたくしとでは、少し異なります」 「けど、あんただって『』なんだし? 全部の記憶があるって事は、やっぱり『』じゃないか」 少し憮然とした顔をしているのは、何に対してなのだろうか判らない。 「この『森』は、世界から隔絶された場所ではあるけれど。 だからと言って、何者からも守られた場所ではないと言う。それだけの事です」 「で、俺がいない時って結構こういう事ってあるんだ? ちなみに、今話してる会話って『』は覚えてるのかな?」 「残念ながら」 「……じゃあ、止める」 湯飲みを二つ用意した時点で、家捜しを諦めた様だ。もしかしたら空腹なのだろうか? 「何故、とお聞きしても?」 「だって、あんただけに言ったんじゃ不公平じゃん? ちゃんと両方の『』に言わないと。 が知らない間に色々あったりしても、知らないのっておかしいじゃん? の事なのに。だから」 差し出された湯のみは、熱くて。 中身は、確かにお茶の色をしていて。 体はとても熱いのだから、本当ならばつめたいものを欲している筈なのだけれど。 「今のに言っても、普段のが知らないんじゃ不公平だけど。普段のに言えば、今のだって知る事になるんなら。その方がいいって、絶対」 頭に熱がたまって、胸の奥からこみ上げるものがあって。 視界が雨に降られているわけでもないのに、白くゆがんで。 限界を超えて再び意識を失い、更に目覚めたは普段ので。 あの会話を覚えては居なかったけれど、きちんと悟空からお説教をくらって。 見た限り、普段のと違いは判らなかったけれど……いつか、あのと出会う事もあるのだろうか? 初めて会った時の様な、どこか現実から遠く感じた時の感じ。幻の様な、霞の中の様な。 いつか。 |