その言葉を知らない




 雨を嫌うのはパーティの中で両親役だと揶揄されて、いつもの様に怒った三蔵と困った微笑を浮かべる八戒だった。
 言ったのは本人は傍観者のつもりでグレた長兄の悟浄で、本当に傍観者をしていたのは食べ物を口に詰め込んでいた悟空だった。
 そして、今は目の前に再び泰然と構える川を見て一同は沈黙をするより無かった。
「悟空、あんまり遠くへ行くんじゃありませんよ?」
 お母さんよろしく―――八戒の言葉に、悟空は返事をしなかった。それを横目で見ていただろう三蔵は反応をしなかったし、かと言ってそれにどう言う反応をすれば良いのか判らなかった悟浄が頭をばりばりとかいているのは、ある意味正しく。ある意味でどうしようもない事だと言えた。
「こんにちは、悟空」
 そこにあるのは川で、決して森ではない。
 川には良い思い出と悪いと言い切るのが難しい思い出が混在していて、はっきり言って無邪気にはしゃぐのもどうかと言う気がする……特に、こう言う大きな川となると心中は複雑だ。
「三蔵殿と八戒さんは雨が、貴方は川が苦手になってしまうと、貴方達の旅はとても時間を必要とする事になってしまうわね……」
 問いかけではない言葉に、はさむべき疑問に、悟空は答える事が出来ない。
 彼女が何者なのか、そこに悟浄の名前が入らない事とか、言いたいことは色々とあるのだが、けれど口にして良いのかよく判らない。
「ごめんなさい、悟空……私では、貴方の空腹を満たして差し上げることは出来ない……」
 川の側に居るのに、悟空は身動きが取れなくなった己を知った。
 決して誰かに攻撃をされているのではなく、それは悟空の中での気持ちの話。今、声の向く方向へ視線を走らせたりしたら、全てが夢幻の如く消え去ってしまうのではないか?
 この、曖昧模糊とした悟空の今の心が作りだした幻想なのだと思うのも。逆に、その幻想を乗り越えてが現れたと感じたとしても、どちらも納得したくない気がした。
「そんな事ないよ、はいつだって色々美味しいの作ってくれるじゃん?」
 川べり、思い出すのは落ちて流された事。
 川、そこは三蔵が流されてきた場所。
「優しいし、腹減ってると飯食わしてくれるし、いっつも押しかけても嫌な顔とかしないし……って、いい奴だよな」
 心がここにないから出てくる台詞、そう言う自覚がどこかでぼんやりと引っかかっている。
 向こうに仲間たちが居て、側に川があって、近くに知っている誰かが居る。
 その「異質」さに自覚がない事を、悟空は気づいていない。
「それは……どうかしら?
 悟空、貴方はまだ。知らないからこそ言えるのかも知れない」
「うん……それは、そうだよな。俺は、何も知らない」
「けれど、何も知らないと言うのは幸福な事だと思うわ」
 悟空は以前、が自ら語った事を覚えている―――悟空が人の話を覚えているのは珍しい様に見えるかも知れないが、実は意外にも人の話をきちんと聞いているのだ。ただ、難しい話になると内容が理解出来ないから話をしても頓珍漢な内容になってしまうだけなのだ。
は……忘れて幸せなのか?」
 不安も恐怖も、憎悪もない。
 今すぐ追われて、命に危険にさらされているわけではない。
 近くには仲間たちが居る、何かあったとしても一声あげれば誰かが駆けつけてくるだろう。もっとも、悟空を相手にその「何か」がそうそうあるとも思えないのだが、だからと言って安心しきることが出来ないのが不思議な事に世の中と言うものだ。
「正直を言えば、判らないわ。
 今の私は、かつて記憶のあった私とは違うのだから。その頃の私がどんな想いを抱いていたのか、そしてどんな状況にあったのか、記憶のない私には遠い世界の物語でしかない……でも」
 でも?
 そこに続く言葉を口にする事が、出来なかった。
「きっと、今の私は楽なんだろうと……それが幸せだというのならば、それをもって幸せと言っても良いのかも知れない。
 あの森で生きて、全て自力でなさなくてはならない弊害はあるけれど。それでも、森は記憶のない私も等しくその腕の中に抱いてくれる……それだけで、十分に癒されていると思うから」
 同じ「記憶喪失」でも、随分と二人の境遇は違う。
 は周囲に誰もなく過ごしてきた、だから何もかもを一人でなしてきた。
 悟空の周囲には誰かが居た。それが良くも悪くも、悟空を物理的に一人にする事は少なかった。
 だけど、二人は互いに孤独を知っている。
「楽……かあ……」
 空を仰ぎ見る……今朝から変わらぬ、今日も良い天気だろう。
 だけど、いつかも見た空であり。これからも見るかも知れない空でしかない。
 雨が降る日もあるけれど、風が吹く日もあるけれど、それが悟空の日常に影響を与える事はあるだろうし。余程の事があれば悟空たちの巻き起こす「事件」に自然が巻き込まれる事もあるけれど、それがどうして起きるのかとか、そんな因果関係を悟空は知らない。
 だが、大抵の日の空は地上世界で生きる人達の事など気にもしない。
「悟空は、幸せになりたいの?」
 の言葉は、違うことを指している様な気がした。
 まるで『貴方にぽっかりと空いた穴を埋める為に食事で補おうとしているのか?』と問いかけて居る様にも聞こえたけれど、それを確かめるのは勇気が必要だった。
 何より、聞き返すにはタイミングを失うほどの時を有してから思いついた。
「なあ、幸せって何? 好きな事は幸せって奴?」
 一つ一つを、考えてみる。
 遊んだり、昼寝したり、美味しいものを食べたり、お茶をしたり、強い奴と戦ったり、こうして旅をしている今だって好きだ。もちろん、楽しい事ばかりではなくて時には嫌なこととか不満な事とか、喧嘩したりすると最悪な気分だと思う時もある。
「悟空、きっと貴方の中で答えはすでに出ているわ。
 だけど……そうね、きっと『嫌いな事と隣り合っている事』と言うのは、幸せと言う事ではないかしら?
 沢山の人が側に居ても寂しくなったり、誰かと喧嘩をして落ち込んだりするのもあるでしょう。もちろん、そこには様々な理由があって困ったことにもなるでしょうね、けれど僅かに嬉しい事があれば全てを許せる気持ちになれる事もある。
 そう言う時、人は「幸せだ」と感じる事もあるのではないかしら?」
 どんな良い事でも、その後で悪いことが起きれば誰でも簡単に落ち込む事がある。
 どんな大きな失敗をしても、その後で少しでもうまく行くことがあれば。また頑張ろうと言う気持ちが起きる。
は、今。幸せなの?」
 記憶のあった頃の自分自身を、忘れてしまう事が出来るのならば。
 記憶がないと言う自分自身を、好きになれるのならば。
 それは、今のが「幸せ」だと言う事なのだろうか?
「悟空には……どう、見えるの?」
「じゃあ、不幸なの?」
 ふと、悟空は思う。
 体の中、または心のどこかに空虚な「穴」がある事を感じる事がある。けれど、それを以前誰かに言ったら「そんなのは当たり前だ」と言われて、そう言うものなのかと感じた。
 時々、穴はどんどん広くなっていずれ大事なもの全てを飲み込んだりするかも知れないと言う気がする事がある。同時に、自分自身が穴に飲み込まれるかも知れないと……だから、食べるという行為でソレを補っているのだろうか?
「私には……貴方の穴を埋めることが出来ない」
 まるで、悟空の心の中を覗いてたかの様なタイミングで言われて。
「貴方はいつか、自分自身で失った何かの代わりを埋めなくてはならない。でも、それは私ではない。
 他の人達には普通に持っているものだと言うのに、今の私や貴方がそれを持っていないのは理不尽にも思えるけれど……もし、私達がソレを持っていたとすれば、こうして会う事も言葉を交わす事も心が触れ合う事すらなかったのだから」
 悟空は、身動きが取れない。
 まだ語るべき言葉を悟空は発明していないから、そして側で語っているだろうが「森の外」に居るかも知れないと言う事実を確かめるのが怖かったから。
 彼女には、どう言う理由からか「森」の中に居てほしい気がするから。









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