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その酒場には、もう、客は2人しかいなかった。
彼の連れは、既に3人とも席を辞していたし(うち1人は、部屋に戻ったのか、外で女性に声をかけているのか定かではなかったが―――)、もともと、彼女は1人だった。

空の瓶が林立するテーブルを挟んで、しかし、少しも酔った風でない声が、静かに流れていく。
「………お強いですね」
「貴方もね」
「お酒の席で、僕に昔の話をさせるまで付き合ってくださった方は、貴女が初めてですよ。…
「うふふ」
彼女は目を細めて笑った。さすがに、ほんのりと染まった頬に手をあて、肘をついて身を乗り出すと、は、八戒の緑の目を覗き込んで言った。
「こう見えても、人の話を聞き出すのは得意なのよ。それに…」
黒い瞳が、酔いを含んで妖しく光る。
「…貴方が気に入ったの。つまらない男と飲んでいたって、楽しくないわ」
「恐れ入ります」

2人は微笑むと、更に一口、盃を交わす。

「なら、ご自分のお話は、して下さらないんですか?」
「…タダじゃ嫌よ」
そう言うとは、八戒の片手を取ると、つうと指先でなぞった。
「確かに、…綺麗な手ね」
「………」
「でも、私は、貴方の、その目がいいわ」
グラスの氷が、カラン、と音を立てて崩れる。
「この手が彼女のものなら、私は、その目が欲しいわ。一度は、もう必要なかったんでしょう? なら、私に、頂戴。」

酒場の薄暗い明りが、ちかちかと瞬く。
落ちかかった沈黙を、そっとはぎ取るように、八戒は言った。

「………凄いこと、仰る方ですね」
「凄いでしょ?」
「僕は、1人の女性をも守れなかった、つまらない男ですよ」
「誰かに守られるのは、もうやめたの。貴方は私のことなんか、守らなくていいの」
は手を伸ばして、八戒の単眼鏡に、そっと触れた。軽い金属音と共に、それは、彼女の手の中に収まった。
「…私に、その瞳をくれるだけでいいのよ」

露わになった義眼に、笑ったような、泣いたような色を湛えて、八戒はを見つめた。
そして、目を閉じて、小さく息を吐くと、いつもと少しだけ違う顔で、微笑んだ。
「お酒の席で酔ってしまうのも、初めてですよ」
「あら、お酒は酔ってこそ、楽しいものなのよ」
「………かないませんねぇ、貴女には」
八戒は諦めたように笑い、そして、に手を差し出した。
「こんなものでよろしければ、貴女に捧げましょう。…僕の部屋で………よろしいですか?」
もにっこり笑うと、八戒の手を取って立ち上がった。


…数刻後、誰も居ない酒場の明りは消え、街の夜は静かに更けていった。








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