戒め八つきっかけは、些細な一言だったように思う。 「悟浄のところに来てたコがね、貴方が怖いって言ってたわ」 そのときの彼の顔は、とても、とても不思議なものだった。 不意を突かれて意外とも、予想通りの自嘲とも、何とも判じ難い、不可思議な、笑顔。 「怒った?」 「いいえ。まあ、僕だって善人ではありませんし」 「って言うより、『極悪人』だって、悟浄は言ってたけど?」 「悟浄には言われたかないですねぇ」 にっこりと笑う顔は、不服な時のものだ。でも、私はこの顔も好き。 彼はベッドから下りると、テキパキと手際よく飲み物を淹れ出した。そして、シーツに包まったままごろごろしている私に、手渡してくれる。ああ、この笑顔も最高……。 「こーんなに優しいのにね」 「あははは。まあ、これはクセですから」 旅をするようになってから、3人の世話を焼いているから……等と言ってはいたが、人間いきなりこんなに気が利く様にはならない。絶対、元からの性格だと思う。寝しなに飲むお湯割りの配分がこんなに上手い男なんて、探してもそうそう居るもんじゃない。 「で、悟浄以外には『極悪人』って言われてもいいの?」 自分の分を持ってベッドに戻ってきた八戒は、湯気の立つコップを一口啜ると、目を細めた。表情が、湯気で曇って、よく判らない。 「……少なくとも僕は、『大罪人』ですからね」 ソフトフォーカスの向うの顔から、笑みが、消える。 「その上、罪を犯した結果、人間ですらなくなった男ですよ」 彼は、コップを置くと、私のほうへゆっくりとふり向いた。たまにしか見られない、笑っていない彼の顔に、内心、どきりとする。 「貴女は、怖くはないんですか?。」 私は微笑んだ……と思う。答える代わりに、彼の左の耳に手を伸ばす。 「これ?」 「そうです」 「悟空もね、カフスを外した時の貴方は、怖かったって言ってたわ」 「あちらが僕の本質かもしれませんよ。良いんですか?」 「そうね…………」 しんとしていた室内に、外から、葉ずれのような音が、侵入してくる。風が出てきたのだろうか……。 「見てみないと判んないわ。取ってもいい?」 「駄目ですよ。全部外したら、貴女を殺してしまう」 私は、飲み干したカップを置くと、彼の肩に手を回して抱き寄せた。 気遣ってくれるのは嬉しいけど、私の好奇心も伊達じゃない。 「じゃあ、1つだけ」 その左耳に囁くと、素早く、唇で、硬い金属質の戒めを1つ盗み取った。 驚いた八戒が取り返すのよりも一瞬早く、手の届かないテーブルの上に、ぽんと放る。 キン、と、音を立ててカフスが灰皿の中に収まったのと、放った手を取られて身体をベッドに叩き付けられたのは、ほぼ、同時だった。 「はっか…い……っっ」 さあっ――、と、戸外から、音が押し寄せてくる。 しまった。雨が。 「責任、持てませんからね、」 八戒の見た目の変化は、思ったより凄くはなかった。ほんの少し、耳が尖ったのと、身体のあちこちに、薄く広がる、文様。諦めたように微笑む顔も、いつもと同じ。 違うのは、私の手首を戒める段違いの力と、全身から吹き上がる、物理的な圧力さえ感じるような妖気。 彼は、私の首に、優しいほどそっと手を添えた。伸びた爪が皮膚に触れて、恐れの為か感じているからかも判らないまま、身体が勝手に震える。 雨音のせいなのか、制御装置を取った為なのか、彼の表情に混じる、滴るような悲壮感。 確かに…………怖い。 「お手柔らかにしてちょうだ……」 「駄目です」 言いかけた語尾を、袈裟懸けに切り捨てると、八戒は、飲み込んだ言葉ごと、私の息を根から吸い取った。 「望んだのは貴女です。容赦はしません」 本当に、身が竦む程に、怖い。 でも私は、そんな貴方も、凄く、いい。―――― 朝には、雨は上がっていた。 カーテンから漏れる光の中で、八戒は心配そうに、私の顔を覗き込んだ。 「大丈夫ですか。起きられます?」 左の耳には、いつも通り、3つのカフス。 「ん……平気」 彼は安心したようににっこり笑って、サーバーのポットを取ると、やっぱりごろごろしているだけの私に、コーヒーを渡してくれた。 本当は喉元と手首に、ほんの少し、鈍い痛み。でも、大した事じゃない。 「昨夜は、本当に殺しちゃうところでしたよ。あんまり無茶しないで下さい」 「貴方になら、殺されても構わないわよ」 にこにこ言う方も言う方なら、にこにこ返す方も返す方だ。 「勘弁してくださいよ。もう、僕の目の前で女性が死ぬのは御免です。それに……」 「それに?」 女性じゃなければ良いのかなぁ…とも思ったが、とりあえずそっちじゃない方を聞き返す。 八戒は、少しだけ、昨日を思い出させるような微笑で、私を見て、言った。 「絞められて苦しい筈なのに、貴女は、凄く幸せそうな顔をしていたんです。だから、殺せませんでした」 戒めは、左耳に、三つ。あと、五つは、何処にあるのだろう…………。
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