空への手紙『お誕生日おめでとうございます。そろそろ秋めいて、涼しい風も吹き始めましたが、そちらは如何ですか。』 宿の文机に肘をついて、はふと考え込んだ。視線が一瞬、宙をさ迷ったが、すぐにペンの走る軽い音が、静かな部屋に響いた。 『私が今居る町も、他の町とあまり変わらない状況です。人々の間には貧富の差があって、不遇な子供は沢山居て、誰でも身内とそうでない人間とでは扱いが違って。妖怪の暴走などに関わらず、結局、人間の本質というのはこう言う物なのだと感じる事です。』 窓の外は、にぎやかな町の風景。物を商う音に、子供たちのはしゃぐ声。近所の噂話まで漏れ聞こえてくる。平和な、コミュニティの情景。 話には聞いていた。「彼ら」が、ついに受け入れられなかった場所。 『孤児院で育ったというあなたに、誕生日の話など、もしかしたらお嫌かもしれませんね。でも、やっぱり今日は、特別な日だと思うのです。あなただけでなく、私にとっても。』 彼は今、どの辺りを走っているのだろう。折角のこの日を、一緒に過ごせなかったのが、少し残念だった。でも、今日、1人でいるからこそ、こんな手紙を書くことも出来たのだという事に思い至って、はかすかに微笑んだ。 『月並みな言い方になってしまいますが、やはり、生まれてきて意味の無い命など、ありえないと思うのです。「生きて変わるものもある」と、徳の高い御方が仰っておられたそうですが、更に遡れば、「生まれた事で変わるもの」も、数多存在するのだと思います。』 悟空が居れば、絶対にケーキを用意してパーティーを主張しているだろう。悟浄もなんやかやと理由をつけて、彼を引っ張りまわしているに違いない。三蔵は……文句を言いながらも、結局は付き合ってくれるはずだ。 『あなたという存在が変えていったものは、恐らく、あなたが思うよりも沢山あります。望まれた出生とか、恵まれた生い立ちとか、そういうこととは全然別に、生まれた意味というものは在ると思うのです。』 外から入る風が冷たくなってきているのに気付き、は一度ペンを置くと、窓をパタンと閉めた。 既に夕暮れが近くなっているせいか、それだけで室内はかなり暗くなる。彼女は少し思案すると、荷物の中を探り、小さな燭台とろうそくを取り出した。 マッチを擦ると、僅かな硫黄の匂いと共に、手元がふわりと明るくなる。 ろうそくに炎を移すと、外の風景は闇に沈み、室内の様子がガラス窓にほんのりと映し出された。 『幸せだけで作られた道を歩いてきた訳ではない事も、よく知っています。でも、こうして、色々な因果が巡って、私があなたの生まれた日を知ったという事も、そんな意味の1つではないでしょうか。――』 薄暗い天井を仰いで、は溜息を1つ吐いた。 その逡巡の時間を表すかのような余白を隔てて、再び彼女はしたためた。 『――あなたが、真実何を求めていたのかは、今となっては、もう私は聞くことが出来ません。でも、彼はまだ、自分の足で歩き続けています。』 1つきりのほのおが、ゆらゆらと揺れる。 『再び生きる意味を得たからか、それともこれから得るためなのか、それも私には判りません。でも、彼はあなたを失って後に、また、得がたいものを得、そして今も、前を向いて歩いています。』 外は完全に日が落ち、町の音が少しずつ消えていく。。店はたたまれ、子供たちは家へ帰り、平和な生活者達の静かな夜が、また、始まる。 『ですから、今日は、私からあなたへこう申し上げる事を、どうかお許しください。 結びの言葉を書いた後、一度だけ読み返すと、は便箋を封筒に入れ、封をした。 宛先は、無い。 白い四角い封筒を、彼女は暫くの間、指先に挟んで眺めていたが、やがて、そっとそれをろうそくの火にかざした。 紙の上を、ゆっくりと火が流れ始めるのを確認して、手近の灰皿の上に丁寧に横たえる。 閉めていた窓を再び開けると、既に冷たくなっていた外気が部屋に流れ込んできた。 入れ違いに、灰皿から立ち昇る煙が、ゆっくりと、夜の空に昇っていった。 |