雨〜 天界 〜 その日、天界を覆う大気は、幾万の水滴を含んで、しっとりと濡れていた。 天蓬は、白衣の袖で、無造作に眼鏡の湿気を拭い、もう一度かけ直すと、窓から空を見上げた。 「しばらくは降りますね。この空の色は」 「ふうん。雲を見ただけでそんな事も判るのね」 後ろから覗き込んだの手には、下界の気象学の本がある。 天宮の女官であるは、下界になど降りたことは無い。天界では滅多に降る事の無い雨粒を、彼女は興味深げに仰ぎ見た。 一方、天蓬の方は仕事で度々下界に降りる上に、現地の状況把握や予測も職務のうちであり、気象観測は必要な技術といえる。よって天気予想はお手の物だ。尤も、天界の気象の法則が、下界と同じであればではあるが。 「雲というのは、大気中の小さい水滴が上昇気流で押し上げられたものですからね。 その形や色を見れば、天候の変化は簡単に予測がつきますよ」 「…………なるほど」 は、手元の本と、目の前の水溜りに次々と輪を描いている雨滴を、交互に見やった。 天宮の中でも外れにある天蓬の私室の周囲は、緑が欝蒼とした庭園に面している。そぼ降る雨の混じる空気を2.3度吸い込むと、彼女は言った。 「いつもよりも、植物の匂いがよくするわね」 「おや。わかりますか?」 「いくら女官だからって、香ばかり焚いている訳じゃないわ。私は、木や草のにおいは好きよ」 「ああ、……それは失礼」 天蓬はふと考え込んだ。 自分たちの仕事の上では、土や樹木の香りは、硝煙や血の匂いと隣り合わせだ。 彼女が思うほど、自然は自分たちの味方と言う訳ではない。天界の穏やかな、管理された草木や動物と違って、下界の自然は過酷な現実で満ちている。 「ねぇ、天蓬。下界では、雨はどんな風に降るの?」 無邪気なの言葉に、天蓬は苦笑した。 「流石に毎回、こんなに穏やかに降るわけじゃありませんよ。暑い季節には、バケツをひっくり返したみたいな雨に、えらい目に合わされたこともあります」 「凄いわねぇ」 「そうでなくても、下界に居る時は、大抵仕事中ですからね。のんびり風情を楽しむ暇もないし、何より問題なのは……」 「問題なのは?」 「煙草が湿気っちゃうんですよ」 「それは確かに、貴方と捲簾にとっては大問題ね」 は、楽しそうに笑った。 平和な、平和な天界の雨は、人にも物にも仇なすことなく、ただ静かに降り、何処へか流れていく。 「でも、私も一度、下界の雨を見てみたいわ」 伸ばした手に雨粒を受けながら、彼女はつぶやいた。 白い指が濡れて、艶やかに光る。 ああ、そうだ。管理されて整えられたものは、雨に濡れるとくすんでしまう。でも、下界では、全てがそうとは限らない。 「そうですね。貴女にも、下界の雨を見せてあげたいです」 「軍の部外者を連れて地上に降りたりしたら、処罰を受けるんじゃないの?」 「抜け道なんか、幾らでも作れますよ」 命ある花は、真に自力で生きている生命は、雨に濡れるとより鮮やかさを増すのだった。 「いつか、連れて行って上げますよ。下界では……」 天蓬は、腕の中の花を、静かに抱きしめて、囁いた。 「地上の雨は、この雨よりも、もっとずっと美しいんですよ」
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