受 胎 告 知





天蓬は、平時でも定期的に下界に下りる。
もちろん職務の上であり、『偵察』とか『状況分析』と言う命を帯びているのだが、半分以上は言い訳である。彼は下界に降りるたびに、その地で蒐集した面白い物品や興味深い情報を携えて、心の底から幸せそうな顔でほくほくと帰還するのだ。
今朝ほど、彼が敖閏様のオフィスに片手間(恐らく)に書いた報告書を投げ入れそしていそいそと自室に戻ったという噂を聞いたので、私は大急ぎで今日の分の仕事を片付けた。

夕刻に訪ねた天蓬の部屋は、案の定、新しいオブジェや書籍が増えていた。彼自身は軍服の上着を放り出したまま、ソファに沈んで微動だにしない。私は丸めたままの上着のほこりを払い、ハンガーにかけた。乾いた赤い砂が、ぱらぱらと落ちた。
彼が、わずかに身じろぎした。

「お帰りなさい。下界はどうだった?」
「……ですね?」
「ええ」

天蓬は、むっくりと起き上がった。蒐集品を読んでいるうちに眠ってしまったのだろう。
テーブルの上には、沢山の文献が散らかっていた。揃えておこうと手に取ると、天界で使われる紙とは違う感触に気付く。パピルス紙だ。

「今回も、ずいぶん沢山集めてきたのね」
「ええ。面白かったですよ。あ、これお土産です」

丁寧に畳まれた白い美しい亜麻布。そして、小さな壜に入った香油は、強い芳香を漂わせていた。甘松香(カンショウコウ)と同じ香りだ。

「欧州の東側、死海の近くで、面白い哲学をもった男が活動していました」
「ふうん」
「あの地域の感覚にしては物凄く前進的ですね。民族や出自に関わり無く、ある条件下のみにおいての救済を説いているんです。年齢もまだ20代ですよ。あれは既存の権力にそーとー睨まれるでしょうねぇ」
「ある条件って、一体どんなものを?」

天蓬は、やっと見つけ出した煙草に火をつけて深々と吸い込み、ふーっと長く吐き出した。

「条件はただ1つです。『信じる』という事」
「……随分とシンプルねぇ」
「あの辺のユダヤ教は、建前とはいえ徹底的な律法主義ですからね。民衆のニーズにも乗った形になりますが。ま、これからですね」

彼は、ガサガサと音を立てて、薄い茶色の紙の束をかき集めた。
赤い、砂漠の砂が、また床に散った。







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暫くして、天蓬はまた下界に降りた。
帰ってきたとき、彼は憮然としてつぶやいた。

「彼は、死にましたよ」

気のせいか、彼はがっかりしたような顔をしていた。

「案の定、はめられましたね。エルサレムに入城したときに目立ちすぎたって言うのもありますけど。民衆を上手く誘導されて罪人として処刑されました。ツメが甘いんですよ」

天蓬は、持っていた文献をテーブルの上に投げ出した。
結んでいない巻物が解けて、どさりと床に広がる。

「しかも、彼の直属部下であった者たちは各地に散っていったんですけどね、創始者の神格化を始めたんですよ。やめてほしいなぁ。あれをやりだすと、思想って破綻するんですけどねぇ」
「神格化って……、ユダヤ教は一神教じゃなかったかしら」

私は、床に落ちた巻物を拾い上げた。
あの地方の自然は過酷だ。樹木を素材にした紙など、未だに量産はできないと言う。
羊皮紙の巻物には、びっしりとヘブライ文字が書かれていた。

「一神教ですよ。勿論」
「じゃあ、神格化なんて、どうやって?」
「弟子たちの記述にこうあります。彼は病人を癒し、死人を生き返らせた。水を酒に変え、5つのパンと2匹の魚のみで5千人を養った」

整えた巻物をテーブルに置くと、その傍にあった素焼きの壷から、小さな破片がカランと落ちた。

「何より飛躍してるのは、彼は父なる神の御子であり、その証拠に母は処女のまま天使の告知を受けて彼を産んだ、と」

天蓬はまた、ふーっと煙草の煙を吐き出した。呆れて、いや、憤っているに違いない。彼は、そういった盲目的な権威付けをとても嫌う。
私は、持参した茶器で淹れたお茶を、彼の前にそっと置いた。迷迭香(メイテツコウ)の香りがアークロイヤルの煙と、暫し、せめぎ合う。窓の外には初冬の雪がちらつき始めた。天界ではこの時期にしか見られぬ、白い、空の使者。
私は、不機嫌そうな彼に向かい、にっこり笑って投げかけた。

「つまり、本格的に宗教になろうとしているのね」

彼は些か不満そうな顔をした。が、私は一概に、彼の弟子たちを批判する気にはなれなかった。彼の言うように、戦が人類そのものの姿なら、そのイデアに最も深く影響するのは、事実ではなくイメージだ。
稀有な哲学と、無二の宗教。この思想は恐らく後者を歩むのだろう。

「彼は、本当に神になるかもしれないわ」
「根拠は何です?」
「根拠なんて無いのよ。今、ふっと思っただけ」

ひとたび『神』になれば、根拠など必要としないのだ。信仰を唯一の条件とした彼の思想なら、その道筋も、あながち間違いではあるまい。
私は、たった今、自分の奥底の琴線に触れていった、非論理的なイメージをそっと口にした。

「ねぇ天蓬。私たちもいつか、あの地に生まれることが出来るかしら」

彼は何も答えず、窓の外の雪を見ている。

生まれたばかりの神に、密かに、私は祈る。


――御言葉通り、この身に成りますように。――










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