華胥かしょは手の中にある




「えい」
 突然の衝撃に、八戒はいつもと違う反応を見せた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
 もっとも、それも当然かも知れない。
「あら、意外な反応?」
 常に冷静沈着で皆の胃袋と仲裁役の要と言える存在として、ある意味で慕われて。ある意味で恐れられている存在ではあり……八戒が慌てふためいた姿などほとんど見られる事などないのだが。さりとて、まったく見られないとも限らない。
「な、何をするんですか。貴方はぁ……?」
 怒鳴り散らそうとしたものの、なんとかバランスを取り戻した八戒は。自分を押した相手を見ておかしな事に気がついたのだ。
「貴方でも、そんな顔するのね。八戒」
 おかしそうに―――実際、彼女にとってはおかしいのだろう。くすくすと笑って口元を手で押さえている。
 服装は子供の着る様なそれなのに、彼女の体格は立派な大人の女性のそれだ。見かけだけで判断すると、どうやら20代後半と言った所だろう。
「ええと……なんだか貴方とは初めてお会いする様な気がするのは気のせいでしょうか?
 それと、ここは一体……?
 差し支えなかったら、教えてもらえませんか?」
 半ば無意識で顔に笑みを浮かべ、八戒は彼女と周囲を見回した。
 片方は地獄の渓谷ではないかと思われるくらいの、底が見えぬ崖っぷち。どうやら、その上に半ば足が宙に浮いてる状態で押されたのだろう。よく落ちなかったものである。
 もう片方は、淡く薄桃の花が咲き乱れ。何人かの人達がいるような感じではあるのだが、この位置からは個々の存在を認識するのは難しそうな感じがある。見えている様な気もするのだが、どうしてもそれが誰なのか判らないのだ。決して見えない距離とも言えないのだが。
「あら、知らないでここにいるの? 無自覚な人ねぇ」
 きゃらきゃらと笑う姿は、なんとなく無邪気な感じがある。
「ここは『華胥(かしょ)』よ。現実より解き放たれた、夢の世界……ここは『猪八戒』と言う人間から妖怪になった半妖の男の夢の中よ。
 私のことが気になるの? 私の事は……と呼んで」
さんですか……夢の世界、ここが、僕の夢なんですか?」
 いきなり、見ず知らずの場所で知らない人に殺されそうになって、それでいきなり「夢だ」と言われても。思い切り納得したくなるような、それでいて納得したくない様な、そう言ったジレンマにも似たものが出てくるのは当然と言うものであって。
「そんな事いわれても、私だって貴方の夢の産物であって産物でないものだもの。貴方が無自覚だからってここが「僕の夢なんですか?」って聴かれてもそうだとも違うとも言えないわよ」
 八戒は、決してこう言った「禅問答」の様な受け答えが嫌いなわけではない。ただ、だからと言って時と場所と場合を選ばない情況と言うのに。常に笑っていられると言うわけでもなく……。
「まあ、いつもよりは平和。といったところですか? それにしても……」
「まあまあ、難しい顔をしないでよ。
 せっかくなんだからさ。八戒も早くこっちにおいでよ、ぼさぼさしてると勿体無いよ」
「あ、ちょっと……さん?」
 崖っぷちでぼーっとしていた男をどついて、笑ってその場を立ち去る女と言うのも……なんとなく何も言えない。ただ、何をどうする事も出来ずに立ち尽くしていると言うのも話しに展開がないので、とりあえず後をついていく……しかないと言う話もあるのだが。
さんなんて他人行儀な……まあいいか、他人だしね。
 とりあえず、お茶でも飲む?」
 そこは、薄紅色の花霞の下にひっそりと佇む茶屋の様な建物だった。
 幾つかのベンチが置いてあり、そこには赤い布がかかってあり人が一人ずつ座れる様に一定の幅で薄い紫色の座布団が敷いてある。その一つに腰をおろした八戒に、誰も何も言わない事を良い事にが奥へと入っていった。
 手には、丸いお盆と茶器。串に刺さったお団子と葛餅が乗っている。
「そうですねえ……お酒はないんですか?
 勿論、お茶に団子と葛餅と言うのも悪くないんですけど。せっかくですから」
「まったくもう、昼間からお酒なんて体の悪いどっかの誰かみたいなこと言うのね。
 別にいいけどね、お酒でも。今取ってくるから、いい子で待っててちょうだい。あ、言っておくけどお団子は私のだからね。食べたら怒るわよ?」
 忙しそうな様子で奥へと引っ込んだだったが、奥でお花見をしてる様な人たちの中の一組が何かを言ったらしく。は「はーい、ただいま!」と言って答えている。
「忙しそうですね、手伝いましょうか?」
 早々に葛餅とお茶を胃袋に収めてしまった八戒としては、いつもと勝手が違う事もあってか落ち着かない気がする。
「ありがとう。これ、向こうの人の所まで運んでくれないかしら?
 気をつけてね、とっても『えらい』人たちだから機嫌を損ねないように」
「そんなに偉い方々がいらっしゃるんですか?」
 八戒は言葉ではない所で「僕の夢の中なのに?」と言う言葉をつけたつもりだった。
 自分の夢の中なのだから、自分で思わぬ物事などある筈がない。なのに、自分はどうやら薄紅色の霞の下のお茶屋さんとか、花の下で酒を酌み交わしているだろう「えらい」人を夢に出しているらしい。
「すみません、さんに言われて持ってきたんですけど……」
 酒がなみなみと入っているだろう徳利二本を持って現れたのは、のお茶屋から大して離れていない木の下。
 そこには、一組の男がいる。
「流石の貴方でも、そう言うものですか?」
 一人はお坊さんなのだろう、しかもかなりの高僧の様な気がする。
 よく見慣れた服装をした……けれど、顔が見えない人物。どこかで会った事がある様な気がするけれど、同時に会った事がない様な気がする。
「そりゃあな、俺もお前達より長生きはしてるつもりだが……な」
 片方がきちんと正座をしている事も手伝っているせいか、もう片方は普通の格好をしている筈なのだが。かなり片方に比べると粗雑な感じが伺える。
 それでも、こちらの方が徳も力も何万倍も高い様な気がする。
「ああ……お手数をおかけします。お酒、こちらにいただけますか?」
「いいのか? お前それでも聖職者って奴だろう?」
「良いのですよ、たしなむくらいは人として必要な事です」
 どちらも、ある意味では正反対に見える間柄だと言うのに。会話の中には笑みがこぼれている。
 不思議と、いつかどこかで見たことがある様な気がするのに。一度も見たことがない光景だと言うのがはっきりと理解出来てしまう。
「あのお二人、どんな方なんですか?」
 花のせいなのか、それともここが夢の中だからなのか。それははっきりとは判らないけれど、一度も会った事がないと確信を持って言える二人なのは間違いがない。
「ありがとう、八戒。
 それはね……とっても『えらい』お二人なのよ。あんまりにも『えらい』ものだから、ああして気晴らしをなさってるの。きっと、死んでも生きてるのと同じくらい『えらい』方々におなりでしょうね?」
 の言葉は、まるで二人がすでに死んでる人たちの様に見える。
 だが、八戒はそれ以上を聴かなかった。
 がお酒を用意してくれたと言うのもあるし、それに夢は自己の投影。自分が望まない事や自分自身を本当に傷つける様な事など、起きるはずがない。
「これは……美味しいお酒ですね」
「やっと笑った。これは、いつかの「猿酒」の味よ。
 私にも一杯くれるかしら? いいでしょ?
 いいお酒は、皆で飲んだほうがもっと美味しくなるわ」
「それに、美人と飲めばもっと味が良くなると昔の人は言いましたしね」
「本当に口がうまいわね」
 実際、それはうまい酒だった。
 後味が残らない、上品な喉越し故に高濃度のアルコールを感じさせない。すっきりとした、けれどどこか一本芯の入った……とでも言えば良いのだろうか?
「本当に美味しいお酒だわ……」
 舌で転がしても喉に流し込んでも、安酒でしか味わえないものがないのは僅かに寂しさを感じるけれど……だからと言って、市場に出ればかなりの金額を出さなければ飲めない酒を嫌う存在は多くない。
「美人と飲んでるせいかしら?」
 幸いにも、八戒もそう言う数少ないマニアックな意見の持ち主ではなかった。
「美人が、ではなくてですか? さん」
「ふふ、ありがとう。でもね、八戒も美人だと思うわよ」
「はは……なんだから、そう言われると。まるで僕がナルシストみたいじゃないですか?」
 嫌な考えになってしまい、八戒は笑いが乾くのを止められなかった。
 思うようにならない、これは夢の世界の筈なのに。自分自身の夢の世界の筈なのに、それともそう言う事を心の中では考えていると言う事なのだろうか?
 そもそも、このと言う人物も……どこかで見たことがある面差しをしているのに。誰と似ている顔なのかも思い出せないと言うのはひどい話だ。
「そう、悲観する事もないんじゃないかしら?
 確かに、私は夢の世界の住人ではあるけれど……何も八戒の夢だけに住んでるわけではないもの。
 聴いた事ないかしら? 夢にはきちんと等しく世界があって。そこには良いモノも悪いモノも妖怪もあるの。それらは一つの夢だけに住んでるわけではなくて、夢の世界を渡り歩いたりつないだりするのよ。そうする事で夢を広げたり縮めたりしているの。
 夢の世界の中心、人々の夢の安息所……夢の森の精霊達」
さんが、その夢の森の精霊だ……と言うわけですか?
 ああ……それなら、それでも良いかも知れませんね……」
「物騒な事を考えないで欲しいな、「夢の世界の妖怪を殺しても数に入るかな?」なんて」
 くすくす笑うを横目に、八戒は笑みを消してしまう。
「言ったでしょう? ここは華胥の世界。
 全ての現実、全ての夢、全ての過去、全ての未来、全ての道行きの交差する世界。
 何もかもが本当になって、何もかもが消え去ってしまう脆い世界なのよ」
「ご心配なく……僕は、もう妖怪ですから。
 今ごろ、新たに妖怪を殺したところで。ただ妖怪としての人生を過ごすだけの話であって、これから別の何かに変わろうとは思っていません」
 そう、ここは過去と未来の交差する世界。
 何もかもを見通し、そして何もかもに裏切られる。
 全てを収める事も出来るけれど、同時に全てを敵にする。
「それなら良かったわ、いきなり『人類の敵!』とか言ってかかってこられても困るし」
「おや、そんな事があるんですか?」
「あるのよ。前なんて聴いた話なんだけど、引退収めに綺麗な夢を紡いでいたら。夢の中で正体を見破られたあげくに夢を壊されてしまったって話まであるんだから」
 それは自身の話じゃないだろうか? と考えないでもなかったが、あえて八戒は聴くのを止めた。
「ひどい話じゃない? まあ、見破られる方も悪いとは思うんだけど」
「ひどい話なんですか?」
「まあ……そいつも本来は悪夢担当だったらしいから。一概に悪いとも言い切れないんだけどね」
「そう言う意味では、ひどい話ですねえ」
 ひとしきり笑った後、優しくなでる風を感じた。
「もう行かれますか?」
「まさか、行くのは八戒。貴方であって私じゃないわ。
 私は、いつだって華胥の中にいる。華胥の中にさえくればいつでも私に会う事は出来るわ……たとえ、その時の姿が今の私と同じ姿でなくても」
 薄紅色の花霞も、その下で騒ぐ人たちも同じ。
 お茶屋さんも、その側にあるベンチも変わらない。
 ただ、色を失って行くのが判るだけ。
「ここから、出てゆかなくてはならない様ですね。
 出来たらで構わないんですが、教えていただけますか?
 さん、あなたは。あなた方は、本当は……?」
「私は、
 ここは華胥。
 それでいいじゃない?
 私はいつだってここにいる、華胥にある。
 八戒、貴方さえ華胥へくれば何時だって会えるんだから」
「……貴方にはかないませんね、お世話になりまし……どうしたんですか?」
 見れば、何が面白いのか顔を押さえて笑っている。
 考えてみたら、は八戒が華胥に現れてからずっと笑ってる様な気がする。
「だって、八戒ったらいつも同じ台詞で終わるんだもの。
 もう、ここから行くのね……忘れても構わないわ。いつだって貴方ったら忘れっぱなしなんだもの。私の事なんて一瞬でも思い出してくれない……。
 なんてね、それでいいのよ。私は、夢は確かに必要だわ。見れば心が和むものでもある事だしね。だけど、それだけではダメ。夢におぼれて現実に戻れなくなってしまうのだけは……それだけはダメだから」
 目に映る全てが、急速に色を失って行くのが判った。
 誰に言われるわけでもなく、にも八戒にも、残りの時間が少ない事がわかった。
 本当は誰のものとも知れぬ夢が、夢を見ている人物の目が、今にも覚めそうなのだという事を。
「忘れたくないですよ、さん」
 はっと、がうつむき気味の顔をあげた。
 それはどこか印象的で、そして良く見知った人物の顔をしていた。
「貴方の事は、忘れたくないです。
 もしかしたら何度も忘れてるのかも知れませんけど……また忘れてしまったら、僕に教えてもらえませんか?」
 全てが真白に包まれた空間の中、残像が八戒には見えた様な気がした。
 残像の中のは、「喜んで」と言ってる様な気がした。
 もしかしたら、それはそう思いたかっただけなのかも知れないが。

 朝のさわやかな時刻……とは、全く無縁かもしれないが。
「あー! それは俺のだって言ってるだろう!」
「ほ〜お、どこにお前のだって証拠があるんだ?」
「ソイツは俺が……って、俺のキープしてある皿から持ってくなよ悟浄!」
 朝のうららかな時間とは全く合わず、元気な声と音が待ちの宿屋の一角から聞こえてくる。
「やかましい! 死にてぇか、てめえら!」
 いつものパターンのまま、いつものパターンで交わされる会話。
 大抵の人は引くのだが、すでに滞在して三日も立ってるせいなのか。それとも目の前にある現実を受け流すだけの技術を手に入れたのか……宿と、その周辺の人物達は取り立ててて騒ぎ立てる事はしなかった。
「いやあ……朝から元気ですねえ」
「おはようございます、お客さん。
 おかわりならまだありますけど……いかがですか?」
「ありがとうございます。えっと……?」
 この宿に、もう三日も滞在しているのに見たのは始めての顔だ。
 幼い顔ではあるが、手にしたお盆の上には山と詰まれた食べ物がある。
「すみません、昨日まで寝込んでたものだから……下の娘のです」
「え……?」
 声をかける暇はなく、幼女―――と言っても立派に家の手伝いが出来るだけの年齢になっている娘は。呼ばれた悟空に食べ物を渡そうとして、お盆ごと悟浄に奪われて、そして始まる喧嘩に巻き込まれそうになった所を怒鳴り散らした三蔵の声に驚き。腰を抜かしかけると言う一連の出来事が待ち受ける事になるのだが……。
「本当に、貴方の事は忘れたくないですよ。さん。
 花喃みたいな……と言ったら、しかられてしまいますか?」
「何か言ったか?」
「いいえ。
 三蔵……あのさん、将来有望だと思いませんか?」









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