杯 の う た




「……ああ、ちくしょう。
 先客がいやがったか」
 天界軍の会議があまりにも面倒だから。
 そんなくだらない理由でサボりを決め込んだ捲廉大将は、お気に入りの桃の木の下で休んでいる人影にちっと舌打ちした。
 ここいらは、たくさんの桃の木がある。
 その中でもひときわ大きいお目当ての木は、一人で酒を呑むのにはちょうどいい場所だった。
 何と言っても、木陰がいい。
 うららかな陽射しを程よく遮り、時に心地よい風が吹く。
 彼がサボる時に休む木はいくつもあるが、どこも天蓬元帥にことごとく見破られている。
 だが、ここだけは、まだ知らないはずの、とっておきの木だった。
「……邪魔するぜ」
 仕方ない。サボりを密告される覚悟で人影に近づくと、捲廉ははっと息を呑んだ。
 一人の、小柄な女だった。
 白く長い髪を腰のあたりで束ね、やはり白い着物と赤い袴のコントラストが微妙な柔らかさを出している。
 そして肌も、透き通るように白い。
 額には、赤いチャクラがぽつんと一つ。
 女はただ、目を閉じて、微かに唇を動かしていた。
 やがて捲廉の気配に気がついたのか、顔を上げてゆっくりと微笑んだ。
「……お邪魔しております」
「――あれ。あんた、どこかで見たような」
 ふと彼女の顔を見て、捲廉は首をひねった。
 まだ歳も若い女だった。もしかしたら、自分よりも若いかもしれない。
 どこかで――確実に自分は、この女の顔を見ている。
 しばし考えあぐねて、やがてぽんと手を打った。
「思い出した。確かあんた、天帝に仕えている占い師の」
「左様に。と申します」
 女は、微笑を絶やさぬまま答えた。


「天帝のお守りはいいのかい?」
「わたくしは、そのようなことはしてはおりませんから」
「じゃ、つまりはサボりか?」
「はあ。そうなりますね」
 瞳を閉じたままふわふわと答えるに、捲廉は小さく笑った。
「じゃあ、同じ穴の狢か」
「いえ、わたくしは、この木の精を少し分けていただこうと思って来ただけなのです」
「精を?」
「ええ。精を少し分けていただいたお礼にと、歌を謡っておりました」
 なんだそりゃ。
 捲廉の顔には、明らかにそんな疑問が浮かんでいた。
 やがてがくすくすと笑い出して、捲廉に尋ねてくる。
「あなたは、捲廉大将ですね?
 声でなんとなくわかりましたが、違いますでしょうか」
「いいや、当たってるぜ。
 ……てことは、あんた」
「はい。私のこの目は、生まれし時より見えておりません」
 なんてことのないように、は言う。
「ですが、代わりに先を見る力を授かりました。
 私の使命は、先を読むこと。
 人に指針を与えることにございます」
 謡うような口調。
 それがさも当然なのだとでもいうように、彼女はただ微笑むばかりだ。


「……捲廉大将は、お酒を呑もうとこちらまで?」
「それも、先見の力かい?」
「いえ。先ほどから、匂いが」
 慌てて、右手にぶら下げた徳利を見る。
 それはしっかりと栓をしてあって、普通ならば酒の匂いに感づかれることはないはずなのに。
「……凄いな。わかっちまうのか」
「あまり、嗅覚が鋭いのも不便ではありますが」
 困ったように微笑む。先ほどからこの女は、ひたすら笑顔ばかりで、どう対応すればいいのか迷ってしまう。
「呑むか?」
 捲廉が徳利を差し出すと、はきょとんとこちらを向いた。
「どうせだ。
 せっかく呑むなら、髭面のムサい親父どもよりも綺麗な女の方がいい」
「――はい。頂きます」
 微笑んで答えた彼女の為に、懐から杯を二つ取り出した。
 徳利の栓を開け、とっておきの酒を杯に注ぐ。
 一つはに差し出し、もう一つは自分が掲げた。
「ありがとうございます」
 軽く辞儀をして、は一息に杯の中の酒を飲み干した。
 その呑みっぷりに、思わず目が丸くなる。
「こいつはたまげた。酒は好きかい?」
「ええ。時々、知人と呑み比べをするくらいには」
 ……いや、充分飲兵衛じゃねえか。
 悟られないよう、一人ツッコミを入れてみた。
 それを呑みこむように、捲廉も同じように杯を一気に煽る。
 二人だけの宴は、ほんの少しの間だけだった。
 だが、その中では、確かに心地いい風が吹いて。
 気兼ねなく話を弾ませるくらいの、いい宴だった。


「とても美味しいお酒でした。すっかりご馳走になってしまって」
 恐縮するようにに、捲廉は笑って手を振った。
「気にすんな。こっちも楽しんだしな」
「これでは、何かお礼をせねばなりませんね」
「いいって。別に」
「でもそれでは、わたくしの気が済みません」
 は立ち上がり、小さく呟く。
「――そうですね。では、歌を一献」
「どんな?」
 捲廉の問いに、彼女は一言。
「ええ。――『杯のうた』を」
 そして、彼女は謡い始めた。

 柔らかな声。流れる旋律。
 酒を愛し、花を愛し、風流を愛する男への、ただ静かで優しい歌。
 ふと風が木々を揺らし、白い花びらを撒き散らした。
 その花びらの一枚が、ひらりと捲廉の杯に落ちて。
「……いいねえ」
 ただ一言。
 捲廉は言って、笑った。


 捧げるは杯のうた。
 酒を愛し、花を愛し、風流を愛するかの方に。
 先は見える。行く先のさだめは血の匂いが纏わりつく。
 だから、今だけは。
 うたが、あなたの指針となるように。










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