鈴……リン。 ひっそりとした暗い部屋に、かすかに鈴の音がした。 三蔵は、眉をひそめて振り返った。 明日には長安を発つ。わずかな私物や旅に不要な物は長持に入れて封をした。事後処理の書状書きも終わったので、もう休もうと思っていたところに水をさされ、彼は不機嫌な顔で音のした方へ踵を返した。 この静けさでなければ気付かなかったであろうほど密やかな音の源は、部屋の中ほど、その長持を括った紐に、いつのまにか通してあった。 一瞬、悟空を呼ぼうと声を上げようとし、そして彼は、あの俊敏な影が夕刻から周囲に見えなかったことに気がついた。恐らく、怒られる事を判っているのだろう。 三蔵は、煙草の箱を取りあげると、部屋の戸を開けて、夜の闇へ出て行った。 寺院の裏手、彼の庵の近くの空き地は、手入れもされていない疎林だった。隠れて煙草を吸うのに格好の秘密の場所でもあり、今までも度々、彼は、ここで煙を纏わせながら、まばらな木立の隙間から見える空を眺めていた。 三蔵がこの場所を気に入りと定めてから暫くした頃、塀の外にしばしば人影が見られるようになった。 悟空ではなかった。彼は、三蔵が邪魔をされたくない時にここに身を置く事をよく知っていたし、彼がその気になれば、三蔵にすら全く気付かれずに背後に立つ事だって出来る。 三蔵は、折角の隠れ場所をどこかの煩い輩に知られたかと不快に思った。が、意外にもその人影は、三蔵と目が合うといつも慎ましく礼をし、そして、静かに立ち去ってしまうのだった。 深夜に部屋を出た三蔵は、その林に入ると、常のように木の幹に背を預け、煙草を点けた。 彼が煙草を吸い始めてほどなく、その人影は、いつものように低い塀の外にひっそりと現れた。相手は、なぜか今夜は立ち去ろうとはせず、ただ静かに、ただよう紫煙を見つめていた。 三蔵は、そちらの方を一瞥もせず、ぶっきらぼうにつぶやいた。 「……サルをどうやって手懐けた」 華奢な影が、わずかに顔を伏せた。――リン、と、部屋で聞いたものと同じ音がした。 「申し訳ありません」 「怒ってる訳じゃねえよ」 ふーっと煙を吐き出して相手を見やると、髪に挿した簪に、鈴が1つ。 「ここに来るようになってからすぐ……。彼とはよく話をし、私に色々と親切にしてくれました」 溜め息と共に、三蔵のこめかみに小さく青筋が立った。 あの人懐こい悟空の事だ、容易に想像がつく。お人好しのバカザルが。 やはり、あの鈴を長持の紐にかけたのは悟空だ。で、それを頼んだのはこの女だ。 「彼を……お咎めにならないで下さいませ」 「俺の持ち物に無断で触った奴を、ぶっ飛ばさない訳にはいかねぇな」 「では代わりに私をお打ち下さい」 「…………」 できるかボケ、と言う言葉を眉間を押さえつつ飲み込む。やれやれだ。 「で、あれをどうするつもりだ」 「まだ、捨てずにおいて下さっているのですか?」 「紐に封をして、鍵は留守居役の僧正に渡しちまったんだよ。わざわざもう一度返せって言うのもめんどくせぇ」 「……よかった」 「殴るぞ」 「それで貴方様のお気が済むのなら」 彼女はゆっくりと顔を上げ、目を閉じた。 …………勘弁しろ……と、思いながら、三蔵はイライラと次の煙草を取り出した。 「明日から俺は旅に出る。アレは部屋に置いていくぞ」 「有難うございます」 ほう?、と、火を点ける手が一瞬止まった。 「いいのか」 「はい」 三蔵は、彼女の顔をもう一度見直した。 天竺へ行く事が決まってから、周囲の者は煩いほどに、あれを持ってい行けこれを持って行けと彼に言うのであった。年長の僧達は訳知り顔に、旅の危険と不便を語り大袈裟な装備を勧めてきた。若い者は媚びるように、謂れ深い(とされている)護符や法具を押し付けてきた。 ――なのに、この女は、自分が送った物を置いて行かれる事を感謝するという。 「名は何と言う」 「と申します」 「俺の行く先は聞いているか」 「はい」 「二度と戻って来ないかもしれねぇぞ」 彼女は、三蔵の紫色の眸を初めて正面から見据え、そして言った。 「貴方様が、負けるはずはございませぬ」 髪の鈴が、また、リンと鳴った。 「貴方様が、負けて倒れることなど有り得ませぬ。ならば、何年かかろうとも、必ずここにお戻りになられる筈です」 彼女は三蔵に手を差し伸べかけ、途中ではたと止め、そしてきつく握った拳を胸に抱くように引き寄せた。 ゆっくりと垂れた頭の上で、また、かすかに鈴が鳴った。 「その時に、私を思い出していただけたなら、そうしたら、手ずからお返しくださいませ……」 「俺に指図する気か?」 「……申し訳ありません」 風も吹かぬ林の中に、痛いほどの静寂が降りる。 触れれば破けそうなその空間を、暫しの後に、三蔵は無造作に払いのけた。 「何年かかるかも判らん。お前のほうこそ嫁にでも行ってすっぱり忘れちまうんじゃねぇのか」 「何年経とうと、私は忘れませぬ。貴方様が長安にお帰りになった日の晩に、私は必ず、ここに参ります」 手で顔を覆ってしまった相手に、泣くな、と言いかけて、三蔵は止めた。 彼女は泣いてなどいないのかもしれない。 「私は、忘れませぬ」 声は掠れてはいなかった。だが、彼女はもう顔を上げることはしなかった。そして、静かに一礼した後に、小さな影は、木立の向こうに消えていった。。 最後に頭を下げたときにだけ、また、微かに鈴の音が聞こえた。 三蔵は、咥えたまま忘れていた煙草にやっと火をつけた。胸の底まで吸い込んで、深々と吐き出す。 「大言壮語しやがる。この俺に」 もう、何の音もしない、無音の林に向けて、彼は呟いた。 「俺が思い出せたら、だと?。馬鹿にするな」 ……忘れてなどやるものか。何年経とうとも。 |