close the world.「誰が、勝手に出て行っていいと言った」 戻って早々に、そんな刺々しい声が飛んできた。 薄汚れた狭い部屋の中の、スプリングも利かない固いベッドの上から、獰猛な黄金の獣がこちらを睨みつけている。瞳の紫暗が、普段の倍以上の殺気をたたえているのは、ろくに身動きの取れないこの状況に苛立っているせいだろうか。 「あのねぇ。ちょっと外の空気吸いに出ただけよ。そんな怒ることでもないでしょうに」 もまた、不機嫌さを露わにしながらそう言い返した。 が、その片腕には包帯が巻かれ、三角巾で吊り下げられた状態である。くすんだ色彩に満ちたこの部屋の中で、唯一鮮やかに白いそれが、余計に痛々しく見えた。 それでもは、怪我などまるで意に介さぬかのように、いつも通りに振る舞おうとする。動作も緩慢ではあるものの、時々勝手に出歩くわ、放っておけば包帯の交換や傷の消毒まで自分でやる始末だ。 その度に、こうして三蔵に頭ごなしに怒られるのだが、それでも一向に懲りる様子がない。多分、聞き入れる気もないのだろう。 憮然と燻らされる紫煙の合間で、ち、と小さな舌打ちの音がした。 三蔵とがこの部屋に転がり込んだのは、三日ほど前のことである。 いつも通りな旅の途中の、いつも通りな敵の襲撃。いつも通りに、と迎撃したまでは良かったが、それが小さな村の中であるのが不運だった。原因までは分からないが、混乱の際に大きな火災が発生した。多分、死傷者も多数出たことだろう。 深手を負い、意識を失っていたを抱え、三蔵がどうやってこの場所を見つけたのか。本人は黙して語らない。 分かっているのは――あの日以来、悟空たち三人とは別れ別れになったままであること。ただ、それだけだ。 訂正。分かっていることは、あともう二つあった。 この部屋が、既に主を失っていること――古びた冷蔵庫に貼ってあったメモの日付は、一番新しいものでも一ヶ月半前で、紙の端も少し黄ばんでいた――と、この街に住む誰も、三蔵との素性に気付いていないことだ。 「素性が知れれば騒ぎになる。騒ぎになれば、必ず敵が嗅ぎ付けて来る」三蔵はともかく、今のはろくに戦えない。多少の敵なら、空いた利き腕一本で暗器を操って撃退出来るだろうが、『千尋』を振るうのはまず無理だ。 三蔵が法衣を脱ぎ、こんな安物のシャツとジーンズに着替えたのも、恐らくはその為だろう。豪奢な金髪は隠しようもないが、名乗らなければ、服装を替えてしまえばある程度は周囲を欺ける。要は、誰とも深く関わらなければいいのだ。 但しその為に、悟空たちと未だ合流出来ずにいるのだが。 「さっき外に出た時にね、近所のおばさんに、貴方のこと随分訊かれたわ。 勿論、適当なこと言って誤魔化したけど」 「…………」 ベッドの端に腰を下ろし、三蔵の肩に頭を預けながら、がぽつぽつと話し始めた。 その声音に、先程のような気勢は無い。多分、外に出て疲れたせいだろう。 「あのおばさん、『あの綺麗なお兄ちゃん、あんたの恋人なのかい?』なんて、真面目な顔して訊いてくるのよ。 笑っちゃうわね」 抑え目にした笑い声さえも、腕や腹に受けた傷に酷く響いた。 刺すような鋭い痛みに見舞われ、が僅かに眉を寄せる。が、それでも笑うこと自体は止めない。 凭れた肩に、微妙に不興の色が混じったような気がしたが、そちらは敢えて気付かない振りをした。 「……何か、変な気分。誰も、貴方を知らないなんて」 「…………」 共に旅をするようになって以来、常に付きまとっていた『愛人』という陰口。 実態はともかく、高僧が女連れで旅を続けるなど、本来は有って良いことではない。当然のことながら、行く先々で人々から奇異の目で見られ、時にはあからさまな非難を受けることもあった。 勿論、それらを一つ一つ取り上げて怒る程、も暇ではない。殆どは聞いても聞かない振りを続けるし、敵であれば斬り捨てる。そうして、ずっと日々を乗り切ってきた。 が、それでも。世間に流布する風評は、嫌でも耳に入ってくる。 ――もし本当のことを知ったら、街の人たちの態度も変わるかしら―― 誰も自分たちの名を知らない街。時を止めた狭い部屋。傷ついた身体を庇いながら、三蔵と二人、息を潜めて過ごす日々。 有り得ない事柄が幾つも積み重なって、有り得ない筈の平穏が生み出されて。 無理矢理に時計の針を進めたい気持ちと、時計そのものを壊してやりたい気持ちと。 矛盾する二つの感情が、胸の内で衝突する。 「三蔵? もしかして、怒ってる?」 「……訊くぐらいなら、最初からンなこと言うんじゃねぇよ」 凭れていた肩が、かすかに動く気配を見せた。 それを察知し、が少し頭を上げれば、三蔵がすっと立ち上がった。 その今の表情は、向けた背に阻まれて見えない。額にある筈の赤い印も、何も。 「怪我人が喋るな。大人しく寝てろ。もう勝手に動き回るんじゃねぇ」 「……はいはい。分かったわよ」 打ち切られた言葉を喉元で押し潰し、がベッドに横になった。 傷口を庇いつつ、三蔵から背を向けるようにそっと寝返りを打てば、少し歪んだブラインドの隙間から差す夕陽が眩しい。 苛立つような、無性に泣きたいような、こんな訳の分からない感情は、きっと傷の痛みが引き起こしたものだろう。人間、怪我したり病気になったりした時は、考えが後ろ向きになってしまうものだ。 弱い自分は、好きじゃない。『女』である自分も。 が一つ深い息を吐くと、背後でばさり、と紙が広がる音がした。多分、三蔵が新聞でも読み始めたのだろう。 非日常の中に混じる、日常の名残。その対比に、何故か妙な悔しさと安堵を覚えつつ、は頭まですっぽりと毛布をかぶり、瞼を閉じた。 澱んだ沈黙の中、かちこちと鼓動と同じリズムを刻み続ける時計の音を、少し耳障りに思いながら。 腕や腹に抱えた傷が、やけに疼いて痛かった。 |