Hold
晩秋の夜の冷え込みが、の目を覚まさせた。
毛布から露出した肩や素肌から、夜気が容赦なく熱を奪う。半ば無意識に毛布をたくし上げようとして――自分が、何も着ていない事実に気が付いた。
ああ、そういえば。未だとろとろとした眠りと気だるさに半分つかったままの頭で、数時間前の出来事を思い出す。
『ったく、誕生日なんざ何がめでてぇんだ。ガキじゃあるまいし』
『せっかくお祝いしてあげてるのに、酷い言い草ね。
八戒は朝から厨房借りて料理の下ごしらえに取り掛かってたし、悟浄もあちこち買出しに行ってたし、悟空や私もいろいろ手伝ったのよ。
感謝しろとは言わないけど、もうちょっと喜んでくれたっていいじゃない』
『そうしてくれと頼んだ覚えは無ぇ。お前らが勝手にやった事だろうが。
おまけに、お前からの誕生日祝いが、お前自身だと? 生まれて生きてるのがめでてぇなんてデカい事ぬかしたくせに、随分安上がりなプレゼントだな』
『安上がりとは何よ。この私を、一晩だけだけど丸ごとあげるって言ってるのよ。
こんなこと滅多に無いんだから、安上がりどころかプレミア物じゃないの』
『自分で言ってりゃ世話ねぇな、このバカが』
『バカって言う方がもっとバカなのよ、この極悪坊主』
『てめぇよりはずっとマシだ、大口叩きの生意気女』
そんな調子で悪態を付き合いながら唇を重ね、そのままベッドに倒れ込んで――
いつ自分が眠ったのか、全く覚えていない。酔っている訳でもないのに、途中から、記憶が曖昧になってしまっている。
隣に三蔵の姿がもう無いことに一抹の寂しさを覚えつつ、は、もう一度眠り直そうと瞼を閉じた。
その時である。
かちり。
不意に、ライターの着火音がした。
数秒遅れて、煙草の匂いが漂ってくる。誰かいるのか、と思いつつ、はそっと目を開け、横になったままで部屋の中を見渡した。
すると。
「………………」
わずかに開けた窓のそばに、三蔵の後ろ姿があった。
黒のアンダーシャツにジーンズという見慣れた服装で、こちらに背を向けて座っている。悠然と紫煙をくゆらせるその背中には、いつになくリラックスしている気配があった。差し込む月の光に金糸の髪が照り映えて、暗がりを弾き返すように明るく輝いている。
表情は、見えない。だがその背中に、情事の余韻など全く伺えないのが、少しだけ憎らしい。
が目覚めたのに、まだ気付いていないのだろう。視線はずっと窓の外だ。ふうっと煙を吐き出す度に、冷たい空気が一瞬薄くかすんで、静寂がわずかに揺らぐ。
何となく、声がかけづらい。は寝ている振りを続けたまま、しばし三蔵の姿を眺める。
一メートルも開いていないであろう距離が、何故か遠く感じられる。
肌を重ねていた間は、あんなに近かったのに。
部屋に満ちる空気はひたすら冷たくて、数時間前までの酒宴の騒々しさはもちろん、あの濃厚な熱の名残さえ欠片も存在していない。かすかに煙草の匂いがするだけ。
壁にかかった時計の針の音がやたら耳につくのは、それだけ静かであるせいだろう。酔いつぶれた悟空のことが少々気にかかりはしたが、八戒に任せたから、特に心配する必要はあるまい。悟浄も口ではあれこれ言いながらも、結構面倒見は良い方だし。
窓の外で、かすかに葉擦れの音がする。そういえば、裏庭に大きな紅葉の木があった。
さわさわと風に吹かれて鳴る音は、無言で煙草をくゆらせる三蔵に囁きかけているかのよう。窓の端に少しだけ見える枝は、ゆらりゆらりと揺れる様が、まるで夜の暗がりへと招く黒い手のようである。
寝乱れてしわの寄ったシーツは、既にぬくもりを半分失い、ずっと一人寝していたような錯覚に陥らせる。
そこに三蔵が居て、床の上に脱ぎ捨てた服の山が出来ていなければ、きっとあのひとときは夢か幻かと思い込んだに違いない。
もっとも、どんな関係にあったとて、三蔵は三蔵で自分は自分。たとえ世間から「愛人関係」と誹られようが、これまでのようにこれからも、そのスタンスに変わりはないのだろうけれど……。
その時、ふと。三蔵がこちらを振り向いた。
は慌てて目をつぶって、寝ている振りをする。別にそうしなければならない理由は何もないのだが、今はまだ、まともに顔を合わせる自信がない。せめて、この夜が明けるまでは。
目を閉じて息を詰めていても、気配で、三蔵がじっとこちらを見つめているのが分かった。
身じろぎしたように装って、さりげなく毛布を鼻の辺りまでずり上げる。狸寝入りがバレないかと冷や冷やする反面、何をやっているのかと、ひどく醒めたことを思うもう一人の自分が居た。
響く時計の針の音よりも大きく、速まった鼓動が耳につく。無意識に、閉じた瞼に力がこもった。
そんな微妙な緊張の時は、どのくらい続いていただろう。やがて三蔵が、無言のままふっと視線を外した。
そっとが薄目を開けて見てみると、三蔵は再びこちらに背を向けて、新しい煙草に火を点けていた。
ふかされる紫煙が、冷たい夜の中で揺れて薄く拡がって消える。三蔵は相変わらず窓の外を眺めているだけで、どうやら、が起きているのに気付いていないらしい。
いや、知ってて知らない振りをしているのか、それともはなから関心がないのか。些か複雑な気分を抱きつつ、はまた、三蔵の後ろ姿をじっと見つめる。
この男、いつになったら休むのだろう?
一向に横になる気配のない三蔵の様子に、はふと、そんなことを思う。
共に旅をするようになって、もうどのくらい経つのだろう。案外感情の沸点が低いことや、死ねだの殺すだのといった台詞を連発する口の悪さ、仲間にも容赦なくハリセンの一撃や銃弾を食らわせる物騒さ、下らない程の意地っ張りさを、事ある毎に目にしているけれど。
でも、そんな人間臭さの奥に秘められたストイックさが、透けて見える時がある。他人に対して求める以上に、自分を厳しく律しているのだろうと察せられる程に。
そう。喩えるなら、容易くは人を近付けぬ峻厳な山。
天に向かって毅然とそびえ立ちながら、豊かな緑や清流のせせらぎなども抱え、自然の恵みと厳しさを同時に表し示す。ひたすら高くて大きくて、その存在だけで他を圧倒するところも、この男の在り様ととてもよく似ている。
ただ一人で立っていても孤独を感じさせないのは、多分、尊大で高飛車なくせに身も心も強いせい。数多のしがらみに煩わされても、ぼろぼろになるまで傷ついても、意地でも倒れず、己が道を貫こうとする様は、孤独よりも「孤高」の文字がよく似合う。
そんな男と共に在れるのは、惜しみなく光を与える太陽か、必要に応じて風や雲を運び全てを包み込む空くらいのもの。
だが、どんなに憧れ羨んでも、には、太陽にも空にも取って代われない。
「………………」
煙草を吸い終えた三蔵が、ゆっくりと立ち上がった。
窓を閉じて鍵をかけ、音を立てないようにしながらカーテンを引く。分厚い布に月明かりが遮られて、室内がぐっと暗くなった。
夜の闇に阻まれて、振り返った三蔵の表情はやっぱり見えない。だが、物思いに耽っていたのを悟られたくなくて、は、寝返りを打った振りをして彼に背を向けた。
弾みで少し毛布がずれて、再び露出した肩が急速に冷える。うっかり頬の下に敷き込んだ髪も、ちくちくと肌を刺してむずがゆい。
が、三蔵の視線を感じたような気がしたので、それら全部を我慢した。瞼を閉じ、身を小さく丸めて、狸寝入りを続けるべく努力する。
すると、一体何を思ったのか、三蔵の手が、枕に散らばるの髪を一房そっと掬い上げた。
予想だにしなかったその行為に、心臓が跳ね上がる。まさかこのまま、と内心びくびくしていると、三蔵はあっさりと手を離し、何事もなかったかのように横になった。
反対側を向いた姿勢を取っているので、ちょうど背中合わせな格好になる。
二人の間に生まれた隙間に滑り込むように、少し持ち上がってしまった毛布の間から、すうっと冷たい夜気が忍び入る。三蔵はどうだか分からないが、にはちょっと肌寒く感じられた。
起きて服を着ようかとも考えたが、そうするためには、寝ている三蔵を乗り越えてベッドから降りねばならない。どうしようかとしばらく思案したが、起こすのも悪いような気がしたので、結局諦めた。
そうして過ごすことしばし。三蔵が寝入ったであろう頃を見計らって、はそっと、肩越しに後ろを振り返った。
静かに横たわる背中を見つめているうちに、何とも云えぬ気分に囚われる。
もちろん実行するつもりはないが――この近さならきっと、その命を奪うのは容易いだろうし、最悪でも相討ちには持ち込めるだろう、などとも考えながら。
三蔵の真意なんて、全て分かるはずがない。人の心は、そんな単純なものではないから。
けれど、こうして背中合わせで眠る程度には信頼されているのだろうと、こういう時に思い知らされる。
ならば。
は静かに体を反転させると、距離を詰め、後ろからそっと三蔵の体を抱きしめた。
一瞬、ぴくりと動いたようだったが、怒る気配も、腕を振りほどくような素振りもない。それを確かめてから、も瞼を閉じた。
この男は、生まれてすぐに川に流されたと聞いているが――生んだ親が、その存在を疎んじてそうしたのか、それとも止むに止まれぬ事情があったのか、真実を知る術は全く無い。
けれど、たとえ本人がその出自を嫌がっていても、それ故に誕生日を軽んじていても、少なくともにとっては、この男が存在しているだけでもそれなりに喜ばしいし、生き延びた年月の長さを計るためにも、誕生日はやはり重要なものだと思うのだ。
いや、だけじゃない。悟空だって、八戒や悟浄だって、彼を拾って育てたという師匠だって――
目的地に近付くにつれ、この旅も更に過酷になっていくだろう。
でも、せめてこのひとときだけは、安らぎあれと切に願う。抱きしめるこの腕から、この胸から、少しでもぬくもりが伝わるように、とも。
今日は、この男がこの世に生を受けた特別な日。現実は決して甘くないけれど、こんな時くらい、そう願っても罰は当たるまい。
回した腕に、ほんの少しだけ力を込めて――はそっと、眠る三蔵の背中に一つ、柔らかい口づけを落とした。
誕生日おめでとう、と、面と向かっては言えなかった台詞を、心の中でつぶやきながら。
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