夕 立 ち




ざああ、と降りしきる雨音が、とにかく煩わしかった。
視界360度、見渡す限り雨、雨、雨。鬱蒼と繁る森の緑を、傍に群生する山百合の白を、雨の水銀が容赦なく叩き続けている。
むせ返るような土と緑と花の匂い。枝葉を伝いぼたぼたと落ちてくる水滴の冷たさ。泥まみれになった足場の悪さ。濡れて身に貼り付いたた衣服の重さ。茂みをかき分けた時に全身にまとわりついた湿り気。苛立ちの因子は、数え上げればキリがない。つい、ため息と舌打ちが交互に出てしまう。
先程までの暑気がすっかり払われた代わりに、今、周囲には敵の殺意が満ち満ちている。雨のせいでその気配がかき乱され、正確な位置や頭数までは掴めないが、茂みや木陰の向こうから飛ぶあからさまな殺意が、無数の針のようにぴりぴりと肌を、全身を刺していた。
今朝立てた予定では、夜までに山越えが出来ていた筈だったのだが、こうなってはそれも危うい。時は既に夕刻に差し掛かり、続く山道はまだ遠い。雑魚どもの力量はさほどでも無かったが、襲撃回数が多過ぎる。来るなら一度に来れば良いものを。
ただでさえ、雨には神経を逆撫でさせられるというのに――

「――最悪ね」

思惟をめぐらせる三蔵の傍らで、が盛大にため息を吐いた。
敵から身を隠すのと雨宿りを兼ねて、大樹の根元に身を寄せるのは、三蔵との二人だけ。先刻まで、あちらの方で悟空が盛大に喚く声と、派手に泥を撥ねる音が聞こえていたが、それもいつの間にか遠くなっていた。八戒や悟浄とは、随分前にはぐれてしまっている。今頃は、一体どこで暴れているのやら。まさか殺られたという事だけはあるまい。
募る苛立ちを紛らわそうと、三蔵が袂に手を差し入れ、煙草を取り出した。が、雨でしけって駄目になってしまっている。腹が立って、赤いパッケージごと握り潰した。
「全滅だったの? 勿体無いわね」が、横から軽く茶々を入れた。普段なら大して気にも止めない台詞でも、こういう時にはいやに癇に障る。三蔵のこめかみに、薄く青筋が立った。
「煩せぇ、黙れ」三蔵の吐き捨てる悪態が、横殴りの激しい雨と風に攫われる。次第に低下する体力や判断力と反比例で、不快指数は上昇の一途を辿っていた。

「ったく、こんな天気にご苦労様よね。しかもあんな大勢で」

が、ぽつりとそう呟いた。利き手に携えた長剣はそのままに、辺りを油断無く見回しながら。
三蔵と同様、こちらも濡れた衣服がぴったりと貼り付き、女性ならではの体の曲線が露わになっている。濡れた髪からもとめどなく水滴がしたたり落ち、眼光の鋭さとは裏腹に、妙な艶かしさを醸し出していた。
もしも何処ぞのエロ河童がこの場にいたら、きっと騒いでちょっかいを出したに違いない。が、本人はまるで身なりに頓着せず、剣身にこびり付いた血糊を拭っている。如何にもこの女らしい事だ。

「……で、これからどうするのよ、三蔵?」
「どうもクソも無ぇだろ。敵は殺して、とっとと奴らと合流する。それだけだ」
「そんなの分かってるわよ。その為にどうするのかって訊いてるのよ、私は!」

にべもなく三蔵が返した答えに、が苛立ちも露わに怒鳴り声を上げた。
が、それでも三蔵は一瞥もくれない。いちいち俺に訊くんじゃねぇ、と、極々小さい声で毒づきながら、改めて銃の具合を確かめている。
ざあざあと降る雨の勢いはそのままで、辺りは段々と暗くなりつつある。遠くでは雷鳴が聞こえ始めた。
冷えた体が、かなり鈍っているのが判る。その上、枝々の合間から止めどなく落ちる水滴が、追い討ちをかけるように体温と気力とを削ってゆく。
気に入らない。今の状況の、何もかもが。
と、その時、

「――三蔵」
「ああ」

薄闇の向こうで、殺気が動いた。
こんな接近された事にも気付けずに居たのも、この雨が気配をかき消したのと、勘が鈍っていたせいだ。全くロクなことが無い。
こちらの苛立つ心中も知らず、姿を現した刺客たちは、没個性的な下卑た笑みを浮かべ、

「玄奘三蔵、今日こそ死んで貰うぞ」
「そっちの女は俺らが可愛がってやるよ、安心して経文置いてくたばりな」

「こういう連中の台詞って、どうしてこう捻りが無いのかしらね」口々に喚く連中の口上を聞き流しながら、がぼそりと呟いた。
知るか、そんなモン。三蔵が返すとほぼ同時に、華奢な身体が雨中に躍り出る。生け捕りを企む汚い手が、振るった剣に斬り飛ばされる。悲鳴を上げかけた妖しは、返す刃の前に絶命した。
取り囲む敵の真ん中で、蒼い剣がひるがえる。見る間に幾人かが斬り伏せられた。倒れた体躯が、血と泥水を高く撥ね上げる。怒号と罵声が辺りを飛び交う。その合間を縫うように、の細い身体が駆ける。
三蔵は敢えてその場を動かず、戦況全体を静観していた。無論、銃を手に握ったままではあるが。
「ちょっと! これ全部私に押し付ける気!?」縦横無尽に剣を振るいながら、が抗議の声を上げた。が、その声音に怒りの色は無い。ただ言ってみただけ、という雰囲気である。
判っているのだ、も。雨天と銃との相性の悪さも、それ故の三蔵の苛立ちも。
「女に護られるなんざ、情けねぇな!」野次を飛ばした妖怪の声が、の剣の一閃で途切れる。血飛沫が、見る間に雨に流された。
足元で泥水が撥ねる戦場の中、響く敵の下劣な罵声。打ち合う刃の金属音。骨が折られ、肉が斬られる鈍い音。遠く近くなる雷鳴の轟き。切れ切れに漏れる断末魔の叫び。それら全てが無秩序に絡み合う。
激しい雨が生み出す静謐の中で。

夕闇に翳り、奇妙な色合いへと変貌しつつある森の緑。
暗がりに仄かに浮かぶ、山百合の群生の白。
敵たちの振り上げる凶刃の銀と、迎え撃つ長剣の残像の薄い蒼。
それらの色の中でも一際鮮やかな、しぶく血の赤、赤、赤。

交錯する色彩と降りしきる雨音が、不意に、三蔵の記憶の奥底から、ある光景を引きずり出す。
あれは? いつ? 何処で?
自らに問い返す暇も無く、ありありと浮かぶ遠い日の悪夢の断片に、三蔵は一瞬息を呑んだ。
あの時命果てたのは、誰よりも護りたかった人。生き残ってしまったのは自分。
誰がそう仕向けたのかは未だ判らず、奪われた経文の行方も知れず、あとに残ったは酷で苦いばかりの現実。
肩に掛ける魔天経文も、頭上に戴く金冠もひたすら重く、暫くは世界そのものが、全ての色を、光を失った。
流れる血の赤と、夜の空に晧々と輝き、己が心の内に押し込めた闇を容赦なく暴き立てる、月の光を除いては。

あの頃、何度他人に銃口を向けたことだろう。
あの頃、何度自分のこめかみに銃口を押し当てたことだろう。
奪う命はやけに軽く、棄ててしまいたい命は腹立たしい程重い。
今でこそ殆ど皆無に等しいが、当時は一睡も出来ぬ夜を何度も迎えた。周囲への過剰な警戒心であったり、募る後悔が悪夢の形をとって己を責め立てていたり。原因はその時々によって異なっていたが、ロクでもない状況ばかりがやたら連なった。
もっとも、今の自分自身の在り様を確立出来たのは、そんな過去の積み重ね故ではあるのだが。
それでも。ふと気を抜けば、未だに愚とも付かぬ思いが頭を占める。

―― もし、あの日にまで時間が戻せたら ――

忌々しく降り続く雨の中、ふっと三蔵が顔を上げると、未だ刺客たちと戦うの姿が目に入った。
敵の頭数は随分減ってはいたが、雑魚相手にしては随分苦戦しているようだ。奥歯をきつく噛み締めて、紫になった唇から気を吐いている。舞うように躍る筈の切っ先は、普段よりもずっと鈍い。いつもなら軽やかな足取りも、今に限ってはやけに重たげだ。果敢に応戦する顔にも、焦りの色がありありと見える。未だ失われていないのは、眼に宿る闘志の光くらいか。
疲労の色は敵の内にもあったが、妖怪と人間とでは元々の体力が違う。長引けば、不利になるのはこちらの方。ちっと小さく舌打ちしながら、三蔵が銃を手に雨中へ足を踏み出した。最悪の場合、銃が使用不能になるのも覚悟の上で。
と、その時、のすぐ後ろに敵が迫った。の反応が一瞬遅れる。振り向きかけたの頭上に、凶刃が鋭く煌いた。
目の前を、過去の残像が一瞬よぎる。三蔵は即座に、銃の引き金を引いた。

がうんっ!

銃声が、木々の合間に轟いた。
眉間を穿たれた敵の体が、そのままの姿勢で後ろ向きに倒れる。血の赤と、脳漿の薄灰色を地にぶち撒けながら。
はそれをちらりと横目で見ただけで、すぐに残る一人に標的を変えた。迫る斬撃を紙一重でかわし、一気に敵の懐に飛び込む。細身の剣が、心の臓を貫いた。
どさり、と重い音を立てて最後の一人が崩れ落ちると同時に、辺りには真の静寂が訪れる。
次第に小降りになってゆく雨に打たれながら、転がる骸の群れを挟んで、三蔵との眼差しが絡み合う。全身を返り血に染め上げて、ぜぇぜぇと荒く息を吐きながら、は薄く乾いた笑みを浮かべた。
「……ちょっと、手間取り過ぎたわね」声に力が無かったのは、積もり積もった疲れ故か、それとも自らへの嘲りか。傍目にはまるで分からない。三蔵は構わず、の傍へと歩み寄る。
三蔵がすぐ目の前にまで近付くと、華奢な身体がふっと凭れかかってきた。触れる体がぞっとする程冷たい。三蔵の肩口に顔を埋め、それでも何とか息を整えようとするその額から頬にかけて、雨粒と汗の混じった水滴が一筋流れ落ちる。
情けない。そう小さく呟いたのは、果たしてどちらの声であったか。

「さっきは助かったわ。……有り難う」
「一つ、貸しだ。利子は高いぞ」
「やあね。あれだけの数を一人で片付けたんだから、それで帳消しにして頂戴よ」

の衣服に付いていた返り血が、三蔵の法衣にもじわじわと染み付いてゆく。
それでも、三蔵もも微動だにしない。身を寄せ合ったまま軽く目を閉じ、深く息を吐きながら、ただただ佇んでいた。
今は、今だけは何も考えたくない。だんだんと上がりつつある霧雨の中、緑と山百合と土の匂いと、強く鼻をつく血腥さとに挟まれながら、現在(いま)という瞬間だけに浸る。身体も芯まで冷え切っていたが、それすらもどうでも良い。
この感情が何なのか。何と称すべきものなのか。少なくとも、自分は知らない。それは多分、この女も同じ。
降り止んだ雨と入れ替わりに、夕刻頃とはまるで質の異なる静けさが――懐深く包む穏やかな宵の闇と、僅かにざわめく木々の葉擦れの音、微かに聞こえる虫の音とが辺りに満ち満ちる。空に立ち込めていた重い雲も流れ、薄月の朧な光が地に降りて来ていた。
やがて、が一度大きく息を吐いて、ゆっくりと三蔵から身を離した。
俯き加減なその表情が、未だ濡れたままの前髪に翳る。この程度の月明かりでは、その表情は見取れない。
がくるりと踵を返したとほぼ同時に、暗雲が途切れ、月が露わになる。そこらに転がる骸が黒暗の中に沈み、こちらに背を向ける女の後姿と、傍に何本も何本も咲く白い山百合だけが、月の光に照らされて闇に浮かび上がった。
は顔もろくに見せぬまま、至って日常どおりの軽い口調で、

「さ、もう行かなきゃね。きっと皆待ってるわ」

言うなり、はさっさと歩き始めた。
他の連中の居場所など分からない癖に、全くでたらめに歩く方向を決めて。相当疲れている癖に、出来うる限り平静を装って。

―― 癪に障る女だ。

守る必要も、守られる必要もない。自分よりもずっと線の細い、しかし同じ匂いのする女。
不変と思い込んでいた幸福を失う痛みも、ぬらりとした返り血の臭いも生暖かさも、命の軽さと重さも身をもって知りながら、それら全てを胸一つに収めて。誰の思惑もお構いなしに、後悔さえも振り切って、自身の生きたいように生きる。
違うのは、相手が女で自分が男。ただその一点だけかも知れない。
思惟にふけるのはその辺で止めて、三蔵はふと袂に手を差し入れ、煙草を取り出そうとして――つい数十分前、全部棄ててしまったことを思い出して、眉間に深くシワを刻んだ。
腹が立つ。一人ごちた呟きが、口の中で潰れて消える。
その苛立ちを転化するかの如く、三蔵も思い切り早足で歩き始める。先を行っていたを追い抜いて、

「誰が、俺より前を歩いていいと言った」
「…………」
「行き先は俺が決める。貴様が勝手に決めんじゃねぇ」

他意なく言った筈の言葉だったのだが、が一瞬ふっと足を停めた。数瞬遅れて、背後でくすりと笑う気配がする。
何が可笑しい。問い質してやろうかとも思ったが、無意味な気がしたので止めた。この女はいつもこうだ。至極下らない事でもすぐ笑う。どうせ今度もそうだろう。
相手にするのも馬鹿らしく思えて、三蔵は歩く足を一層速めた。が追って来ようが来れまいが気遣い無しに。
自分に付いて来るのなら、好きなだけ付いて来ればいい。離れたくなったら適当に離れろ。そんな事は、この女自身が決めればいい事だ。自分がいちいち指図してやる義理は無い。
自分の行く手に、敵として立ちはだからない限りは。

「ねぇ三蔵、ちょっと聞きたいんだけど」

が、背後からふと尋ねてきた。
いちいち振り返るのも面倒なので、歩きながら「下らねぇ事訊いたら、殺すぞ」とだけ返す。するとは、

「三蔵、貴方さっきからさかさか早足で歩いてるけど、皆の居場所は判ってるの?」
「ンなもん、俺が知るか」
「じゃあ貴方、行き先もわからずに歩いてるの? 信じられないわね、全くもう――」

ぶちぶちと背後で文句を言い募る声が聞こえるが、三蔵は背中で全て黙殺する。
かき分ける茂みの含む湿り気も、煩わしく身に纏わり付いて気分を害する。足元は未だに最悪で、油断すると派手に泥水が跳ね上がり、足元や衣服の裾を汚した。
これだから、雨は。三蔵が胸の内だけでそう毒づいていると、不意に木々の向こうに、ジープのヘッドライトの光が見えた。
もっと近付くと、そこには。晧々と降り注ぐ月明かりの元、大声で喚きながらぶんぶんと手を振って自分を呼ぶ悟空の姿と、悟浄と八戒の姿が在る。
後ろを付いて来るこの女と同じ、殺してもまず死なない連中の、揃いも揃った馬鹿面三つ。あれだけの雨にも負けず懲りずに、腹立たしい程涼しい顔で、現実としてそこに居た。






『われわれは現在だけを耐え忍べばよい。過去にも未来にも苦しむ必要はない。
 過去はもう存在しないし、未来はまだ存在していないのだから。』
ALAIN (1868−1951)










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