Lost Paradise広い広い天界の、その中心となる天帝の宮殿。その奥にある後宮の一角、花咲く花の庭園で、一際楽しげに響く声がある。 うららかな陽射しの下、笑う顔は二人分。一人は子供、一人は女人。天真爛漫な金晴色の瞳の幼子――平穏な天界では「異端」として疎まれ忌み嫌われている、あの『悟空』である――が元気一杯に駆け回る姿を、豪奢な装束に身を包んだ女人が、至極楽しげに見守っていた。 彼女の首には、悟空の編んだ白い花の輪がかかっている。綺麗に整えられた亜麻色の髪の上にも、金銀珠玉の冠や簪と並んで、淡い色の小さな花が挿されていた。 悟空が、己が背丈より高い草木をかき分けてぶんぶんと手を振れば、彼女も笑いながら手を振り返す。彼女が笑って手を振れば、彼も嬉しげに笑ってまた駆け出してゆく。幼子が動き回るのに合わせて、開く花々が笑いさざめくように揺れていた。 そうして時を過ごすうちに、悟空が、ふと思い出したようにこちらに戻って来た。理由を問うと、悟空は甘えるように、 「俺、すっげぇ腹減っちゃった。何か食うもんない?」 「はいはい。じゃ、おやつにしましょうか」 彼女が幼子の頭を撫でながらすっと手で合図すると、傍に控えていた侍女たちが、手早く茶膳の支度を始めた。 数多の皇族貴人たちの中でも、特に天帝の覚えめでたい皇女の一人、公主。その気質を知らぬ者は、少なくとも後宮には一人も居ない。故に、傍に傅く者たちも、この程度の事はすぐ出来て当然であるのだろう。 何人たりとも天帝の許し無くは立ち入れぬ筈の後宮で、この子供がのびのびと遊んでいる。この現実もまた、彼女という人物を如実に物語っていた。 「ご苦労。下がっていいわ」 主人の、のその一言に、侍女たちは無言で席を辞する。 にわかに設けられた卓の上には、幾種類もの菓子や果物が綺麗に並び、茶と湯の用意がなされている。は茶壷を手に取ると、自ら茶を淹れ、悟空に差し出した。 「これもこれも、すっげぇ美味いよ!」悟空はの見ている目の前で、菓子や果物を頬張り、茶を飲み、「美味い」をひたすら連発する。豪快な食べっぷりは今日も好調で、それがますますを機嫌良くさせた。丁度、可愛がっている動物が懐いてきた時のような気分で。 そんな所へ、侍女の一人が静かに進み出てきた。手短に用件を述べよと目線で促すと、侍女は、 「東門に、金蝉童子様がお見えでございます」 その一言に、悟空がはっと表情を一変させた。 両手に一つずつ菓子を握り締めたままで、急にそわそわとし始める。彼の脳裏に浮かぶ保護者の面影は、また怒っているのだろうか。たった今まで、あんなに自由奔放に遊んでいたのがまるで嘘のようで、は密かに嘆息した。 本当はもう少しこのまま引き止めておきたいが、仕方ない。傅く侍女に、卓の上の菓子を幾つか包むようにと命じると、は悟空の傍に膝をついて、 「門までは私が送っていくし、お菓子はお土産にすればいいから、ね?」 「……うん」 同じ目線の高さで笑って話し掛けると、悟空は少しだけ、安心したような顔をした。 ぽんぽんと肩を叩いて促すと、悟空はぴょこっと椅子から降り、傍の侍女たちに「また来るからっ」と笑いかける。はその小さな手と手を繋ぎ、菓子の包みを侍女たちから奪い取るように受け取って、「行きましょ」と歩き出した。 |
そうしてと悟空が手を繋いで歩く事暫し。花咲く庭園を抜けると、幾つもの宮殿が並ぶ領域へと差し掛かった。 並ぶ建物はどれも典雅な威容を誇り、屋根や周囲の城壁には、意匠を凝らした神竜や鳳凰の彫り物も施されている。 どの宮も、中は紫檀の扉や金縷の御簾で区切られ、至る所で金銀珠玉や玻璃の細工がきらめく。天井を振り仰げば、幾千、幾万と描かれた彩雲や星や花々が、御世の栄華を久遠に称え続けるのを見る事も出来るし、運が良ければ、華やかな装束に身を包んだ妃嬪の姿を、一人くらいは目にするかも知れない。 が、しかし。悟空はいつも「息が詰まる」と言って、建物内に入る事を異様に嫌がった。の住む離宮にはあまり抵抗は無い様子だが、それでも来た途端に、外で遊ぼうと強くねだる。 この子にとってはきっと、後宮の澱んだ空気は心地が悪いのだろう。表面だけの雅やかさや荘厳さなど、この純粋で聡い子供の目には、ひどく醜悪で不可解なものに映る事に違いない。 今日もやはり、この地域に足を踏み入れた途端に、小さな手がきゅっとの手を握り締めた。その手を優しく握り返し、は少しだけ歩く速度を速める。 そうしてもう暫く歩く内に、二人は、朱塗りの大きな門の前に辿り着く。 「――いちいち面倒かけさせるんじゃねぇ、この馬鹿猿」 門をくぐると、そこには黄金色の仏頂面が待ち構えていた。 悟空の保護者である彼、金蝉童子は成人男子である為に、後宮の敷地内には入れない。来れるのは門の前までで、本人たちが出てくるまで、ずっとここでこうして待たされるのだ。 悟空がぱたぱたと軽やかな足音を立てて駆け寄るや否や、金蝉は、こつん、と頭を軽く拳で叩いた。「黙って出て行くな」と叱るその様も、随分と板についたものだ。この男がねぇ、と苦笑したの呟きは、本人の耳には届いていない。 そうしてが暫し二人を眺めていると、金蝉が不意に視線を上げた。その先には、が頭に挿した何本もの花と、首に掛かる白い花輪。即座に彼は眉を寄せ、訝しげな顔をする。 「いい歳して何付けてんだ。頭沸いてんじゃねぇのか」 「あら、失礼ね。これは、貴方の大事な大事な養い子さんから貰った贈り物よ」 言いながら、が小さな頭をそっと撫でると、指先に金鈷の硬さが触れた。 それでもは構わずに、悟空の頭を優しく撫でる。その感覚がくすぐったくてか、悟空がえへへ、と照れ臭そうに笑った。 「今度、金蝉にも作るからな!」得意満面で言った言葉に、金蝉は怒ったような、困惑したような複雑な顔をしながら、「帰るぞ」と切り返した。文様一つ無い白い装束の裾を、長い黄金の髪を翻し、さっさと先を歩き始める。 続く悟空の横に並んで、も同じく金蝉の後に付く。豪奢な裳裾を軽やかになびかせ、後宮の外へと出て行く彼女の背中に、門の守衛や女官たちが「公主、また勝手に外に出られては!」と口々に大声を上げて咎めた。が、は「ついでに観世音菩薩のご機嫌伺いに行くわ」とでたらめな口実を作り、臣下たちの上申を封殺した。 後宮から遠ざかる三人の背後で、彼ら彼女らはそれでもまだ暫く騒いでいる。その煩わしさに、金蝉は肩越しに背後のをちらりと見やって、 「面倒事に、俺らを巻き込むんじゃねぇぞ」 「そんなの判ってるわよ。ただの散歩だから、貴方は気にしないで頂戴」 しれっと答えたに、金蝉は小さく舌打ちした。 気心知れた仲と言える程でもないが、金蝉とは元々、幼馴染の間柄である。子供の頃は、悟空のようにどこかの抜け穴から出入りして、頻繁に行き来していたものだっが、長じてからはそれも敵わなくなっていた。先程、金蝉が門の前で足止めを食らっていたように、大人は個人と個人の繋がりよりも、各自の立場身分が重要視され、古い慣習やしきたりに言動を戒められる。面倒くさいばかりだと愚痴ったのは、一体いつの事だったか。 金蝉を先頭に黙々と歩く三人の姿を、すれ違う人々が怪訝な顔をしながら通り過ぎて行く。上級神とその養い子、天帝直系の皇女との取り合わせに、好奇の目を向ける者も多い。が首にかけた白い花輪も、悪目立ちする要因の一つであるだろう。 「どこまで付いて来る気だ」 「気にしないで、って言ったじゃない。 別に、貴方に付いて来てるんじゃないわ。私は、悟空を送って行きたいだけよ」 「……口の減らねぇ女だな。 お前が何処で何をしようと勝手だが、そいつを甘やかし過ぎるんじゃねぇぞ。ロクな事にならねぇ」 金蝉が言ったその言葉に、が不意にくすくすと笑い出した。 「何がおかしい?」振り返ってそう問い直すと、は至極可笑しそうに、 「だって貴方、ほんっとに『お父さん』してるんですもの。可笑しくて可笑しくて」 「………………」 「それに、ね。貴方はそう言うけど、子供に情操教育は必要よ。その点、後宮は面倒事も多いけど利点も多いわ。 非難するつもりは無いけれど、観世音菩薩はあまり芸事や美術にはご関心が無いご様子だもの。今のうちから良いもの、美しいものに多く触れさせておかないと、将来、何の楽しみもないつまらない大人になっちゃうわ」 が如何にも意味ありげに微笑むと、金蝉はふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。 そんな保護者の苛立ちに、悟空がくいくいと白い装束の裾を引っ張りながら、「金蝉? どうかした?」と案ずるように問い掛ける。その問いに気付く処があったのか、金蝉は「何でもねぇよ」とだけ答え、深い息を吐き出した。 ふと天を振り仰いでみれば、空の青が美しい。権勢ばかりを誇る城は既に遠く、空を切り刻む高い屋根も城壁も無い。もう少し歩けば目的地に、観世音菩薩の宮殿に辿り着けるのだが、出来ればもう少しこのままで、なんて事を思ってしまったのは、刹那な気の迷いだろうか。 そんな時に、どこからともなく飛んできた花びらが、音も無く緩やかに目の前に舞い降りる。桜の花だ、と気付いたのは、数瞬経った後のことだった。 花の気配に誘われるように、三人が同じ方向へと目を向ける。その視線の先には一本の桜の大樹が、静かに燃える白い火焔のように枝一杯に花を開かせ、威風堂々と咲き誇っていた。 「いつ見ても見事な枝ぶりね。羨ましくなるわ」 「ふん。桜くらい、大して珍しい花でもねぇだろうが。お前のところにもあるんじゃねぇのか?」 金蝉が何気なく口にした問い掛けに、がふっと静かに笑う。 ひるがえる衣の極彩色に、舞い降りる白い花びらをまとわせながら。 「花を求めて枝を手折る後宮に、桜の木は植えられないわ。桜は、一度折ったらそこから腐って駄目になっちゃうから。 貴方、聞いたことない? 『桜折るバカ梅折らぬバカ』って。そのせいかしらね、梅の木はやたら多いわよ」 「………………」 「後宮に咲く花は須らく、見目良く都合良く整えられているわ。 こんな風に、思うままに自由に枝を伸ばして咲ける花は無いの。一本も」 梅は香りも強い花だから飾るにも丁度良いし、うってつけの花なんでしょうね。 軽くいなすようなその口ぶりに、僅かに嘲りの響きが混じる。その心情がどこを向いているのか、金蝉は敢えて尋ねない。 悟空は、いつの間にか木の根元に座り込み、そのまま寝入ってしまっていた。「こいつ……!」気持ち良さげに眠る子を、庇護者は肩を揺すって起こそうとしたが、しなやかな手がそれを押し留めた。 「きっと遊び疲れたのよ」寝る子は育つって言うじゃない? 訳知り顔なその微笑みに、金蝉はちっ、と舌打ちしながらも引き下がる。眉間にまた、深い縦ジワを刻みながら。 「少ししたら起こす。もう文句言うんじゃねぇぞ」 「はいはい」 大人たちの会話など露知らず、幼子はすやすやと眠っている。 安らかな顔をして見る夢は、一体どんな夢だろう。まどろみの中で立つ大地は、生まれ故郷の下界かこの天界か。 「ずっとこのままで居させてあげたいけど、……そうもいかないんでしょうね」 「……ああ」 不老不死、永久不変が建前の天界ではあるが、個々の事項までそうとは限らない。 流れる時間そのものが緩やかであるが故に、流転を常とする下界とは比較にならぬ程微小な動きに過ぎないが、全く何も起きない訳ではない。 少し前に、野望に燃えた一人の男が、我が息子を足がかりにして強大な権力を手に入れたように。日々の平穏は上っ面だけで、建前という名の薄皮を一枚剥ぎ取れば、様々な情念や謀略や主義主張が雑多に渦巻く。 それらの根はどれも深く強く断ち切りがたく、なまじ悠久にも等しい長い時間を持つが故に、その爛れ具合も生半可ではない。例えるなら、表面に澄んだ水をたたえながら底に何層もの汚泥を溜める、深く大きな池か沼だ。 悟りと常楽の象徴として尊ばれる蓮の花も、芽を出し根を張るのはやはり泥の中。美しさの陰に潜むどろどろとしたものに、誰もまともに目を向けていないけれど。 「それでも、私は――」 艶やかな唇から漏れた呟きが、不意に巻き起こったつむじ風にさらわれた。 吹き抜ける風は桜を容赦なく散らし、にわかに花の嵐を仕立て上げる。清廉な白と豪奢な極彩色の装束の裾が翻り、黄金の髪と亜麻色の髪が強くなびく。が髪に挿していた小花も、あえなく飛ばされ遠くへと持ち去られた。 風が吹き止んだ後の地面には、散った桜の花びらが無数に降り積もっている。眠る幼子の身体の上にも、佇む大人たちの頭や肩の上にも、沢山の花びらが降り下りていた。 黄金の髪の束にも花が絡んでいるのに気付き、がすっと指を伸ばす。「動かないでね」と髪に触れる細い指に、金蝉は僅かに瞳を眇めたが、特に文句も言わずにそのまま従った。萼(がく)ごと枝から落ちて髪に絡まった花を、細い指がほどいて外す。 は暫し何も言わず、指先で花を弄ぶ。そんな彼女に、金蝉は、 「……おい。今のは、どういう意味だ」 その問い掛けに、は唇に小さな笑みを刷くだけだった。 先の発言と同様に、まるで真意が測れない。その曖昧すぎる微笑みは、暫し金蝉を惑わせる。 が、 「さあ、どういう意味かしらね? でも私は、今のところ何も変えないつもりだから。悟空にも、……金蝉、貴方にも」 自分よりずっと背の高い男を見上げるその瞳には、まるで挑みかけるような強い輝き。金蝉は心の中だけで、ガキの頃と変わってねぇな、と毒づいた。 まさに“脳みそが常温のまま溶けてゆく”恒久の平穏の中、何が変わって何が変わらないのか。表向きは光ばかりが満ち溢れるこの天界に、ひたひたと迫る昏い足音のような気配は、変化の予兆かただの幻覚か。 それまで通りに何も知らず、何にも関わらずに生きていられれば、きっとそれ以上に楽な事は無い。身分立場に相応しく、流れに抗わず流されてたゆたっていれば、まさにこの地の誰もが声高に謳うが如く、一切の苦辛とは永遠に無縁で居られるだろう。 だけど。 「ま、幸い、私がお嫁に行く予定はまだ無いわ。そんな話は来てないし、先に降嫁すべき皇女はまだまだ残ってるしね。 それまではせいぜい楽しませて貰うつもりだから、宜しくね。保護者さん」 「――ふん。お前なんぞに嫁の貰い手があるか。俺なら死んでも御免だな」 「失礼ね。別に、貴方なんかに頼まなくても、行き先には全然困らないわよ」 気兼ねなく交わす言葉の数々も、存外に胸をちりりと突き刺す。 幼馴染の眼差しが、いの一番に目の前の幼子を見ることに対し、ふと湧き上がるもやもやとした思い。己が口にする言葉が、図らずも心を裏切ってしまう現実。どちらも、子供の頃には知らなかった感覚だ。 それらの事象もまた、「永久不変」という建前の虚しさを、嫌という程痛感させる。 「それに、こいつが遊びに行くのを止めろとは言わんがな、甘やかすのは程々にしろ。躾にも悪い」 「まあ。私が躾に悪いなら、天蓬元帥や捲簾大将はどうなるのよ。まさしく『悪い大人』の見本じゃないの」 「煩せぇ。とにかく、こいつの事は俺が考える。お前はいちいち口出しするんじゃねぇ」 花々の間から漏れて差し込む陽光に照らされ、長い金髪と黄金の冠とが、呼応し合うようにきらきらと煌く。 その上に、はらはらと散る桜の花びらが、後から後から舞い降りる。止まる気配も無いままに。 「半端な気持ちなら関わるな。そうでないなら、覚悟してその眼で見届けろ。最期まで」 「……云われなくても判ってるわよ」 老いることも死ぬ事もない我が身なれど、このまま穏やかにいられる時間は、そう長くないような気がする。 何の囚われもしがらみもなかった子供から、いつしか戒めだらけな大人になったように。時は緩やかなれど決して停まってはおらず、因縁と思惑と迷情が更にもつれ合う中で、そろそろ己が何をすべきか自覚せねばなるまい。 地上より連れられた幼子の伸ばす小さな手を、この手で握り返してしまったなら。 「本当に嫌な男ね、貴方って人は」 「お前に言われたくねぇよ」 二人の足元で眠る幼子は、未だ安らかな夢の中。小さな身体の上に降り積もった花びらが、寝息を立てる度に上下に揺れる。 だが、もぞもぞと身じろぎを始めた様子から察するに、目を覚ますのも時間の問題だろう。 「で、そろそろ起こすの?」 「いや。放っておいてもそのうち起きるだろう。そっとしておけ」 「……ちょっと。さっきと、言ってる事が逆になってるわよ」 「煩せぇ」 花々の間から漏れて差し込む陽光は、今はまだ穏やかで柔らかい。 安らかな眠りが覚めてしまうまで、どうかあともう少しだけ、このままで。 |