Lotus Eater




「よう、久し振りだな」

 脇に次郎神を控えさせ、椅子の肘掛けに行儀悪く頬杖をついたままで、観世音菩薩は、軽く右手を挙げた。
 その眼差しを受け、客人――は、ここまで連れて来た従者の背後から離れ、前へと進み出る。

「ご無沙汰してしまって申し訳ありません、観世音菩薩。本日はお招きに預かり――」
「ここは天帝城じゃねえんだ、堅苦しいのはなしにしようぜ、

 礼儀正しく膝をつき、頭を下げて述べるの口上を、観世音菩薩が片手を挙げて制した。
 天界の責任者の一人である彼女は、一応、先の天帝の息女であるよりも格上になる。加えて、子供の頃から何かと世話になっているので、にとっては、数少ない「頭の上がらない存在」でもあった。そんな相手にそう言われ、彼女は仕方なく、言われたとおりにゆっくりと立ち上がる。
「面倒くせぇのは嫌いだって、お前も知ってるだろ」彼女のその様子を見て、観世音菩薩は、小さく笑って見せた。

 ここは、観世音菩薩の住まう宮殿の一角。
 蓮池を間近に臨む回廊に卓と椅子を置き、にわかに応接間をしつらえている。朱色の手すりとは対照的な、黒檀の小振りな卓が、穏やかに降り注ぐ日差しを受け、つややかな輝きを放っていた。
 手すりの向こうに見える蓮池には、見頃を迎えた花が、いくつもいくつも咲いている。
 花びらのふちにほんのり薄紅色を乗せた花は、優雅に天を仰ぎ、辺りにえもいわれぬ香りを漂わせている。茂る緑葉も瑞々しく、花の美しさを一層引き立てる。ぽつぽつと見える花托の黄色も、風景に程よいアクセントを与えていた。
 この蓮池のほとりにしつらえた茶の席に招かれたのは、ただ一人。城から付いて来ていた、お目付け役を兼ねた侍女たちは、招待主の命で別室へと引き離された。
 ここにいるのは、観世音菩薩と次郎神、、そしてわずかな給仕の者だけである。

「昼間から縁側で茶をすするなんて、干からびた爺婆みたいで、俺のガラじゃねえんだがな。
 酒は今度だ。ま、ゆっくりして行ってくれや」
「……ここは縁側ではございませぬぞ、観世音菩薩。それに、昼間からお酒などと……」
「喩えだよ、喩え。
 それに、昼間から宴会で酒飲んでる奴なんて、吐いて捨てる程いるだろ。最近はさすがに控えてるけどよ」

 次郎神と夫婦漫才のようなやり取りを交わしつつ、観世音菩薩は目線で、に向かいの席を勧めた。
 が軽く一礼すると同時に、次郎神が背後に回り、椅子を引く。そして何気ない顔をしたままで、再び主の脇に控えた。それを合図にしたかのように、給仕の者が、茶の準備を始める。
 黒光りする卓の上に、白磁の茶器が一揃いと、色とりどりの菓子を載せた皿が並んだ。

「酒でないのは、これのせいでな」

 そう言って観世音菩薩は、皿の端をとんとんと指で軽く叩いた。
 皿には、山査子(さんざし)や干し芋、枸杞(くこ)の実、茶梅、棗(なつめ)、蓮の実の砂糖漬けなど、様々な物が並んでいる。もう一つの皿の上には、大ぶりの月餅が、八等分に切り分けられた状態で載っていた。
 点心の類はなく、一種類毎の量もさほどでもないが、二人分にしては明らかに多い。

「下界からの献上品なんだが、食う奴がいなくなって、持て余しちまってんだよ。
 会議で顔を合わせる爺婆たちにもだいぶくれてやったんだが、それでも、なかなか減らなくてな」

 食う奴がいなくなって。その言葉に、がぴくりと肩を震わせた。
 その様に、観世音菩薩が一瞬、ついっと目を細める。が、すぐに表情を元に戻して、言葉を続けた。

「これでも俺は、下界では慈愛と慈悲の象徴だ。だから、要らねえって突っ返したり、捨てたりする訳にもいかねえんだよ。
 ったく、日持ちがいい物ばかりなのが救いだが……」
「……承知しました。わたくしの方でも、いくらかお引き受け致しますわ」
「相変わらず物分かりがいいな。助かる」

 我が意を得たり、とばかりに、観世音菩薩がにっと笑う。その表情を見て、が小さくため息をついた。
 しばしの間、沈黙が振り降りる。
 そ知らぬ顔で菓子をつまみ、茶を飲む招待主の表情や一挙手に、客人は訝しげな視線を向けている。が、見られる方はただ視線を受け流すのみで、会話らしい会話が始まらない。そばに控える次郎神も、黙ってじっと立っているのみ。
 手すりの向こうに見える蓮池で、かすかに吹く風を受けて、花や葉がわずかに揺れた。

「……何か言いたそうだな、

 双方が一杯目の茶を飲み終えた頃に、観世音菩薩が話の口火を切った。
 わざとらしい。本音をぐっと喉元で止めて、がこう答える。

「失礼ですが、仰りたいことがおありなのは、観世音菩薩の方ではございませんか。
 まさか、わたくしをこうしてわざわざ呼び付けて、ただの茶飲み話だけってことはありませんでしょう?」
「生憎だが、そのまさかだよ。俺だって、下らない茶飲み話の一つくらいしたい時はある」
「ではどうして、わたくしの侍女をああして遠ざけてまで……」
「鬱陶しいじゃねえか、あんなのがいたら。給仕は俺んちの奴がやるんだから、あいつら、する事無ぇだろ。
 大体あいつら、元々は、お前に仕えてた連中じゃねえだろ。あんなのがいて、ウザくねぇのか、お前」
「……今の天帝が、わたくしのために付けて下さった者たちですわ。勤めていた者たちが、皆辞めてしまいましたから」

 軽く目を伏せて、が言う。その声音がどことなく弱々しい。
 その表情をじっと見て、観世音菩薩が、ふんっと小さく鼻を鳴らす。彼女が足を組み替えた拍子に、その足首の飾り輪が、しゃらんとかすかな音を立てた。

「本当のことを言ったらどうだ、。そいつらは辞めたんじゃなくて、辞めさせられたんだろ?
 お前を疎ましく、いや、勝手に危機感なんて持ってる連中に」
「………………」
「天帝の付けた監視役たちも、今はいねえんだ。次郎神も、ここにいるこいつらも、皆揃って口が固い。
 安心して本音で話していいんだぞ、
「………………」
「あいつら、西海竜王の出した報告書のお陰で、先の天帝の弑逆(しいぎゃく)罪について公には嫌疑が晴れたが、陰では未だに風当たりが強い。あいつらが何もしなければ、あんな大事にはならなかったってな。
 そしてそれは、生前ずっと親しくしていたお前も同じ――違うか」

 問う口調は平坦で、浮かべる笑みもそれまでと同じ。だが、探るように見つめる眼差しは、鋭い光を帯びていた。その後ろでは、次郎神が穏やかな表情をして、主の言葉を肯定すべく、軽く頭を下げる。
 三拍分の沈黙の後に、が、大きくため息をついた。
 茶杯を手に取り、中身を一口飲んでから、観念したように頭をくっと上げる。髪に挿した簪の花の宝玉が、きらりときらめいた。

「巷でいろいろ言われているようですけど、否定はいたしませんわ。大体は合っていますから。
 わたくしと金蝉が裏で通じていて、あの夜も密かに便宜を図っていたというくだり以外は」

 彼ら四人が天帝城で動いたその直後から、は、自室で軟禁状態にあった。
 誰が手を回したかは、誰何するまでもなく判っている。先手を取られたと、どれだけ悔しく思ったか。
 そうして一晩閉じ込められ、時折襲い来る地震に怯えながら、何も知らぬまま朝を迎え――ようやく出た外で待っていたのは、父帝が殺されたという報告と、崩壊した天帝城の無残な姿。
 そして、彼ら四人の逃亡劇の概要と、その終焉。

「お聞き下さいな、観世音菩薩。
 取り調べで官吏たちから聞いた話によると、わたくし、金蝉とは密かに将来を誓い合った仲で、彼らが下界へ一旦逃げた後に、わたくし自身も亡命して、軍事力を蓄える計画を立てていたんだとか。
 そして機を見て挙兵して、お父様から、力ずくで天帝の座を奪うつもりだったそうですわ」

 皇族たるへの取り調べは、女性に対するものの割には、酷くもなければむごくもなかった。
 が、まだ事の真相が明るみに出る前だったが故に、あの四人は揃って大罪人扱い。繋がりを疑われたも、当然それに準ずる扱いで、誰もが、慇懃な態度の裏に嫌悪や侮蔑を隠していた。
 言葉の裏に刃を秘めるのは、宮中の女たちの間では日常茶飯事。だが、様々なものを失った直後に向けられたそれらは、殊のほか身にこたえて。

「その計画によると、天界を掌握した後は、玉座を金蝉に譲って、自分は正妃に収まる予定になってたんですって。
 そして、軍を捲簾大将、政治を天蓬元帥に預けて、それぞれの部下を各部署に配置して、万全の支配体制を作る手はずだったそうですわ」
「頭の固い連中が考えたにしては、なかなか壮大なジョークだな」
「ええ、仰るとおりですわ。
 わたくしが悟空を可愛がっていたのも、将来、新たな闘神太子に仕立てて、刃向かう者を粛清させるためらしくって」

 口元に上品に手を添え、ころころとおかしげに笑い声を上げるの表情は、まるで他人事を語っているかのよう。瞳にも、仕草にも、虚勢を張っている様子は全く見られない。
 冷静なのが却って厄介だな。観世音菩薩の苦いつぶやきが、口の中で潰れて消える。

「権力にしがみつくバカどもは、自分の保身に懸命過ぎて、たまに妄想を暴発させるからな。
 何かあるといつも、誰々が悪い、自分は悪くないと、互いに責任をなすり付け合いやがる。お陰で、ろくに物事が前に進まねぇ」

 渋い顔つきで茶をすすりながら、観世音菩薩がそう吐き捨てた。
 そう、あの夜もそうだった。
 天界の名だたる神々は、現場への指示より何より先に、金蝉の血縁者であり、悟空の公的な庇護者であった観世音菩薩の責任追及と弾劾を第一とした。具体的な対応策など誰一人口することもなく、もし彼女があの場で一喝しなければ、きっと一晩中でも無駄な議論を続けただろう。
 故に、事態への対応が後手後手に回り、真の反逆者である李塔天の独断専行を許してしまった。
 もしも皆が保身に走らず、適切な対処を取っていれば。何もかもが終わった後に「もしも」を論じるなど、無意味極まりないけれど。

「前に進むには、相応の覚悟がいるもんだ。……あいつらは、よくやったよ」

 後ろ半分の言葉には、常にはない、感情的な響きが含まれていた。
 はっとが目を瞠る。が、言った本人はそ知らぬ顔をして、目の前の焼き菓子に手を伸ばしている。
 彼女は、もぐもぐと菓子を咀嚼して飲み込むと、「これは結構いけてるな」と小声でつぶやいた。

「ぐだぐだ文句を言っていた連中も、西海竜王の出した報告書でぴたりと黙った。
 そりゃそうだよな。下界討伐を通じて天界の威信を示せると、那托の正体にも目をつぶり、闘神太子として便利使いしまくって、李塔天なんぞに付け入る隙を与えちまったんだ。
 先の天帝の采配とはいえ、あまり叩くと我が身にも返ってくるって、一応分かってるからな、あいつら」
「………………」
「本当はな、変わらねぇ物なんて、何も無ぇんだよ。この天界だって例外じゃねえ。変わるべき時に変わるってのが、自然な在り様ってもんだ。
 この一件を機に、頭の固い連中も、よくよく思い知っただろうよ」
「………………」
「あいつらは、平和ボケした連中の鼻を、見事に明かしてやったんだ。大したモンじゃねぇか」

 感服したとばかりに顎をさする彼女の台詞に、の顔色が変わった。
 ばんっと卓を叩いて腰を浮かせ、詰め寄るように前に乗り出す。がちゃんと茶杯が音を立て、皿の上で、菓子が列を乱した。

「大したものって、何がですか? まさか、彼らが死んでよかったと仰るのですか?
 観世音菩薩、いくら貴方様でも、今のご発言は聞き逃せませんわ」

 感情をぎりぎりまで抑えた低めの声音が、却ってその怒りの深さを表している。
 きっと睨みつけるその眼差しを、観世音菩薩は真正面から受けて立った。のどかな風景には似合わぬ剣呑な空気が、にわかに辺りに漂い始める。
 見かねた次郎神が、間を取り持とうと動きかける。しかし、彼の主は、視線を動かさぬそのままで、軽く片手を挙げてそれを制した。その意向に逆らえず、次郎神は不安を顔に浮かべて無言で引き下がる。
 そんな動きを視界の端に捉えつつ、は更に言葉を続ける。

「わたくしも確かに、天界があのままで良いはずがないと思っておりました。お父様にも、李塔天なぞ贔屓するなと、何度も申し上げておりましたわ。
 政治には直接関わらないわたくしの耳にも、きな臭い噂が度々耳に入っておりましたもの。実際に関わっておられる観世音菩薩は、それらがどれだけ酷いものだったか、目の当たりにしておられたのだろうとお察し致しますけれど」
「………………」
「でも、こんなことなら、何も変わらない方が良かったのではないですか? この結末を、誰が望んだと仰るのですか。
 教えて下さい、観世音菩薩。これだけの犠牲を払っても、まだ、変化は必要だと仰るのですか」

 次第に感情的になっていく言葉の途中で、くっと、が言葉を詰まらせた。
 俯いた頭の上で、簪の銀細工が、しゃらりとか細い音を立てる。

「……何故、彼らが、お父様が、死ななければならなかったのですか……」

 朱塗りの手すりの向こう側で、ざあっと強い風が吹いた。
 池に咲き誇る蓮の花や葉が、風にあおられ、ゆらゆらと右へ左へと大きく揺らめく。しなった茎が、水面に小さな波紋をいくつもいくつも作り、水面に映る花の影が、にわかにその姿を歪める。漂っていた芳香もかき散らされ、代わりに、さわさわと葉擦れの音が辺りを占めた。
 揺れる花々のうちの一輪から、花びらが一枚、誰も知らぬ間に音もなく落ちる。

「………………」

 風が吹き止んだ後も、と観世音菩薩の間には、沈黙が横たわっていた。
 中途半端に腰を上げて、俯いたまま肩を震わせているを見つめながら、観世音菩薩は、目の前の茶杯に手を伸ばす。
 軽く茶をすすり、再び茶杯を卓上に戻した後に、彼女は再び口を開いた。

「やっと本音が出たな、

 艶やかに紅い唇が、うっすらと笑みを浮かべる。
 はっとが顔を上げる。真正面から目が合った。そうして、しばし無言のまま両者が見つめ合う。
 観世音菩薩は、相手の訝しげな視線を意にも介さぬかのように余裕綽々の表情で、まあ座れよ、と着席を促した。
 何となくばつの悪そうな顔をして、がゆるゆると椅子に腰を下ろす。それを見計らって、給仕の者が、茶のお代わりを運んで来た。
 空になった茶杯が取り除かれ、新しい物が二つ、卓の上に載せられる。

「言っただろ。俺だって、たまには茶飲み話したい時くらいあると。
 腹に一物抱えた連中の建前なんざ、天帝城で聞き飽きてんだよ。自分ちでくらい、本音で喋りてえってのに」
「………………」
「なのにお前、らしくもなく、虚勢張りやがって。つまんねーんだよ。
 まだよちよち歩きのチビだった頃から知ってる俺を相手に、今更格好付けんな。それこそ、無意味ってもんだろうが」

 そう言って観世音菩薩は、ふっと手すりの向こう、蓮池の上へ視線を移した。
 わずかに覗く水面に、花葉の影が落ちている。陽の光をいっぱいに浴びた花や葉とは対照的に、水面は翳ってほんのり暗い。
 甘く爽やかな花の香が、手すりのこちら側まで流れてきて、茶の香りと混じって消える。

「あいつらを心から悼む奴は、そう多くねえんだからよ」

 前代未聞の大逆事件。事の真相が明るみに出た後も、その余韻は、天界の随所に残っていた。
 公の場で、彼らの話題が半ば禁忌になっているのもその証。大地が揺れ、空が暗雲に覆われ、万年桜が一斉に散ったあの夜の光景は、平穏に慣れ切った天界人たちにとって、まさに恐怖そのものであったのだ。死が存在しないはずのこの世界で、天帝が殺され、多くの死傷者が出たことも、皆の恐れをより強くした。
 故に、公的な議論の場以外では、誰もが彼らの名を避けてゆく。もう、大罪人ではないというのに。

「……この天界にとって、死は、あってはならない事ですもの。
 私も、知識としては知ってましたけど、判ってはいなかったのかも知れません。死とは、どういう物かって」

 が、そっと目を伏せて述べる。
 その表情に、声音に、かつて「天界一のわがまま公主」と呼ばれた面影はなく。

「誰の遺体も見てないせいでしょうか。皆が言うように、死んだお父様や彼らを、不浄だとは思えないんです。
 けど、玉座にお父様がいらっしゃらなくて、ここに来ても金蝉はいなくって、でも滞りなく毎日が過ぎて……死とはそういうものかと、今頃になって初めて、判りかけてる気がします」
「………………」
「悟空も、生きているとはいえ、私ではもう手が届きません。それが、今は一番悔しく思います」

 金色の瞳をしたあの子供は、記憶を全て消された上で、下界のとある場所に封じられた。
 大人三人の大逆の罪は晴れていても、悟空の為した殺戮は、厳然たる事実として残っている。その罪と、『斎天大聖』の力を畏れた天界が、不殺生という建前の元、紆余曲折の上に選んだのは、『下界へ封印』という措置だった。
 その措置に直接関わった観世音菩薩は、ただ無言で、茶をすすっている。
 表情を消したその顔は、まるで凪いだ海のようで、底に何を秘めているのか全く伺い知れない。側近の次郎神も、じっと主の背後に佇むのみ。
 対するは、自嘲めいた薄い笑みをたたえている。まるで、他にする表情を知らぬとでもいうように。

「あの男が何か企んでいると分かっていたのに、結局、何も出来ませんでした。いえ、本当は、分かっていなかったのでしょう。自分が何も知らなかったことを。
 ……あの男のことについてお父様を非難する資格など、私にはありませんわね」

 言葉の後半部分に、ため息が混じった。
 は一瞬、何かを思うように瞑目してから、茶に軽く口を付ける。
 そして、目の前の皿から、白くて丸い粒の菓子を一つ、つまんだ。

「……甘いですわね」
「蓮の実の砂糖漬けだ。いかにも、茶飲み話が好きな爺婆どもが好きそうな物だ」

 観世音菩薩も、同じように実をつまみ上げて、そう言った。
 遠い西の地の伝承では、蓮の実は、世の苦しみや悲しみを全て忘れさせる効能があるという。転じて、現実を忘れ夢想する者を指して、「蓮の実を食べる人」とも称する。
 無論、ここにあるのはただの菓子。そのような効能はないけれど。

「……あまり、好みじゃありませんわ。これは、甘過ぎますもの」
「そうか。じゃ、こいつは別の奴らに押し付けるか」

 主の台詞が引っかかったのか、次郎神が顔をしかめた。
「押し付けるだなんてお言葉が悪い」と、とがめるように彼はそう言ったが、言われた方はどこ吹く風といった様子で、平然と別の菓子に手を伸ばしている。別にいいじゃねえか、という返事に、生真面目な側近は更に渋い顔をした。
 そのやりとりに、も、くすりと小さく笑う。が、すぐに笑みを消して、言った。

「観世音菩薩。金ぜ……彼らが死んだと聞かされた時、置いていかれたような気持ちになりました。
 あの夜、自分が何も出来なかったから、そう思うのかも知れませんが」
「………………」
「けど、時間が経って、ふと思ったんです。
 本当は生きている者の方が、過去に、死者を置き去りにしているんじゃないかって」

 目下復旧中の天界は、いつになく慌しい。
 随所に騒乱や地震の被害は残っているし、あの野心家とその一味が没したことで、空きポストも多く生まれた。軍部に至っては、約半数が壊滅状態である故に、編成面から見直しが迫られている程だ。新たな天帝の命の下、皆が、今までの怠慢が嘘のように、忙しく復旧作業に勤しんでいる。近頃では、ささやかながら宴を催す余裕も出てきたようだ。
 が、それは同時に、死者たちの痕跡を、少しずつ消していくようでもあって。

「置き去りにしているのは、生きている者と、死んでいった者の、どちらなんでしょう?」

 かたん。
 空にした茶杯を置いて、が立ち上がった。
 そのまま卓から少し離れ、蓮池に近付くように手すりに持たれかかる。亜麻色の髪が、腕に引っ掛けた領布(りょうきん)が、かすかな風にふわりと揺れた。
 彼女のその背を眺めながら、観世音菩薩も、残った茶を一気に呷る。
 その拍子に、ゆるく波打った黒髪が、肩から背中へと流れ落ちた。

「どっちが、なんて、主観の問題でしかねぇな。魂は、生と死を繰り返しながら六道の世界を巡り行くし、袖摺り合うも多生の縁ってな。
 あいつらもいずれはまた、どこかの世界へ生まれて来る。言わば、死はひとときの別れに過ぎん」
「けど、新たな命を得て生まれ出れば、別の存在となりましょう。それでも、そう仰いますか」
「しょうがねぇだろ。それが、輪廻転生ってもんだ」
「私が惜しむのは、死んでいった彼ら自身。たとえ魂が同じでも、別人に興味が持てるかどうかは、その時にならないと分かりませんわ」
「……下界を見守る神の台詞とは思えんな、
「だって、神として彼らと関わっていた訳ではありませんもの」

 ふっと漏れた小さな笑みは、蓮の花葉に残った朝露よりも儚い。
 目の当たりにした観世音菩薩は、少々訝しげな顔をする。が、は何も語らない。再び席に着くよう促したが、ゆるゆると首を横に振って、天を仰ぎ、まぶしそうに目を細めた。
 二人の間を断ち切るように、また、一陣の風が吹き抜ける。黒髪と亜麻色の髪が大きくなびいて、池の蓮の花や葉が、ゆらりゆらりと揺れた。

「此度の件で、自分がつくづく嫌になりましたわ。何も出来ないのに、その自覚すら無くて、今になってこの有様で。
 もし、私が――」

 静かに語るの頬を、涙が一筋、流れて落ちる。
 それは本人にとっても意外だったようで。

「――失礼致しました。今更言っても無意味ですわね。止めておきます」
「無意味、か。本当にそう思うのか?」
「ええ。申し上げたとおり、彼らとの事は、もう『終わった』んですもの。
 悟空だけは、叶う限り見守っていたいと思いますが……私が積極的に関わることは、恐らくもう無いでしょう」

 忘れられるのは、寂しいものですわね。
 小声でそう呟いた後に、彼女は「そろそろお暇致します」と言って、軽く頭を下げた。
 こぼした涙は既に拭き取られ、来た時と同じような、完璧な微笑を浮かべている。観世音菩薩は、軽くため息をついた。

「そういや、あの連中の残党が、まだどこかに潜んでるかも知れないんだってな。一応、気を付けろよ」
「まあ、それは初耳ですわ。その話、本当ですの?」

 踵を返していたが、ぴたりとその場に立ち止まった。
 驚きもあらわなその表情を見つめ、肘掛けに頬杖をついて、彼女は淡々とした口調でこう続ける。

「俺も噂で聞いただけだ。本当のところはまだ分からん。爺婆どもが、勝手に思い込んで怖がってるだけかもな。
 だが、もしいるんなら……既に一度、不殺生の禁を破った連中だ。何しでかすか分かったもんじゃねえ」
「…………」
「軍の連中も躍起になって探しているが、捕らえたって話はまだ聞かねえな。だから、」
「……でも、わたくしには関係ないことですわ。最早、わたくしに何の価値もありませんもの」

 ふっと笑ったの意味ありげな表情に、観世音菩薩の背後で、次郎神がはっと息を呑んだ。
 観世音菩薩が、つっと瞳を眇める。が、彼女はやはり、ただ微笑むのみ。
 しばしの沈黙。やがて、観世音菩薩がわざとらしくため息をついて、こう言った。

「お前な、直系でなくなったとはいえ、一応は皇族だろ。何、どうでもよさげに言ってんだ」
「だって、本当のことですもの。ここでは建前は無しにしろって、貴女様も仰ったではないですか」
「そういう問題じゃねえだろ」

 心底呆れたといった風に、彼女が軽く頭を振る。その様を見て、がころころと笑った。
 だって、本当にどうでもよいんですもの。小声で漏らした彼女の言葉は、誰の耳にも届いていない。

「では、ご忠告に従い、一応気を付けることに致しますわ。観世音菩薩も、どうか」
「俺を誰だと思ってるんだ」
「それは失礼致しました。では、ごきげんよう」

 にこやかに微笑んで一礼して、が場を辞した。
 出入り口のところでは、それまで別室に控えていた侍女たちが整然と並び、主が来るのを待っている。うちの一人が持っている布包みは、恐らく「引き受けた」菓子であるのだろう。よく出来た仮面をかぶったように感情の見えない彼女たちの顔は、どことなく冷たく硬質な印象があった。
 彼女たちが去り、場が再び落ち着いた後に、観世音菩薩は再び、蓮の実の菓子を一つ手に取った。
 かちゃん。伸ばした手が当たり、空になっていた白い茶杯が、黒い卓の上にひっくり返る。

「その時にならなければ分からない、か」

 去った客人の台詞を、小さな声で反芻する。
 そして背後を振り返り、彼女は、生真面目な表情で佇む側近に問うた。

「なあ、次郎神。お前は、生きてる者と死んだ者、どっちが『置いて行って』いると思う?」
「さあ……私めには分かりかねますな。
 ただ、個人的な感情だけで申し上げるのを、お許し頂けるなら……」

 控えめにそう言った彼に、彼女は視線で続きを促す。
 すると彼は、珍しくも私情あらわな――寂しそうな微笑みを浮かべて、こう答えた。

「置いて行くのがどちらでも、別れは、やはり辛いものですな」




 その数日後、再び、天界に凶事が訪れた。
 公主の死。
 彼女が皇族である故に、死因をはじめ詳細は一切明かされず――自殺か他殺か、自然死か変死であるかも伏せられた――、ただ、死んだという事実だけが公にされた。
 一度はかの事件との関わりも疑われた彼女だけに、過度なまでの秘密主義は、様々な憶測を呼んだ。が、秘匿を命じた天帝の手前、誰も真実は確かめられず、やがてその名は、誰の口にも登らなくなる。
 李塔天一派の残党がいる。そんな噂もいつの間にか立ち消えになり、人々の記憶から薄れていた。

「けど、何がどうあっても、『自分』は辞められねぇよ。死んで生まれ変わっても」

 この一報を聞いた観世音菩薩は、側近に、こう漏らしたという。
 だが、この発言の意味を理解した者は、誰もいなかったとのことである。









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