Inside of the night,into the darkness.




「金蝉。貴方、何でこんな所に居るのよ?」
「それはこっちの台詞だ」

 の不躾な問い掛けに、金蝉は憮然とそう答えた。
 時は既に夜半を過ぎ、天帝城ではどこの宮もとっくに門を閉ざしている頃である。今、二人が顔を合わせている正殿前の広場にも、他に人の居る気配は全く無かった。
 星の瞬く音さえ聞こえそうな、澄み切った夜の静寂が、辺り一帯を占めている。視界の端に見える宮殿の門前には明かりが灯り、扉で睨みを利かせる彫り物の神龍を仄かに浮かび上がらせている。正門へと続く道沿いにも篝火(かがりび)が灯されており、その光が、往く者帰る者を導こうとするかのように幾つも幾つも連なっている。そのお陰で、辺りの暗さにも関わらず、互いの顔も姿もある程度は見える。朧な光の与える陰影が、しかめた顔を一層険しく飾り立てていた。

「大体お前、どこから湧いて出てきた。後宮の閉門時刻はもう過ぎてんだろうが」
「やあね、人を虫みたいに言わないで頂戴」

 夜は、逢引するには絶好の時間である。
 なのに。金蝉童子と公主、この二人に限って言えば、雰囲気も状況も最高である筈なのに、会話自体に全く色艶が無い。相手を見つめる眼差しにも、甘さも優しさもまるで無く、逆に細かい棘さえ入り混じっている。
 つまらない意地の張り合いは、子供の頃から続く習慣のようなもの。だが、会うのはいつも陽射しも明るい昼間である。こんな、夜に顔を合わせることは滅多に無い。そのせいだろうか。普段のような悪態の応酬を繰り広げていても、何処かで何かが違っている。
 何だろう、この感覚は。己が心がうまく形にならぬ歯痒さが、苛立ちに一層拍車をかける。

「そういう貴方こそ、悟空はどうしたのよ?
 あんな小さい子を独りで留守番させるなんて、非道い人ね。保護責任遺棄の容疑で訴えるわよ」
「煩せぇ。大体俺は、保護者じゃねぇ。飼い主だ。動物に保護責任もクソもあるか」
「その割には、あまり可愛がってる様子は見ないわね。あんまり放っておくんなら、私が貰っちゃうわよ。いいの?」
「俺も好きで飼ってる訳じゃねぇ。欲しいなら、先ずあのクソ婆ァに掛け合え」
「あら、貴方は口添えしてくれないの?」
「知るか、そんなもん」

 尚も続く言葉の応酬が、ひんやりとした夜気の上を滑ってゆく。
 一息ついたところで、ふと天を振り仰いでみれば、空いっぱいの星々が目に入る。夜でも常に明るさを絶やさぬ後宮の内では、滅多に見ることのない天然の輝きだ。は、夜空を丸ごと抱きしめようとするかのように、大きく両腕を伸ばす。
「こうして星を眺めるのは、いつ以来かしら」指輪一つ嵌めていない細い指の隙間で、白い星が強くきらめいた。
 金蝉は小さく舌打ちしただけで、何も言わない。怪訝に思い、が振り返って見てみると、彼の眼差しは、連なる篝火と闇のずっと向こう、正殿の方角に向けられていた。
 いや、目線はそちらを向いていても、意識は、別のところに在るのかも知れない。そう思うと何だか急に、目の前の幼馴染が遠い存在に感じられた。その綺麗過ぎる横顔も、背も高く見栄え良いその立ち姿も、すぐ近くに在る筈なのに。
 は小さく、ため息をついた。

「天界軍がまた、下界に妖怪討伐に往くんですってね。那托太子を先鋒にして」
「らしいな」

 話し言葉さえも、冷たい夜気の中に吸い込まれてゆく。
 金蝉もも、軍事方面に対しては、全く発言権の無い立場である。にも関わらず、昨今の不穏な情勢が、政治権力に群がる者たちの奸計謀略の片鱗や残滓が、間接的にだが耳に入ってきている。そしてその度に、仲良く遊ぶ幼子たちの姿が浮かぶ。苦い思いに囚われる。この子も、あの子も。血など望んでいないだろうに。手を差し伸べたくても、届かない。
「あのね、金蝉。実はね、」内に抱える重苦しさを拭い去りたくて、が、わざと軽い口調でそう切り出した。
 相手の眼差しがこちらに戻る。訝しげな顔をする彼に、彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべて、

「南天の木の下の穴のこと、覚えてる?」
「あぁ?」

 唐突な話題の切り替えに、彼は些か面食らった様子だった。
 が、すぐに何のことだか判ったようで、

「あんなモンが、まだ残ってたのか」
「えぇ。この間ね、悟空が見つけて教えてくれたのよ。私も、言われるまですっかり忘れていたわ。
 でもやっぱり、あの頃のように巧くはいかないものね。通るのに苦戦したわ」

 お陰で、簪も髪飾りも全部外す羽目になったし、服も随分汚れちゃったわ。
 けらけらと笑って言う彼女に、金蝉は心底呆れたようだった。ため息をつくその横顔が、先程とはまるで意味合いの違う表情に変わっている。もしかしたら、過去のあんな事やこんな事も一緒に思い出しているのかも知れない。
 記憶の共有を確かめると、はまた、唇に薄い笑みを刷いた。

 いつ、誰が作ったのかは判らないが――後宮を取り囲む高い壁の、たった一ヶ所にだけ。ちょうど生い茂る木々の陰に隠れるような場所に、人ひとりが通れるくらいの大きさの、秘密の抜け穴があったのだ。の言うように、南天の木の下に。
 子供の頃、互いの所に行き来する時には、よくその穴を通ったものだ。勿論、金蝉が内に入って来るよりも、が外に出て来る回数の方が格段に多かったが。
 かつて自分たちが使った抜け穴を、今、あの子の眼が見つける。その偶然に、らしくもない感傷めいた感情が芽生える。
 あの頃、自分たちは――

 暫くの間、沈黙が続いた。
 それぞれの眼差しは、相手ではなくどこか遠くを見つめている。現在ではない、過去を見つめようとするかの如く。
 やがて、金蝉が無言のまま踵を返した。が「もう帰るの?」と訊くと、彼は振り向かぬまま、ああ、と短く答えた。
 高い靴音を響かせて、白い後ろ姿が遠ざかってゆく。扉前に大きな灯の点る城とは反対の、暗い方へと。

 一定間隔で点けられた篝火の真下を、彼が通ったその瞬間。
 長い黄金の髪が、白い装束が、篝火の投げかける光を受けて、夜の暗がりの中に一層鮮やかに浮かび上がった。
 そしてすぐに、鮮烈な後姿は闇の中に解けてゆく。まるで儚い星の瞬きの如く。輝きそのものが、黒い色の中に呑まれてゆくかのように。

―― 嫌っ……! ――

 目のまやかしだ、と自身が自覚したその時には――彼女の身体は自然に動き、金蝉に追いすがり、その腕を掴んでいた。

「何しやがる。離せ」
「あ……、ご、ごめんなさい」

 怒り口調な相手の声に、はようやく我に返る。力を緩めた彼女の手を、金蝉が振り払った。その所作にも、少し、苛立ちの気配が混じっている。
 急に追いかけて来んな。驚く。彼の吐き出した言葉が、美しく鋭い針となって、の胸に突き刺さる。いつもなら軽い憎まれ口でかわすところだが、今に限っては、巧い台詞が湧いて出て来なかった。
 言えない。貴方が、闇に喰われてしまうように見えただなんて。
 恐かった、だなんて。
 雅できらびやかな後宮には、夜になっても、その華やぎが消えることは無い。いつも明るい提灯で飾り立てられ、常に何処かから女たちのかしましい喋り声が聞こえてくる。それらは全て無個性な光景や雑音として、の日常の中に染み付いていた。日常そのもの、と言い切ってもいいかも知れない。
 体裁だけは華やかでも、退屈で、窮屈で、たまに息も詰まるような負担すら感じる世界。その世界を守るために建てられている、強固で高い壁。その壁に空いていた、小さな通り穴。
 その通り穴をくぐってみれば、そこには。の期待どおりに、子供の頃と同じように、外の世界が、非日常が拡がっていた。
 広く澄んだ夜の自由な空気と――そんな日常の中ではまず遭遇することのない、闇そのものの孕む原始的な恐怖が。
 暗いのが恐いだなんて、何を今更。弾けるような衝動に駆られてしまった自分自身が恥ずかしくて、笑い飛ばしてやりたくて、は殊更明るい声を出して言う。

「あ、ほら。星がこんなに綺麗なんだから、そんな急いで帰らなくてもいいじゃない、なんてね。あ、流れ星」
「……取って付けたような言い訳してんじゃねぇよ」

 ぎこちない言葉が、暗がりの中で空回りする。は空を指し、星の名前など列挙してみるが、金蝉には殆ど相手にして貰えない。二人の間にある数歩分の距離が、深い溝となって両者を隔てる。誤魔化しが、虚しい。
 だが一旦芽生えてしまった恐怖心は、そう簡単に払えるものではない。例えそれまで、全く気に留めていなかったとしても、気付いてしまったその瞬間に、闇はその口を大きく開けて、自分を呑み込み潰そうとする。馬鹿げている、けれど無視し切れない錯覚。通り抜けてゆく風の冷たさにも、身体が僅かに震えた。
 その恐ろしさから抜け出せるまで、もう少しだけここに居て欲しい。自分の傍に。だが、自分の気持ちを正直に吐露するのは、のプライドが許さなかった。

「ガキか、お前は」

 全くそのとおりだ。金蝉の言葉に、は密かに同意する。
 勿論、顔には出さないよう、一生懸命努力しながら。

「いいじゃないの。こうして童心に返るのも悪くないって、何かの本にも書いてあったわよ」
「何処ぞの書痴みてぇな事ぬかすな。大体、ただでさえ手のかかるガキ一人抱えてんだ。ンな呑気なこと言ってられるか」
「あら、失礼ね。私はあんなに本にばかりかじり付いてないし、身なりに無頓着でもないわよ」

 何気なく視線を移してみれば、闇の向こう、遥か遠くに、軍の宿舎の明かりが見える。
 今頃、話題の人物は、連れ合いの軍大将と一緒に、一杯やっているところだろうか。それともまた、部屋中に散らかした書物に埋もれながら、読書に耽っているのだろうか。
 ちょっと思うところもあり、は更に問い掛けてみる。もしかして、彼は。

「……で、天蓬元帥は、何て言ってたの?」
「別に」

 カマをかけてみると、予想通りの答えが返ってきた。
 やっぱり、この男がこんな時間に城の近くを歩いていたのも、そのせいだったか。話題は恐らく……。
 はまた、小さくため息をつく。闇が、一層深くなったようにも思えた。

「嫌ね、何も分からないなんて」
「何もかも分かる奴なんて、誰も居ねぇよ。……あのクソ婆ァの言ってたことだがな」

 喋る金蝉の表情を伺い見ると、その眉間に、くっきりと縦ジワが刻まれていた。その不快感が何に由来するものなのか、は敢えて尋ねない。
 三度眼を上に向ければ、黒にも近い濃紺の空に、無数の星が瞬いていた。それまでと同じように、全く変わることなく。釣られるように、金蝉も天を振り仰ぐ。
 そうして二人で空を見上げている内に、自然と、の口からこんな言葉がこぼれ落ちた。

「こんなふうにずっと星を眺めていられたら、どんなに良いでしょうね……」

 その呟きに、金蝉からの返答は無かった。
 だが、少なくとも否定や拒絶の意は無いと、何となくその気配で分かる。と同時に、何故か、辺り一帯を包む暗闇が、更に深く濃くなったようにも感じられた。



 二人の見上げる夜の空、遥かに拡がる星の世界では、また一つ、流れ星が駆け抜けていった。









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Material from "篝火幻燈"