冬きたりなば





日は長くなってきたが、まだ早朝の冷え込みは厳しい。
2輪用駐車場の縁は土が露出していて、ブーツの下で霜柱がザクザクと鳴る。
は図書館のポーチに立つと、手袋を外した両の手にはーーっと息を吐きかけた。
更に、じだじだじだじだっと足踏みをする。そうでもしないと、踝まで冷え切った血管に血液を送りきれないような気がした。やはり啓蟄になるまでは、バイク通勤は些かきつい。虫が地中から出てくると同時にライダー達がガレージから出動すると言うのは強ち間違いではない。
彼女は暫くの間じたばたと身を暖め、そしてやっとマフラーと皮のジャンパーを脱いでから、図書館の扉を開けた。

扉の内部は、また、ひんやりとした静謐な空気に包まれていた。外気とはまた違う冷気に満たされた空間である。
は、自分の定位置の席に荷物を置くと、同じ机についている男性に挨拶をした。

「おはようございます」
「ああ、おはようございます」

彼は、いつも本を読んでいる。
彼が身につけているのはいつも白衣なので(胸のネームプレートには「天蓬」と書いてあった)、理学系研究室の人間なのかと最初は思っていた。しかし、彼の読む本のジャンルは極めて雑多であり、理化学は言うに及ばず、文学哲学歴史オカルトハウツー果ては児童文学絵本まで網羅していた。以前など、は自分の専門分野の地質学の研究報告書を、彼が今まさに自分より先に読んでいるのに気がつき、肝を潰したものである。結局、彼女はそれが書架に戻されるまで、落ち着かずにイライラしながら図書館に居座らざるを得なかった。……まったく。墨子とケルブランを並べて読む人なんて、見たことが無い。

は、今日必要な資料を書架から選ぶと、席についた。彼女は常にこの席、カウンターのすぐ脇の窓際の机に座る。彼の存在に気付いてからは、いつもそうしていた。
その「天蓬」氏は、まだ、本を読んでいる。
彼が今読んでいる本は、新書判の分厚い本だ。背表紙のデザインは、書店によく並んでいるポピュラーな会社のもの。今日はミステリーを読んでいるらしい。
は、猛烈にその本が読みたくなっている自分に気付き、小さく溜め息をついた。
今まで、自分が読みたい本のことは誰より自分が知っていたのに。

カウンターに置いてある花が、いつの間にか梅に変わっている。
ここの司書には1人、植物好きの女性が居る。いつもまめに動いていて、図書館の窓際には彼女の世話する鉢植えが四季折々の花をつけている。
彼女と天蓬は顔なじみのようで、時々話をしているところを見かけることがあった。

開館直後の図書館は、まだ人が数えるほどしかいない。
カウンター内も、今、丁度無人になってしまっていたので、は思い切って彼に話しかけた。

「梅、綺麗に咲かせましたね」
「何をです?」

言われた本人は、花に気が付いてはいなかったようだ。
は、申し訳なさそうな顔を作って、傍らの梅の花を指した。

「いえ。この花も、いつものあの方が世話していたものではないかと思って……」
「ああ、そうですよ。彼女、植物の栽培が趣味なんです。僕もハーブやら生薬のもとやら分けてもらいました」

彼の興味は、花よりもそっちらしい。この人なら、マンドラゴラの栽培でも依頼しそうな気がする。

「失礼ですけど、ご専門は何なんですか?」

無視されなかったのに安堵して、はさり気なく、一番聞きたかった言葉を相手に投げかけた。これが判れば、相手の得手不得手が推測できる。ありていに言えば『付け入る隙が見える』と言うものだ。
天蓬は、ぼりぼりと頭をかくと、苦笑した。

「実を言うと、ここの大学の所属じゃないんですよねぇ。すみません、言わなきゃ駄目ですか?」
「いえ、そういう意味じゃないんですけど。読んでらっしゃる本の範囲が、あまりに広いので……」

彼の前に置きっぱなしになっている本に、はちらと目配せする。
彼は妙に屈託の無い笑顔で、また、にっこりと笑った。

「僕はノンジャンルですよ。実は研究者でもないんです、専門分野なんてありません」
「…………そう、ですか」

は唖然として、相手を見つめた。
天蓬は、「内緒にしといてくださいね」と無邪気に笑ってから、いそいそと本の世界に戻って行った。思ったよりもずっと、子供みたいな人だ。

カウンターにスタッフが戻り、館内にもまた誰かが入ってきた。これ以上私語を続けると周囲に迷惑になる。何より天蓬は、5秒としないうちに、また読書に没頭してしまった様子で、もう、彼に話しかけることは憚られた。
は、自分の今日の仕事に必要な資料を選び終えると、小さく「お先に失礼します」と言って、席を立った。

外に出ると、日が高くなっていて、空がくっきりと青かった。
かわされて悔しいと言うよりも、相手が一筋縄ではいかないと言う方が、としては楽しみだった。

「見てらっしゃい。いつか、『すみません。ちょっとその本、見せてください』って言わせてやるんだから」

にやりと笑って彼女はつぶやき、エンジンのスターターを思い切り蹴った。


昨日よりも柔らかくなった空気が、彼女の周りを吹き抜ける。

春は遠くは無い。









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Material from "雲水亭"