風薫る、山笑う





「降りてきて良いわよ。悟空」

読んでいた本をぱたんと閉じて、は誰も居ない筈の頭上に呼びかけた。
新緑を満たした樹の枝がガサガサと鳴ったかと思うと、足音も軽く飛び降りてきたのは、しなやかな獣のような、少年。

「ごめん、。ジャマだった?」
大きな金目に、すまなそうな色が満ちる。本当に、この少年の顔は、嘘がつけない。
「いいえ。今、読み終わったところだから、気にしなくて良いのよ」
「ホント?。よかったぁ」
見る見るうちに、悟空の顔に笑みが溢れる。言葉を言葉どおりに受け取り、心の内がそのまま映る表情。見ていて、気持ち良いほどだ。
彼は、ぴょこんとの隣に腰を下ろすと、彼女の顔を覗き込んだ。
「あのさ、前から聞いてみたかったんだけど」
「なぁに?」
ってさ、強いの?」
「…………はい?」
咄嗟に返答できずに、は目を丸くした。内面をよく映し出す表情も、質問の意図までは教えてくれないものだ。
「だってさぁ、女の人1人で、俺たちみたいにずっと旅してるんだろ?。危ない事とかなかったのかなぁって」
「そりゃ、貴方がたの場合は、向うから危険が寄って来るって言うか、自分から危険に首突っ込んでるじゃないの」
「それもあるけどさ。でも、三蔵は怖ぇくらい強いし、悟浄もエロ河童だけど強いし、それに俺たちは4人だし……」

悟空はふと、秘密を打ち明けるような顔をして、「八戒も、普段は優しいけどホントはすんごく強いんだぜ」と、耳打ちした。は微笑みながら、「知ってるわ」と、ささやき返した。

「だからさ、危ない事とかあっても俺は全然平気だけど、はどうしてんのかなぁって思ったんだ。1人旅なんかしてて、怖くない?」
「……そうねぇ」
は、持っていた本に、ふと目を落とした。木漏れ日が、表紙の上に模様を作って揺れている。それを指先でなぞりながら、隣の少年に問いかける。
「じゃあ、逆に聞いていい?。いくら強くても、4人でも、君は何故、この危険な旅を続けているの?」
「三蔵が行くから」
即答だ。
(……愚問だったわねぇ)と、は苦笑する。
「じゃあ悟空、君は、“自分自身”が、やりたい事とか、行きたい所とか、そういうものは無いの?」
「えっ。ええぇっ?」
「三蔵様についていきたいって言うのは、ある意味、あの方を通した願望でしょ?。孫悟空、貴方自身の望みは、なあに?」
「え、えっと――??」
すっかり困り果ててしまった風の悟空を、は微笑ましく思った。
あんまり苛めてしまうのも可哀想なので、悟空の頭をぽんぽんと叩くと、彼女は語りだした。
「私はね、私自身がやりたい事をしながら、もう、ずうっと旅をしているの。自分がしたくてしてる旅だから、多少危険があっても、やっぱり楽しいわ」
「ふーん」
「それに、1人って言うのは、自分の事を全部自分で決められる訳でしょう?。こういうの、私は好きよ」
「寂しくない?。
「寂しくなんかないわ。行く先々で、こうやっていろんな人に会えるもの」
言うなり、その褐色の頭を抱え込むと、わしわしわしと撫でてみせる。
悟空も無邪気に、けらけらと笑った。

「そっか。は、一人旅でも、独りじゃないんだ」

言われて、自身も、納得したように微笑んだ。
この少年は、本当に賢い。知識の多少ではなく、聡明な、物事の本質を突く、賢さ。

「やっぱり君は、判ってるのねぇ」
「えっ。何何?。何が?」
「いえ、いいのよ」

こう言うことは、自覚しない方が良い事もあるのよ…、と、は心の中で呟いた。
代わりに、思わせぶりに悟空へ向かって、ずい、と、迫る。
「それにね、君が思うほど、私は“か弱い女”じゃないの」
「……へ?」
悟空が返答するかしないか内に、は「よっ」と言う賭け声とともに、彼の身体をキッチリと組み敷いて固めてみせた。
「わ――――っっ」
「人の身体はね、結構、理論的にできているの。こうやって関節を抑えたり、重心を揺らしたりするだけで、非力な女性でも、相手に勝つ事はできるのよ」
「し、も強いんだ…。何か八戒みたい」
「ふふふふ。あの人ほど、無駄なく鮮やかには決まんないけどね」

じたばたと暴れてみた後にやっと開放された悟空は、もう1度座りなおすと、の顔をしげしげと眺めた。

「……じゃあさ、がけっこう強くて、1人でもぜんぜん平気なのはわかったけどさ。もう1つ聞いていい?」
「いいわよ。今度は、なあに?」

彼は、本当に、全く屈託の無い、輝くような笑顔で、に問い掛けた。

「それでもやっぱり、八戒のこと、好き?」

は今度こそ目を見開いて、目の前の少年の顔を見つめた。
そして、心の底からの笑みとともに、彼女は答えた。

「…………ええ、彼の事が、大好きよ」









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