東方より、我ら来たりぬ





〜没薬(もつやく)〜
アラビア産カンラン科の植物から採取される香気ある樹脂。ミルラ。香料や薬料として用いる。
鎮痛や死体の防腐に使われていたことから、キリストの死の予言とも言われる。








空になったグラスを弄びながら、突然、八戒が言い出した。

「『東方の三賢者』って、知ってます……よね?。多分」

は、先ほど開けたコルクの刻印をしげしげと確かめながら、よどみなく答えた。

「ガスパール、メルキオール、バルタザールの3人。異邦人の学者で、占星術によってキリストの誕生を知り、ヘロデ王を訪れるがそこにメシヤは居らず、星に導かれてベツレヘムの馬小屋で嬰児イエスを拝む。『東方の三賢王』とも言われ、欧州、アジア、アフリカの諸民族の象徴という説もあって、全世界がキリストに敬意を表したと言う意味も持つ。その時にイエスに贈られた物は、没薬、乳香、黄金の3つ…………でしょ?」
「ご名答です」
「ありがと」

八戒は、半分ほどになったボトルを取るとのグラスに注ぎ、そして自分のものにも同じワインを満たした。
波打つ赤い水面を見下ろして、彼は続けた。

「じゃあ、その『没薬』って、何に使う薬なのか、ご存知でした?」
「――ヨハネの福音書19章。アリマタヤのヨセフは、イエスの身体を取り下ろしたいとピラトに願い出た。また、ニコデモは没薬と香を混ぜたものを持参した。2人は十字架からイエスの死体を下ろし、ユダヤの習慣の通りに、死体を香料と共に亜麻布で巻いて墓に埋葬した。――」
「よく覚えてますね」
「まあね」

彼は苦笑してワイン一口啜ると、グラスを明かりに翳した

「孤児院に居た頃、『3つの贈り物』を知ったときから、ずっと疑問だったんですよ」
「何が?」
「生まれた瞬間に、死ぬ事を祝われる子供って、本当に幸せでしょうか?」

グラスを透過する光は赤く染まり、彼の手元も血の色に映る。
赤いワイン。パンと共に用いる正餐の糧。キリストの血の象徴。

「刑死して、死後に救世主と崇められて。ヨセフとマリアの息子イエスは、本当にそれで自分の生涯を良しとしていたのでしょうか?」
「………………」

は、横目で八戒を伺った。

(赤じゃなかった方が良かったかしら……)

ほんの少し不機嫌な顔になって、彼女は勢いよくグラスを干した。そして、たん、と音を立ててそれをテーブルに戻す。

「じゃあ、貴方は生きてるうちに、イヴの晩に鳥とケーキを焼いて、私の空腹を救って頂戴」
「今年は野宿しないんですか?」
「去年風邪ひいたから、今年はパス」
「気まぐれな降誕祭ですねぇ」

八戒は笑った。は、密かに安堵しながら、すっとグラスを差し出した。

「悟空も居るから、10人分は要るわね」
「15人分用意しますよ」

再び、赤く染まった杯が、2人の間でチンと音を立てた。






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〜乳香〜
南アラビアとソマリランドを原産地とする、白色または黄色の香料。浮香樹の樹脂。
さまざまな供物と共に、香炉でたいて神に捧げる。
キリストの神性の象徴。







「悟浄、良い匂い」
「…………それ、嫌味?」

深夜の廊下ですれ違った時、がふとつぶやくと、悟浄は大袈裟に肩をすくめて見せた。

「今夜は誰とも遊んじゃいねえのになぁ」
「あら、違うわよ。悟浄自身の匂い」

は、そっと悟浄の肩口に顔を寄せた。

「煙草臭くねぇ?」
「んー。ハイライトの香りも少しあるけど、それともちょっと違うわ」
「んじゃやっぱり、良い男はフェロモン多い?」
「……まあ、間違いじゃないけどね」

いきなり触れ合うほど近く顔を覗き込まれたが、は動じずにくすくすと笑った。

もし、八戒がこんな事をする時は、自分か相手のどちらかがそれを欲している時だ。
必要な時以外は、さり気なく距離をとるのが彼の行動の原則である。
悟空の行動には、そんな他意は一切無い。
三蔵の場合は……、彼がそんな事をするという仮定すら、彼女の想像の限界の彼方だ。

笑いを収めてから、は悟浄の紅い瞳を覗きこんだ。
これが、彼の自然体なのだ。変に照れたり動揺したりする必要など、実は、無い。

「『匂い』ってね、昔から生物的にも異性を誘引するためのものではあったんだけど、人が文化を持ってからは、別の意味も生じてくるの」
「へえ、どんな?」

彼女は、悟浄の紅の髪に指を絡め、そっと握った。

「種族文化を問わず、香りの良いものってね、神様への供物にされる事が多いのよ」
「捧げられちまうの?」
「そう。火に投じたり、血を捧げたり、水に沈めたり、敢えて無駄に費やす事を良しとしたの」

髪を軽く引かれ、悟浄の喉が僅かに上がる。の息が微かに触れると、らしくもなく、ざわっと背が粟立った。
……畜生。怖ぇぞ。

絶句したらしい悟浄の様子を見て、はまたけらけらと笑い出した。

「やあねぇ。悟浄をササゲちゃったりしないから、安心してよぉ」
「そりゃそうだけどさぁ。カンベンしてよ…」

肩を震わせて笑い続けるを見下ろして、悟浄はまた、肩をすくめて言った。

「それに、美女とかならともかく、こーんな穢れちゃってる遊び人の野郎を送りつけられても、嬉しくねぇんじゃないの?」
「あら。そんな事ないわ。男性だって、立派な供犠になるしね……」

再び、じりりと後じさった悟浄に、はにっこりと微笑んだ。

「神性と俗性は表裏一体、紙一重なのよ。」







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〜黄金〜
石英鉱脈、鉄鉱銅鉱の中、又は、川の砂中に単体として産する。空気中で錆びず、酸に侵されず、王水にのみ溶ける。産出の少なさと、光輝の美しさから、貴金属の随一とされる。
キリストの王権、神の栄光を表す。









「何故、西なのでしょうか」

三蔵は訝しげにを見た。彼女の視線の先では、八戒がジープのシートに荷物を運び、悟浄がぼんやりと煙草をふかしている。

「何がだ?」
「貴方がたの、向かう方角がです。仏教で、西方と言えば特別な方角ではないですか。光明様から貴方が受け継ぎ、そして持ち去られた経文が西方にあると言う事に、三蔵様は、何かお考えを持ったことは無いのですか?」
「……知るか」

マルボロの煙と一緒に、盛大な溜め息が流れてきた。
言語理解力のある奴とは思ってはいたが、ありすぎるのも考え物だ。

「別に関係ねぇだろう」
「一見関係の無さそうなものに関係を持たせるのが、我々の仕事なのですもの」

は振り返って、にっこりと笑った。

「昔、その西方で起こった宗教では、神の御子が生まれた時にも西へ旅した人々が居ると伝えられているんです」
「…………」
「その御子は、自らの身体を供物として死ぬ事によって、人類の全ての罪を贖ったとされています」
「…………で?」
「八戒が言ってたんですけど」
「関係がどうこう言う割に、話が飛ぶな」

はまた笑って、「すみません」と呟くと、先を続けた。

「人が死んでも何も変わらない……と、本当にお考えですか?」

投げかけると、はそれきり何も言わず、三蔵を見据えた。
早朝の風が通りを吹きぬけ、の黒髪と三蔵の法衣が、競う様に大きくなびく。
八戒と悟浄の交わす声が、風に乗ってかすかに聞こえてきた。

「さぁな」

否定も肯定もせず、一瞥すらくれずに、三蔵は投げ返した。
は、それでも怯まず、引き下がりもせず、傍らの最高僧を見つめ続けた。
暫くの沈黙の後、彼が、口の中で「くだらねぇな」と独りごちたのが聞こえたような気がした。

「お前が俺に何を言わせたいのか知らんが…」

三蔵は初めて、を真っ直ぐに見据えた。通りに朝日が射し、彼の金の髪が、頭上で輝く。

「…変わるのは、生きてる奴らの方だろう」

暫くの間、は、その後光のような輝きを見つめ続けた。
彼が戴くのは、師から受け継いだ金冠にも劣らぬ黄金。生来の金の光背。
彼女は表情を僅かに緩めて肯くと、三蔵に頭を下げた。

「御賢答、有難うございました」
「まだ終わっちゃいねぇよ」

遮る言葉に、は首を傾げた。

「お前は最初に、『何故西なのか?』と聞いた筈だ」
「……はい。」
「俺にとって、西って言うのはな」

彼は、自分の前に長く落ちる影を指して、言った。

「太陽が沈む方角、それだけだ。」







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三蔵がジープに向かって歩き去り、は、彼らを見送るべく、通りに佇んだ。
もう何度目だろう。彼らと知り合って、お互いの出立を見送ったり、見送られたりするのは。
こんな不穏な、何かに縋らずには生きていけないような世の中にあって、彼らが、自身にのみ寄って立つ姿を見ているのは楽しい。楽しいが……。

そして、彼女は自問する。
…私は、私自身を救う事が出来るだろうか…。

「あっ!。は、まだ出発しねぇの?!」

いきなり、ぱん、と背中を叩かれて、は我に返った。

「え、ええ。またちょっとお別れね。悟空」
「残念〜。が居ると、八戒が作るメシ、ワンランクアップするのになぁ」

心底、残念そうな瞳には、何の打算も、駆け引きも見当たらない。
が何か声を掛けようとした時、ジープから「遅ぇぞ、サル!」と、声がした。
刹那、彼は、喜びとも動揺とも付かぬ表情で跳び上がる。

「じゃ、、またな!」

彼の言葉がの耳まで届くか届かないかの瞬間に、もう、彼は身を翻して、三蔵の後を追いかけていった。
の心に、理屈も脈絡も全く関係なく、1つの言葉が響き、沁み透っていった。



――――見よ。御子は、来ませり――――









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