BOOTS





は少し力を入れて、その店の扉を押した。
磨きこまれた黒い木材と、錬鉄で縁取られた曇りガラスとでできたドアが、わずかに軋んで内側に開く。一歩踏み入れた床には厚手のカーペットが敷かれ、彼女の足音をひっそりと吸い込む。

「いらっしゃいませ」

奥のカウンターにいた店の主は作業の手を止めると、柔らかな声でを迎えた。

「こんにちは。できてます?」
「ええ、少々お待ちください」

八戒はそう言うと奥に引っ込んだ。一人になったはバッグを肩にかけ直すと、店の中に視線を巡らす。店内はカウンターと扉のある面を除いて、壁は一面しっかりとした造りの棚になっている。そこに並べられているのは造花、陶器、リトグラフ。そして靴。
ごくオーソドックスな黒革のパンプスから、15センチはありそうなピンヒール。ラインストーンが散りばめられた華奢なミュール。繊細な刺繍の施されたスリッポン。
棚に並べられた靴たちは、摘まれるのを待つ花のようにも、遠い異国で採取された生物標本のようにも見える。
は棚に近づくと、その内の一つを手にとった。サイドが開いた淡いラベンダー色のパンプス。甲の部分には色違いの細い革でステッチが入っている。

―これなら・・・・・・―

靴に合う服を頭の中で考えてみる。
服に靴を合わせるのではなく、靴に服を合わせていく。それがこの店を知ってからののやり方になっていた。

「お待たせしました」

振り向くと八戒がいつの間にか戻っていた。

「こちらですね」

カウンターに煉瓦色のロングブーツを置く。それは、が昨年この店で作ったものだ。

「直りました?」

はブーツの右足を手に取って、くるぶしの少し上あたりを注意深く見た。滑らかな革はしっとりとした光沢を取り戻している。コンクリートで擦ってできた白い傷は、指で触れてみてもどこにも残ってはいない。

「よかった」

は胸をなでおろした。昨年、ウィンドウに飾られていた時に一目ぼれして、オーダーしたブーツだった。
落ち着いた煉瓦色のそのブーツには、履き口の周りにレースのようなカットワークが施されている。少し反り返ったつま先は丸みを帯び、踵と共にしっかりと足元を包み込むカーブを形作る。

「随分お気に入りのようですね」
「ええ、とっても」

一日履いては二日休ませ、ブラシかけも毎日欠かさず手入れをしてきた。もうシーズンも終わりという時に、うっかり傷を付けてしまってどうしようかと思ったが。

「どうぞ、履いて試してみてください」
「そうね」

は店内に置かれた低いソファに腰を下ろした。履いていた靴を脱いで台に足を置く。その足元にブーツを手にした八戒が跪いた。

「失礼します」

膝をついた姿勢のまま、片手でのふくらはぎのあたりを支えると、八戒は慣れた手つきではつま先からブーツを履かせていく。まず右足を、次は左足。

「どうぞ」

は立ち上がると足を踏み出した。

―?―


体が覚えていた感覚とは変わっていた。履き心地を確かめる為に、店内をぐるぐると歩いてみる。修理に出す前は、なんとなくぐらつくようだった右足が、しっかりと床に付いている。
振り向くと八戒が腕を組んでこちらを見ていた。単眼鏡の向こうで、緑の瞳が満足げに細められる。

「右足の踵を調整しておきました。歩き方にすこし癖があるようですね、さんは」
「そう?」
「ええ、それから一度整体に行って、骨盤の歪みを診てもらうといいですよ」
「分かるの?」
「靴を見れば」

そう言うと八戒は少し首をかしげてを見た。黒い前髪が額に流れる。緑の瞳が検分するように、の足元から次第に上へと這い上がっていく。脚から腰へ、そして胸から首を伝って顔へと。頭蓋骨の位置まで視線をめぐらせて、ようやく八戒は口を開いた。

「いかがですか?」
「ぴったり」

の答えにまた一つ頷き、八戒はソファを指し示す。は踵を返してソファに戻り腰を下ろした。

「なんだか、だんだん足にあってきたみたい。このブーツ」
「上質のラムスキンを使っていますからね。履いていくうちに、さんの脚に合っていきますよ」

八戒は再びの足元に膝をつく。

「ラムスキン?」
「子羊の革です」
「へぇ」

革にもそんな種類があるとは知らなかった。革と合成皮革と布。素材を意識したことがあるのはそれぐらい。
は手を伸ばして甲の辺りの革を撫でた。薄く柔らかなのに、押し返してくるような弾力が指先に伝わってくる。そのの手に八戒の手が重なった。

「生後、三、四ヶ月の可愛らしい子羊を、親羊から引き離して・・・」
「え…」
「皮膚を傷つけないよう慎重に毛を刈り込んでから、喉を裂いて殺すんです」

何を言い出すのだろう、この人は。
眉をひそめるに、八戒はいつもの穏やかな笑みを返した。
そして八戒の手はの手を捕らえたまま、ブーツの甲から上にすべり、くるぶしを回り込んでふくらはぎの曲線をたどっていく。

「八戒さん?なにを言って」
「まだ温かな子羊の死体から丁寧に皮を剥いで、それを鞣して革にして・・・」

死体?皮を剥ぐ?考えた事もなかった。革が生き物の皮だということも、皮をはがされた生き物がどうなるかということも。
不意にこれまではただ滑らかだったブーツが、脚にまとわりついてくるような気がした。死んだ子羊の皮。それを脚にまとわせて歩いていたのか、私は。
言葉も出ないの耳に、呪文のように八戒の言葉が沁みていく。

「綺麗に染めて縫い上げて、このブーツに仕立てたんですよ。貴女の脚の形に合わせて。だからほら、ぴったりでしょう?」
「あ・・・」

汗ばんだの手。その下でかつて子羊のものだった革は、しっとりとして肌に吸い付くようだ。かすかに呼吸すらしているような錯覚さえする。
きめ細かな革の手触り。無垢な子羊の命と引き換えに作られた、履き心地のいいブーツ。それを自分に教えこんだ店の主の囁き声。

「いかがですか」

眩暈がする。
の細い喉がこくりと動いた。

「いい…靴ね」
「はい」

八戒は慇懃に頭を下げた。そして一瞬前とは別人のように事務的な手つきでブーツを脱がせると、立ち上がってカウンターに戻っていった。長い指が器用に動いて、ブーツを薄紙で包みモスグリーンの紙袋に入れていく。
自分の靴を履きなおしながら、は静かに呼吸を整えた。目の隅で八戒の動きを追いながら、自分に言い聞かせる。
さあ、もうこれで用事は終り。修理代を払って店を出なくちゃ。どこかに寄ってお茶して…そうだ、次の仕事用の服が欲しいんだっけ。シックだけど少し華やかな感じの。どうせだったら靴とバッグも合わせたいなぁ・・・・・あ。
イメージと記憶が重なり、の視線が店内の一角に留まった。立ち上がって棚に近づき、一足のパンプスを手に取る。
色は黒。ヒールの高さは5.6センチか。スロート部はやや浅め。全体にベーシックなデザインだが、甲にクラシックな形の小さなリボンがついている。
はトップラインの緩やかなカーブを指でなぞった。ついさっき知ったばかりの、革の感触というものを楽しんでみる。これはブーツの弾力のある革とはまた違った、重ねたシフォンのような柔らかさ。

「これは何の革?」
「ペッカリーです。よろしかったら試してみて下さい」
「そうね…」

は少し考え、パンプスを元の棚に戻した。

「今日はやめておくわ」
店の主も重ねては勧めない。
はカウンターに歩みより、修理代を支払ってブーツの入った紙袋を受け取った。

「ではまた次のご来店を…」

単眼鏡の向こうの瞳が可笑しそうに細くなる。次に来た時、また次に来た時。そうやってきっとこの店に来ずにはいられなくなっていく。そうなることを見透かしているように。

「お待ちしていますよ、さん」

は辛うじて笑顔を作ると、カーペットを踏みしめて店を出た。
細い路地を抜けて、広い通りに出る。明るく安全で清潔な街路をはゆっくりと歩いた。
建ち並ぶショップには品物があふれ、ウィンドウ越しに、さあどうぞと言わんばかりに愛想をふりまいている。それを眺める内には物足りなさを感じた。
機械で大量に作られた物達は、誰に向けても同じ媚びを売っているようだ。もしくは使い捨てにされる運命を知っているかのような無表情。
自分の為だけに作られ、使う内に微妙な変化を見せた煉瓦色のブーツ。あの手ごたえが感じられない。
はカフェに入ると紅茶を頼んだ。運ばれてきたアールグレイにミルクを入れスプーンをまわす。カップの中で溶けていくマーブル模様をひと口啜り、バッグから手帳を取り出す。
次の休日は四日後。その日の欄にはあの店の名を書き込んだ。
『Canan』と。










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