秋 霖 (しゅうりん)




雨。
夜の雨。
部屋の外から聞こえてくるはずなのに、頭の奥から響いてくるような雨音。
ぼんやりと耳を傾けていると、現在も未来も無くなって、過去だけに閉じ込められていく。
そんな気がした。

―花喃……―

八戒は手にしたグラスに口をつけ、くいっと中身を飲み干した。喉を火のような熱さが走るのは一瞬だけ。 次の瞬間には、これだけ強い酒を水のようにあおっても、酔えない自分に苦い笑いがこみ上げてくる。
自虐傾向には飽きた。そう思っていたが。

―僕が貴女を逝かせた日も、こんな雨だったね。花喃―

独りだった貴女。
独りだった僕。
二人で一人になれた日々はとても短くて。

『さよなら 悟能』

守りきれずに僕は貴女を独りで逝かせた。
周りにいる人たちの影響で、僕は生きていたいと思えるようになったけれど。

「花喃……」

貴女は……。
八戒の顔がふっと曇った。飲み干した琥珀色の液体は、自分を酔わせもしない癖に、感覚を鋭くさせる。
部屋の扉の隙間から、甘ったるい匂いが細く流れてこんでいる。息を殺してこちらを覗う人の気配も。
八戒は無言で立ち上がると、足音も立てずに扉に近づき勢いよく開いた。部屋の外に立っていた人物 は、少し驚いたようだが、悪びれのない笑顔を八戒に向けた。

「こんばんは、八戒さン」
「なんの御用ですかさん、こんな夜更けに」

柔らかな口調とは正反対の鋭い視線で、八戒はを見た。今夜の彼女はゆったりとした部屋着を羽 織っている。広い袖口に隠された手元は見えない。だが、あの甘ったるい匂いは、確かに彼女から漂って 来ている。

「あのね、八戒さ…」

笑みの形の唇から言葉が発せられる前の、ほんのわずかなの顎の動き。八戒の冷め切った目は それを見逃さなかった。
八戒はいきなりの頤に手をかけ、の顔を仰向かせた。指先に力を込め、ぽってりとした唇を半 開きにさせると、有無を言わせず唇を合わせた。

「んっ」

もがくの右腕をさぐり、手首を捻り上げる。の持っていた香炉が薄い煙りをなびかせながら、音 を立てて床に転がった。
八戒は深く重ねた唇から舌を這いこませ、の中を探るようになぞっていく。やがて二人の喉がごくり となると、八戒は捕らえていたの体を突き放すように解放した。

「どうして分かったの?」

指先で口元をぬぐいながらが聞く。

「貴女がこんな時間に人を訪れて焚くものが、ただの香なわけないでしょう」
「それで?」
「何らかの作用がある香なら、それが吸引性のものである以上、貴女は解毒剤を持っているはずです」
「ふぅん」

は面白そうな顔で聞いている。

「奥歯に薬物を仕込んでおく。というのは古典的ですよ」

そう言い捨てて踵を返した八戒に、は申し訳なさそうに言った。

「うーン、ちょっと違うのよね」
「違う?」

振り返ろうとした八戒の足元がゆれた。

―?―

頭の奥が痺れて、目がかすむ。

「何…を」

よろめく八戒の体を両腕で支えると、はそのまま部屋に入っていった。八戒をベッドに座らせると、自 分の片頬を押さえて言う。

「ここに入っていたのはね、解毒剤じゃなくて、素直になれるおクスリ」
「貴女も飲んだでしょう?」
「これくらいじゃ効かないもの、私」

そう言って微笑むと、は八戒の傍らに腰を下ろした。

「悪趣味、ですね」
「そう?」

八戒の怒りを含んだ笑顔に、は天然ボケな笑顔で応じる。

「目的はなんですか」
「別に。ただあなたとお話したいなぁって」
「僕には別に、話したいことなどありませんよ」
「本当に?」

苛立つ八戒にはお構いなく、は、ただにこにこと笑っている。まるで何かを待つように。

―何を考えているんでしょうか、この女性は―

一般的に考えれば、夜這いというシチュエイションなのだが、そんな気になれるはずが無い。特に今夜の 自分には。
指先とつま先に力を込めてみる。体の自由はきくようだ。
もう眩暈もおさまったし、特に体に変調はない。
少々手荒な真似をしてでも、彼女にはお引取り願おうと八戒が思ったとき、が自分を呼んだ。

「悟能」

自分が殺めた数多くの人と、生きている数少ない人間しか知らないはずの名で。

「何故……貴女がその名を」

は声のトーンを少し押さえて、もう一度自分を呼んだ。もう二度と聞くことは無いだろうと思っていた 声で。

「悟能 なにしてるの?」

八戒の全身に鳥肌が立った。
最後に聞いてから、一度も忘れたことなど無い声。脳裏に声の主の姿が浮かぶ。
それに反応したように、目の前に座っていた女性は、しゃらりと姿を変えた。
質素だが清潔で品のいい服。
編んだ長い髪。
優しげな眼差し。

「花…喃」

八戒の口から呻くような声がもれた。

―幻覚…ですね―

頭の中の一点が警告する。だが

「会いたかった 悟能」

そう言って微笑む彼女の姿は記憶のままで、触れずにはいられなかった。

「あ……」

花喃の体からほんの僅かの距離をのこして、八戒は伸ばした自分の手を押しとどめた。
花喃が不思議そうな顔をする。

「どうしたの?」
「駄目なんだ。僕の手は…血で…」
「血?」

花喃は両手を伸ばすと、八戒の手をとった。そして自分の頬にそっと押し当てる。

「私 悟能の手 好きだな」

うっとりと目を閉じてそう言う花喃の口元から、意外な言葉がこぼれた。

「ごめんね」
「え?」
「綺麗な手なのに 私のせいで 真っ赤になったんだね」
「きみのせいじゃない」

ううん、と言うように花喃は首をふった。

「ごめんね 悟能 それから…」
「何?」
「私ね 嬉しかった 悟能が来てくれて 最期に会えたのが悟能で」

花喃は八戒の胸に顔をうずめた。

「ありがとう 悟能」
「花喃、僕はきみを…」

花喃は顔をあげると、人差し指で八戒の唇をそっと押さえて微笑んだ。

「ね 悟能」

八戒の耳元で花喃がささやく。二人で過ごした幸せな夜と同じように。

「わたし達 独りじゃなかったね」

自制の鎖は断ち切られた。

「花喃っ!」

力いっぱい抱きしめる。
胸も腹も脚も。貪るように求めた体は、どこまでも柔らかくどこまでも温かい。
血の繋がった実の姉。それが何だと言うのだろう。
信じるものしか救えない。そんな無能な神が定めたルールに従う必要がどこにあるというのか。
手加減できずに体中を揉みし抱けば、小さく苦痛の声を上げながらも、両の腕が抱き返してくれる。
やっと出会えた僕の片割れだったのに。

―だった?―

かすかな違和感を、体をつたう汗が溶かしてゆく。
抱いて、抱いて、抱かれて。いつの間にか雨の音は聞こえなくなっていた。



「あ、痛ぅ」

思わず出た呻き声に、は慌てて口に手をやった。
痛む腰をさすりながら自分の体を見れば、白い肌には火傷のような赤い痕が、無数に残されている。
ミイラ取りがミイラになる、とはこのことだ。そう思っては苦い笑みを浮かべた。
三蔵一行のもつ情報を聞き出そうとして、八戒を選んだのは正しかった、筈だ。
彼のカードがゆるむ雨の夜を選んだのも間違っていなかった、と思う。
幻覚作用のある香と自白剤系の薬物を二重に準備したのも悪くない案、だった。
が、八戒の地雷ポイントと、爆発の威力を読み間違えたのが自分の敗因だった。
まだ横で眠りつづける八戒の目を覚まさないように、そっとはため息をついた。
結局目的の情報は手に入らず、この人の傷をなぞっただけなのだ。
そう思うとありもしない良心が痛む気がする。
は素肌に部屋着を羽織りながら、窓の外に目をやった。もう夜は明けている筈なのに、まだ薄暗い。 今日も雨なのだろう。
薄暗がりの中で目を凝らせば、八戒の寝顔は満たされているようにも、悲しげにも見えた。
今夜もこの人は自分を責めつづけて眠れぬ夜を過ごすのだろうか。そう思ってしまうと、自分自身にさえ 赦されずに眠るその寝顔は、なんだかせつない。
だけどそれを慰めるのは自分の役割ではない。は八戒の寝顔に軽く唇をつけると、その枕もとにラ ベンダー色の香玉を置いた。思い出させてしまった痛みの代わりに、せめて安らかな眠りを。
そしては八戒の耳元で言い聞かせるように囁いた。

「私ね 幸せだったよ 悟能」

はベッドから下りると、床に転がっていた香炉を拾いあげた。
これまでに集めた、切れ切れの情報をつなぎ合わせてみる。

―幸せな女性よね―

信じられる相手がいたこと。
信じてくれる相手がいたこと。
最期に最愛の人に会えたこと。
そのどれ一つとして叶えられずに生きて、そして死んでいくしかない女達もいる。
遊郭にいた頃、そんな同輩を数多く見てきたの目には、花喃という女性は羨ましいくらい幸せに見え た。
八戒の笑顔の向こうに透けて見える、ひやりとした両刃の剣のような印象。その彼が想い続ける女性。
そういう関係は嫌いでもないから、胸に浮かんだ一言は、そのまま胸に納めておくことにした。
自分の体の通る分だけ細く扉を開けると、はするりと部屋から抜け出た。後ろ手に閉めた扉に寄り かかって、胸の内で問いかける。

―もし生まれていたら、その子もやっぱり…紅い髪と紅い瞳をしていたのかしら……ね―

しとしとと雨は降り止まない。
は雨が好きだった。一人でぼんやりできる時間をくれる雨が。けれど今朝の雨はなんだか肌寒い。
は部屋着の前を掻きあわせると、まだ起きだす人のない宿の廊下を、足音をひそめて歩きだした。

「あ…ふぅ。もう少し寝ようかなぁ」

人肌の恋しい朝だった。








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Material from "Atelier paprika"