― 了 ―
以降の日々は、あっという間に過ぎたような気がする。 あの後、ほうぼうの体で宿に帰り着いたは、先ず、宿の主人の驚愕の表情に出迎えられた。 「あんた、その格好!」頑固で、お世辞にも愛想がいいとは言えないその顔が、激しく動揺している。無理もない。宿泊客の、しかも若い女が夜中に血塗れな姿で戻ってきたら、驚くのが普通の人の反応だ。その場で卒倒しなかっただけでも、十分立派だと言うべきかも知れない。 勿論、主人には説明を求められたが、にはもう、そこまでの体力も気力も残ってはいなかった。正直言って、よく自力でここまで帰ってきたもんだとさえ思う。申し訳ないながらも、その晩は丁重にお断りした。 で、部屋に着くなりベッドに倒れ込み――はそのまま、夢の無い深い眠りに陥った。 そして、翌日。目を覚ますと、は再び“街の救世主”に祭り上げられていた。 街を恐怖と疑惑の淵に陥らせていたかの連続殺人事件は、結局、『妖怪の無差別殺戮』という結論で落ち着いていた。獣以下の知能しか持たぬ下級の妖怪が凶暴化し、誰彼構わず殺していたのだと。で、その犯人(?)はに退治されたので、もう二度と事件は起こらないだろうと――三文芝居にも満たない幼稚なシナリオに、は密かに肩を竦めた。 そんな馬鹿馬鹿しい話を誰が信じるかと思ったが、聞いた話によると、あの光亮が、役所や街の人々に強くそう主張したとの事だった。あの場に残された“虫”の遺骸や瓦礫の山を前にして、相当の熱弁を振るったらしい。彼の生家が、街ではそこそこの実力者であった事も、反論の出なかった理由の一つかも知れない。 それに何よりも、街中が、疑惑と恐怖を抱く事に倦み疲れていたのだろう。早く安心して生活したいという願望が、異論を封じたとも言える。尤も、それと同時に、妖怪たちへの憎悪の念が、一層強くなっただろうが。 あの女性、瑞妃は、一連の事件の最後の被害者として――あの場に遺体があった事から、勝手にそう結論付けられたのだろう――、無縁仏として寺で供養される事となった。皮肉なことに、訃報は人々の記憶を、彼女がまだ舞台上で喝采を浴びていた頃の思い出を揺り起こしたようで、葬儀の日には、多くの涙と弔いの花が手向けられた。 街の人々の間で囁かれるシナリオの中は、都合の良い虚構ばかり。真実など爪の先程も入っていない。勿論、あの白装束の似非易者の存在など、影も形も見当たらなかった。 ―― 真相は全て闇の中、残るは耳に心地良い嘘ばかり、ってね ―― だが。むやみに真実を公に晒して、生き残った人々を――特に、あの女性が執着し続けた男性の遺族を、無意味に傷付ける必要は無いとも思う。 彼女も、もうこの世には居ないのだ。華やかな栄光の思い出と、激しい愛憎を道連れにして、彼岸へと旅立っていったのだから。 いまいち曖昧な知識だが、仏門には確か、恩讐平等という言葉がある。生前の怨恨も愛憎苦楽も何もかも、死んだ後は全て無に還るのだと。どんな善人や悪人も、死は平等にやってくる。 そして死者たちの命は、思い出は生者に受け継がれ、世は全て事もなく回り続ける。非情な程に淡々と。 「………………」 は黙って、事件解決の報奨金を受け取った。 そうして、更に十数日後。戦いの傷も大体癒えた頃を見計らって、はこの地を発つ事にした。 さて次は何処に行こうか。新しく仕入れ直した地図を広げながら、あれこれと思案を巡らせる。東か西か南か北か。そういえば、同士討ちを繰り広げながら西へ向かっているという、妖怪四人組の噂もあったっけ。真偽の程はさて置いて、一度行ってみるのも悪くない。何も無いならそれで結構、騒動が持ち上がっているなら自分の出番である。 元々、特に当てのある旅でもなし、悲しいかな、昨今の物騒な世情故に、些か時代遅れの感のある侠客稼業でも、人々に強く求められる。「妖怪を退治してくれ」と。 かつて人間と妖怪が共存を果たしていたのが嘘のように、桃源郷全体に、混乱と恐怖と憎悪が蔓延している。何故こうなったのかに判る訳は無いが、出来れば早く収まって欲しいものだと心から思う。 ただでさえ、この世には悲しみや痛みが沢山有るのだから。 『――血塗れのその姿こそが、貴女自身の本性でしょう――』 不意に、あの似非易者の言葉が思い出されて、はぶるっと身震いした。 そう云えば、彼はあの後何処に行ったのだろう。彼の本当の目的とは。本命がどうとか言っていたが……あんな変人、いや妖怪に付け狙われる想い人殿には、心から同情する。もっとも、にとっては全くの他人事だが。 彼が戦いの途中で語った、「実の姉を愛し、妖怪を千人殺して自らも妖怪になった男」の行く末も、最後まで聞けずに終わってしまった。その男がその後どうなったのか、今でも生きているのかそれとも死んだのか、にはもう、知る術も無い。 『貴女にとっても、他人事じゃない筈ですけどねぇ――』 耳の底に残るその台詞を追い払いたくて、は軽く首を横に振った。 心の闇は、誰の内にも潜んでいる。小さな子供から年寄りに至るまで。欲望に憎悪に憤怒に怨恨、挙げればキリが無い程に。それは自身も例外ではないと、今回の件で、嫌という程思い知らされた。 一体誰が、あの女性を笑えるだろう。千人の妖怪を殺し、自らも妖怪になったという男の事も。愛故に狂った者たちの事を、安全圏から非難するのは容易い。が、本当は誰もが、同じ危うさを孕んでいる。そして、そんな昏い心の隙間こそが、あの男、清一色の格好の獲物となるのだ。 そう考えればやはり、あの男を最後まで倒せなかったのが悔しい。が、同時に、倒せなくて当然だと納得もする。あんな姦計に惑わされるなんて、自分もまだまだ弱いという証拠だ。 けれど。 『……もし、お前に少しでも意地が残ってるんなら、生き延びてそれを見届けてみるんだな』 言った本人が覚えているかどうか、果てしなく謎だが―― 何処ぞの金髪破戒坊主に軽蔑されるのだけは、死んでも御免こうむりたい。 そんなことを思いながらが街を歩いていると、目の前を、小さな子供たちが笑いながら横切っていった。 抜けるような青空はどこまでも広く大きく、砂埃の混じった黄色い風の吹く中を、人々が、慌ただしく動き回っている。 壊れた店や家屋を建て直す槌音、露天から上がる威勢のいい呼び込みの声、日常雑多な話題を肴に、楽しげに談笑する人の姿。全て元通りとまではいかなくても、日常という名の平穏な風景が、確かにそこに戻って来ている。 それを見て、は少しだけ、気分が軽くなった。 そうして旅立った後に、街が、人々がどうなったのか。の耳に入ることはもう二度と無かった。 あの易者の姿をした敵のことも、何も。 『首尾よくあの人を我のモノにした後に、貴女も――』 最後に言われた彼の言葉が、いつまでも、頭の片隅に引っ掛かってはいたけれど。 その後、は別の土地で、予期せぬ人物との再会を果たしたのだが。 それはまた、別の話である。 |