CINNABAR

― 1 ―



「あーあ。平和だねぇ」

悟浄は手の中でハイライトの空き箱を握りつぶした。ふっと吐いた煙草の煙が、風になびく赤い髪をよぎり、背後へと流れていく。
静かな森の道だった。
昼なお暗い深い森の中には、いつ途切れてもおかしくないような細い道が一本通っているだけだ。時おりそこを横切るものは獣だけ。木漏れ日のおどる緑の中にエンジン音を響かせて、三蔵一行を乗せたジープは走っていた。
前の街を出てから、自分達以外の人間の姿はもう何日も見ていない。だが淋しいとか、人恋しいとかいうような感傷を持つような奴は、このジープには乗っていない。
それよりももっと切実な問題を一同は抱えていた。

「なぁーハラ減ったー。まだ着かねえの、次の村」
「うーん。地図によるとそろそろなんですがね」
「ちっとは黙ってられねえのか、このバカ猿は」
「猿って言うなっ、赤エロ河童」
「んだとぉ……」

助手席から撃鉄が起きる鈍い音と共に、低い声が威嚇する。

「二度と腹が減らないようにしてやろうか」
「遠慮しときます」

後部座席が静かになり、暴れん坊4人組を乗せたジープは細い道をもくもくと走りつづけた。西へ向かう旅の途中、食料や水も乏しくなってきている。そろそろ補給しなければならないのだが、次の村になかなか辿り着けないでいる三蔵一行であった。

「あーあ……ハラ……あれ? 」

ジープのドアにもたれていた悟空が、ぱちりと目を開いた。

「なんか、うまそうな匂いがする」
「おいおい。こんな森の中でか? ハラ減りすぎて頭に来ちゃったんじゃないの、お猿さんはよ」
「猿っていうなって言ってるだろ。八戒、ジープ止めてくれよ」
「悟空?」

八戒がブレーキを踏むの待ちきれず、悟空はジープの外に飛び出した。小さな背中があっという間に木々の間に埋もれていく。

「悟空っ! 」
「ち、あの猿がっ」

悟浄は悟空の後を追って、急停車したジープから飛び出した。

「僕らここで待ってますからねー」

八戒の声を背中で聞いて、悟浄は木々の間を駆け抜けていった。

「ハラ減り猿が。速すぎんだよ、足が」

文句を言いながら悟空を追う悟浄の視界がふいに開けた。気がつく、鬱蒼と繁る森の中、そこだけぽっかりと開いた広場に悟浄は出ていた。さっと辺りを見まわすと、その広場は綺麗に草が刈り取られ、最近人の手が入っていると分かる。
中央には古びた祠がひとつ。そこには色あせた幟が立てられ、果物や蒸し団子、酒などが供えられている。そしてそのまん中には、供え物にかぶりついている悟空の姿。

「拾って喰ってんじゃねぇっ! 」

悟浄が襟首をつかんで引きはがそうとしても、悟空は肉まんから手を離さない。

「なんだよー、いいんじゃんか。こんなにいっぱい置いてあるんだから」
「馬鹿野郎、こりゃ供え物だ。供えた奴らにバレてみろ」
「供え物?」
「いいからジープに戻るぞ」

悟浄は悟空をひきずると、急いで来た方向に戻ろうとした。が、丁度そのとき広場の反対方向から、手に手に酒や食べ物を持った数人の男達が現れた。

「お前ら何をやってる! 」
「可陀様のお供えを喰ったなっ」
「あーあ、バレちまったよ」

なにせ両手に肉まんを握りしめた悟空がいるのだ。言い訳のしようがない。

「すんませんねー。この猿がどーしても聞かないもんで」
「猿っていうな」
「お前は黙ってろ」

悟空の口をふさぎながらその場をずらかろうとした悟浄を、男達が取り囲む。どの男もくすんだ顔色と、幾夜も眠れない夜を過ごしたような、血走った目をしている。

「見たことのない顔だな」
「まさかあいつらの? 」

男達がまとっていた荒んだ空気が殺気に変る。

「なん……だ? こいつら」

戸惑う悟浄と悟空。それを取り囲む男達の輪が、じりじりと狭まっていく。

「あいつらの仲間ならまずいんじゃないのか」
「いや、二人だけなら俺たちでも……」
「そうだ。あの化物がいなけりゃ……」

男達は地面から棒や石を拾い上げて、手に手に握りしめた。その目には追い詰められた者の表情が浮かぶ。

「悟浄、なんかヘンだよ。こいつら」
「ちっ」

悟浄と悟空は背中を合わせて身構えた。悟空の手には如意棒が、悟浄の手には月牙産が握られる。じりじりと二人と男達の距離が縮まっていく。
まさに一触即発のその瞬間、のん気な声が両者の間に入り込んだ。

「待ってくださいな」

よく通る女の声だった。
一同の視線が声の主に集まる。いつの間に現れたのだろうか、古びた祠の傍らに、一人の女性と老人が立っていた。
女性の方は、年のころは26.7位だろうか。女性にしてはやや背が高い。が、ふっくらとした体つきが全体の印象を柔らかくしている。緩やかに波うつ赤みのかった金髪を、こめかみのあたりから伸びる黒い編み紐でまとめている。
老人の方は、その髪と髭の白さから、もう80歳は越えているだろう。日に焼けた肌と刻まれた深い皺が、重ねて来た年の厳しさを物語っているようだ。しかし真っ直ぐに伸ばした背筋と、鋭い眼差しにはまだ力を残している。
金髪の女性はにこにこと笑いながら、殺気立つ男たちに向かって言った。

「大丈夫ですよ。その人たち、見た目ほど怪しい人じゃありませンから」
「お知り合いかの、どの」
「ええ、村長様」

と呼ばれた女性は、背後に立つ老人にそう頷きかけた。髪飾りにつけた鈴が、ちりりと涼しい音を立てる。

「私の知り合いです」
「分かり申した。皆、引くのじゃ」

村長の静かな言葉には、有無を言わせない力強さがあった。殺気立って悟浄たちを取り囲んでいた男達は、振り上げた腕を下ろすと、しぶしぶながらも引き上げていった。

「では、明日の夜な。どの」
「はい」

男達と共に立ち去る村長を一礼して見送ると、はゆっくりと悟浄たちに歩み寄った。

「お久しぶりね悟浄。なにやってるの? こンなところで」
「えーっと、おねーさん? 」

― 誰だっけ −
『憶えてない』とは口が裂けても言えない。悟浄は月牙産を肩に担ぐと、自分の赤い髪を掻きながら記憶をたどった。
ふわりとした白い薄物をまとったこのと名乗る女性は、堅気の女には見えない。
ましてこの辺りの村娘ではないだろう。やけに親しげに自分の名を呼ぶこの女性は……。

「忘れちゃった? 」

の青灰色の瞳が懐かしげに悟浄を見上げる。ぽってりとした唇がかすかに開くと、花に似た甘い香りが流れでた。
―  !? −
その香りが悟浄に一夜の夢を思い出させた。

……あの? 」
「思い出してくれた? 」

名を呼ばれて、の顔が嬉しそうにほころぶ。

「おうよ。こんなところに居るとは思わなくて、分かんなかったぜ」

懐かしそうに話す二人を、悟空が怪訝そうな目で見る。

「なあ悟浄、この人知り合いか?」
「ま、な」

は悟空に視線を移して微笑んだ。

「始めまして、私はっていうの。あなたは?」
「俺は悟空」
「そう。悟浄と悟空……」

は二人をしげしげと見比べると、納得したように頷いた。

「可愛い弟さんね、似てないけど……」

一瞬の沈黙の後

「ちがうーーーっ!!」
「勘弁してくれよっ」

広場から青空に向かって、二つの絶叫が響いた。




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