― 10 ―
「おー。相変わらずでけぇ門」 悟浄は何日ぶりかで芙蓉楼を訪れた。を連れて走り回った、あの夜以来だ。 ここ数日賭場に通って、やっと芙蓉楼で遊べるだけの資金が溜まったのだ。の情人扱いも悪くなかったが、あんな騒ぎが起きた後ではそういう訳にもいかないだろう。 勝手知ったるなんとかで、ずかずかと店の奥に入り込む。そろそろ夕暮れ時、客が入り始める時間だ。店の中はその準備の真っ最中だった。 「寧々ちゃん、は今夜あいてる?」 「あの、姐さんは…」 ご機嫌で声をかけた悟浄に、寧々は戸惑いの表情を浮かべる。 そうとは気づかず、悟浄はの部屋の扉を開けた。 「よ、…?」 部屋の中はからっぽだった。別の部屋と間違えたのかと、廊下に出て見るが、やはりここに間違いない。 「な…んだよ。こりゃ」 悟浄は部屋に入って周りを見回した。部屋に溢れていた服や花はもちろん、ベッドやテーブルも何もない。ただ床に空の水槽が転がっているだけだった。 「なら出ていったよ」 いつの間にか部屋の戸口に立っていた女将が不機嫌な顔で言う。 「出てったって…誰かに身請けされたのか」 「違うよ、あの娘は引越しだとか言ってたけどね」 「引越しぃ?」 遊郭に身を置く妓女たちは、大抵は契約と借金でがんじがらめに縛られている。そこから出られるのは、年季が明けた時か、自分で稼いで借金を払い終えた時。それからどこかの金持ちに身請けされた時だ。 「借金を払い終わったってことかよ」 「あの娘に借金なんか無かったよ」 戸惑う悟浄に女将はつけつけと言う。 「はね、あの娘を身ごもってた母親ごと、ここに売られてきたのさ。不義を疑った父親にね。借金があったのは母親の方さね」 「……」 「母親が死んじまって、その借金もとっくに返し終わってたくせに『めんどくさい』とか言って出て行こうともしないで、好き勝手してたよ……あの娘は」 怒ったような口ぶりとは別に、楊の目には光るものがあった。 「ここしか知らずに育った子が、どこへ行ったんだか。あんた何か聞いてないのかい?」 「いや、別に」 首をふる悟浄に、女将はため息をついた。 「情けないねえ、あの娘が自分の部屋に泊めたのは、あんたが最初で最後だったってのに……」 ―え…― まだ事情がのみこめずにいる悟浄を、楊は追い立てた。 「さぁさぁ、もう帰っとくれ。ウチは忙しいんだよ」 「待てよ、おい。連絡とか取れねえのかよ」 「知らないね、そんなことは」 情け容赦もなく、悟浄は店の外に放り出された。 「行っちまった、のか」 芙蓉楼の豪奢な店構えを見上げながら一人つぶやく。 なにか約束したわけでもない。 なんの義理もない。 だからは何も言わず独りで行ったのだろう。 それだけの仲だった、というわけだ。 悟浄はぽりぽりと頭をかくと、上着のポケットから煙草を取り出して火を点けた。吐きだした煙の流れる先を、ぼんやりと目で追う。 「ち…」 どこかのいけ好かない金持ちに無理矢理身請けされたわけでもない。自分で決めて出て行ったなら、自分の好きなように生きているだろう。 ただ… 「美人にフラれるのは……三度目かよ」 いつの間にか日は落ち、通りに並ぶ遊郭には、誘うような明かりが点り始めた。気の早い客がそぞろ歩きをしながら、一夜の相手を探している。 「さて、どうすっかな」 悟浄は吸い終えた煙草を道に投げると、足でもみ消した。 今夜の花代にするつもりだった金がポケットに重い。ぱぁーっと使ってしまうか、それとも。 ―生臭ボーズの顔でもおがみに行くか― そうすると当然、腹減り小猿とも顔を合わせることになる。この時間ならまだ市場も開いているし、屋台も出ている。たまには子猿に思う存分食わせてみるか。保護者の嫌そーな顔を見ながら、一杯やるのも悪くない。 そう決めると、悟浄は煙草を咥えてぶらぶらと歩き始めた。 地上の明かりを映すように、夜空には星が瞬き始める。 長安は明日も晴天だろう。 なにごともなく。 |