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昼下がりの花街は、白々とした光に包まれて微睡んでいた。夜の華やかさはそれこそ夢のよう。明るい昼の光に照らされれば、行く宛てのない文無しや、捨てられたガラクタばかりが目に付く。
妓女達は夕べの衣装を脱ぎ捨てて、思い思いに自室で過ごしていた。「あなただけ」夜の闇に包まれてそう誓った相手も自分も、それはその場限りのことと承知している。だが下らないと嘲笑いながらも、心のどこかでは淡い期待を抱いて、真昼の夢を見ているのだろう。
街も店も人もまだ物憂い眠りの中にある時刻。白濁した空気に、清冽な白が射しこんだ。

「あの、店はまだやっていないんですが」
「構わん。俺は客じゃねぇ」

芙蓉楼の門をむりやり通る一人の僧。
遊郭に遊びにくる僧、というのはよくいる。だがそれは夜の闇に紛れてのことだ。ここまで白昼堂々と、というのは珍しい。ましてそれが三蔵法師となれば、店の方は大慌てだ。

「お待ちください、三蔵様」
「なにか手前どもにご用でも」

うろたえる店の者を尻目に、三蔵はずかずかと店の奥に入っていった。まるで誰かから聞いていたように階段を登り、複雑な造りの楼閣の中をまっすぐ奥へと進む。
やがて一つの部屋の前で足を止めると、三蔵は苛だたしげに扉を叩いた。

「だぁれ?」

部屋の中から眠たそうな声が返る。

「玄奘三蔵だ」
「………どうぞ」

三蔵が扉を開けて中に入ると、そこには一人の妓女がいた。爪弾いていた胡弓に似た楽器を横におき、こちらを見ている。

と言うのはお前か」
「そう、だけど」

はいぶかしげに三蔵を見た。こんな昼間から、坊主が部屋に乗り込んでくる理由というのが、彼女には思いつかない。

「何かご用?」
「用があるのは俺じゃねぇ」

そう言う三蔵のこめかみには、クソ面白くもねぇと言いたげな青筋が浮かんでいる。
三蔵は部屋の扉を閉めもしないで、散らかった部屋をつかつかと横切って鏡台の前に立った。そこに置かれていた写真立てに、ちらりと目をやる。

「ふん」

写真立てをぱたりと伏せると、三蔵は床に坐を組んだ。袂から金冠を取り出して頭に戴せ、両の掌を合わせて背筋を伸ばす。
そして三蔵は静かに目を閉じた。

「あ、あの? 三蔵様?」

訳がわからないはそのままに、読経が始まった。
白昼の遊郭に、朗々と経を読む声が響き渡る。

「なんだよ、お経かぁ?」
「よしとくれ、縁起でも…」

経を耳にした店の者から、ぶつぶつと文句があがる。だがそれは途中で消えた。帳簿つけや洗濯をしていた手を止めて、静かに耳を傾けていく。
ここで働くものは無学なものが殆どだ。経を聞く事など誰かの葬式の時ぐらいしかない。それも高い御布施と引き換えに。
こ難しい言葉の意味や、ありがたい教えなどは分からない。聞いたところで一文にもならないし、腹がふくれるわけでもない。
明日の幸せよりも、今日の食いぶち。皆それが当たり前の世界で生きている。
それでも知らず知らずの内に目を閉じ、耳を澄まさずにはいられなかった。
の部屋からは、淀みもなく経が流れつづける。滔々と響くそれは経を読んでいるというよりも、まるで歌っているようだ。
三蔵の腹の奥から発せられる声は、紙に書かれた経文の文字一つ一つに意味と力を与えて、喉から溢れ空気を震わせる。そして聴く者の心の糸をも。
いつしかも目を閉じて、じっと聞き入っていた。
遊郭によく来る坊主達が、何かと言えば口にする、仏の優しさだとか慈悲だとか、そんなものは感じられない。
これが正しいのだと道を説くことも、哀れみの手を差し伸べることもしない。
ただ聴いていると、迷いは迷いのまま在りとして、その中に確かにある己自身の答えが照らし出されていく。そんな気がした。
やがて残照のような余韻を残して読経は終わり、三蔵は立ち上がった。

「ありがとうございます。三蔵法師様」

は深く頭を垂れた。

「礼なら奴に言うんだな」
「奴?」

は首をかしげた。三蔵法師との共通の知り合いなど、心当たりがない。

「てめぇの始末もつけられねぇ癖に厄介ごとを拾ってくる、赤い髪のウゼェ奴に、だ」

いまいましげにそう言うと、三蔵は金冠を袂にしまい部屋から出て行った。

、どうしたんだい。なんで三蔵法師様がお前に…」

入れ違いに部屋に転がり込んできた楊は、ぽかんと口を開けてその場に立ち尽くした。

「あ・は・は・はははっ」

が笑っていた。
笑いながら泣いていた。

「赤い髪って…まさか本当に?」
?」

楊の声も耳に入らないように、は泣き笑いをやめない。青灰色の瞳から溢れ出した涙は拭われることもなく頬をつたい、ちょうど下にあった金魚の水槽にこぼれ落ちた。
小さな水槽の中では突然の雨に、緋色の金魚が丸い口をあけ、ぽかりと泡を吐き出す。

「馬鹿なんだから…」

窓から差し込む陽光が、部屋の中を照らし出す。無造作に放り出されている衣装。装身具がこぼれ出している宝石箱。リボンをかけたままの花束や、包まれたままのプレゼント。
豪奢で華やかな部屋の中、は泣きながら笑いつづけていた。

「ありがとう……悟浄」








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Material from 'Blue Moon'