この草子、枕にこそは〜 春 〜春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。 早朝といえども天界の風はいつも暖かい。 その風を頬に受けて、しみじみと天蓬はつぶやいた。 「ああ、いい風ですねぇ」 いつもは一人言でおわるその台詞に、今朝は返答があった。 「たまには早起きもよろしいでしょう?」 鈴のような女性の声である。返事があるだけでなく、その相手が女性だなどということは、この部屋では稀有のことだった。 「こーゆーのは『徹夜明け』って言うんじゃないですか?」 「私は先ほど、半時ばかり眠りましたから」 互いの間を"にっこり”という文字が往復する。 「大体、この部屋で夜を明かした女性なんて貴女が初めてですよ、。大抵のご婦人は、僕の部屋のこの現状には耐えられないそうですから」 「あら、私にとっては宝の山ですわ。目を通していない書物が、まだこんなにあるなんて」 宮中のの私室も、ここに劣らず本で埋まっているらしい。女官には珍しく、衣装や装身具にはあまり興味が無いそうだ。 「ほとんどが戦記や歴史書ばかりですけどね。それをこんなに貴女が喜ぶとは思いませんでしたよ」 「私の部屋には無いものばかりですから。やっぱり1人で集めると、種類がかたよりますわね」 書架の内容を問われると、「こことちがって、絵空事の書物ばかりですのよ……」と、彼女は恥ずかしそうに笑った。 「……噂に名高い天蓬元帥の蒐集物は、ぜひ一度拝見したかったんですの。突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」 「いえいえ。でも、女官の貴女がこんな部屋に1人で出入りしていると、マズくないですか?」 「ご心配なく。私も貴方と同じく変わり者で通っておりますから、みな、納得していることでしょう」 微笑むと、は再びページを捲り始めた。 天蓬は、再び窓の外を見る。 うららかな風が、天界でもこの季節だけに咲く花の花びらを散らし、池の水面に雪のように降り積もらせていく。下界もこの時期は、ここに劣らず花々で埋まっていることだろう。 「『水を渡り また水を渡り 花を看 また花を看る』……」 「高啓……でしたわね」 字を追いながら顔も上げずに、それでも、は聞いていたらしい。 天蓬は窓から離れて、彼女の座るソファに片手をつき、言った。 「でも、ここの隠者は不品行なものですから、男の喜ぶような書物もよく蔵しているのですよ。読んでしまってもお怒りになりませんか?」 眼鏡の奥の、普段はにこにこと細められている目が、からかう様に妖しく笑んでいる。負けじとばかりに、も妖艶に微笑んで、淡い茶色の瞳を見返した。 「お心遣いはうれしいですけれど、私の蔵書にもありますわ。ご心配なく」 「ならば………」 見つめる瞳がするりと横に逸れ、耳元で囁く声は、意外に、深い。 「………今度は、貴女の部屋を訪問しても、よろしいですか?」 開いたままの本を挟んで、彼女も、白衣の肩にそっと手をかけた。 「喜んで。どうぞ花の散らぬうちに、いらしてくださいな………」 更に、言葉を紡ごうとした2人の耳に、バタン、と、ドアの開かれる音が響き、次の瞬間には、金晴眼の子供がソファに飛び乗ってきた。 「あ。いたいた、―――。今日はどんな本もってきてくれたんだ?」 「………あ、ああ、悟空。こないだの本は、おもしろかったかしら?」 「うん! 天ちゃんの本もおもしろいけど、の貸してくれるのも、絵がきれいですきだな!」 ソファに座り込んだ悟空と、読み聞かせをするを眺めると、天蓬は苦笑して、自分も読みかけの本を開いた。 山の端から、やっと差し込みだした朝日が、室内を明るく照らしていった。
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