羽化而登仙
prologue ―― 黎明
まんじりと、眠れぬ夜が明けようかという頃、はほとほとと扉を叩く音に、身を起こした。
横にはなってみてはいたのだが、眠れるとは毛頭思っていなかった。
泣いてなどいなかったはずなのに、瞼が重い。いっそ、思う様涙を流せれば、少しは楽だったかもしれないと、彼女は、急いで身を整えながら考えた。
私室の戸を開けると、見知った同僚の女官が気遣わしげにそっと入ってきた。
「殿。今日のお勤めはお休みなされませ」
「何を仰いますの?。理由もなく怠れば、皆様にご迷惑がかかります」
「いいえ、上の方からも仰せつかっております。本日は出仕を免ずると」
は唇をかんだ。確かに今この状況で、自分が登城すれば騒ぎになりかねない。彼女や天蓬に好意的だった者にも、若しくはそうでない者にも、いらぬ行動の切欠になってしまう。
いっそ、あの時間に自分も西南の棟に居たならば……と思いかけて、彼女は慌てて首を振った。後悔をして時間が戻るなら、昨夜のうちに千度はやっている。もう起こりえない仮定に拘泥するのは、詮無い事だ。
「お気使いいただいて有り難い事ですけど、私は大丈夫です。ですから……」
言い募ろうとするを制して、同僚は声をひそめた。
「ここに来るまでに廊下の端々で、不審な影を見かけました。貴女の御身の為です」
愚かな輩も居るものだ。説得に利用するか、まさか逆人質の価値でもあると思ったか。は、きっ、と顔を上げた。
「ならばなおの事、私は参ります」
負けるものですか……と、彼女は胸の中で呟き、同僚の制止も省みず身支度をし、扉を開いて進み出た。
廊下に出るなり、軍服姿の男が数人、わらわらとを取り囲んだ。
隊長格らしい大柄な男が、彼女の前に立つ。威圧的に見下ろす視線が、不快だった。
「殿。早朝申し訳ないが、我々とご同道願いたい」
「私はこれから出仕するところです。しかるべき筋からお話を通していただければ、何処へなりとも参りましょう」
淀みない物言いに対して、後ろの部下が大声で吠え立てた。
「言い訳をするな!。謀反人の天蓬と共謀して何をしでかすか判らん女に対して、筋など通している暇があるか!」
彼女は怯みもせず、言い返した。
「御深慮に水を注すのは申し訳ない事ながら、元帥閣下からは昨日から全くご連絡はございません。更に遡っても、今回の件に関してお話を伺うようなことは、一度たりともありませんでしたわ」
「ふん。ならばお前は捨てられた訳だ。稀代の才媛も天蓬にとっては唯の愛人か」
はゆっくりと、正面から相手に向き直り、力を込めて見据えた。事が起こってから、天蓬は自分に一切連絡を遣さなかった。他人が何と言おうと、どう思おうと、それは彼女の誇りであり、救いだった。
「正道を掲げる御方々が、旗色も表しておらぬ者に対してなさる言動とは思われませぬ!。事と次第によってはそれなりの所に訴え出る事も有り得まするが、如何!?」
たかが女官風情と侮っていたのであろう。気圧されて部下は押し黙り、青筋を立てながら引き下がった。
硬い沈黙が降りた廊下の向こうから、突然、けらけらと高く笑う声が響いた。
「ほお。こっちの喧嘩も、結構面白そうじゃねぇか」
声の主の正体に気付き、男達が慌てふためいて壁際に道をあけた。花道のように開いた廊下の中央を、観世音菩薩が悠然と歩み寄ってくる。
は、昂然と振り上げていた顎を引き、慎ましやかに膝を折り、頭を垂れた。
「これはこれは観世音菩薩様。御迎えまで頂戴しておきながら、遅参致します御無礼、申し開きのしようもございませぬ」
殊更に声が大きくなってしまった辺り、自分もまだ未熟だ……と、彼女は顔を伏せたままひっそり笑った。
「更にはご覧のような我が身の不始末。謂れ無き事と言えども、観世音菩薩様の御宸襟(ごしんきん)をお騒がせ致しました咎については、どのようにお叱りを受けても異存はございません」
観世音菩薩は、詫びを聞くようには見えぬほど楽しそうに部下の言上を聞き終えた。そして、腕を組んでにやりと笑うとそっけなく言った。
「お前が自分の仕事をしないと、ただでさえ過労気味の二郎神の胃に穴が開いちまう。遅刻の罰は後で考えるから、とにかく出勤しろ」
言うなり、踵を返して、自分の館の方へ歩き出す。も立ち上がると、周囲に恭しく礼をして、後に続いた。
呆気にとられていた男達は、位の低いものから手を上げて制止しようとし、そして上司に慌てて留められた。天界の重鎮の一人、観世音菩薩の命令と矛盾する行為など、部下がとった行動と言っても自分の首が飛びかねない。
あたふたと混乱する男たちを尻目に、彼女らは天宮の廊下を、胸を張って闊歩した。
観世音菩薩は顔を転じぬまま、相手にだけ聞こえる声で呟いた。
「止めも救いもしねぇぞ、俺は。相手がお前でも」
「光栄にございますわ」
数多の視線と囁き声の中を切り開くように、は、胸を張り、裾を翻して歩き続けた。
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