1 ―― 五衰




「あの日」から、数ヶ月がすぎた。
は、観世音菩薩の執務室にて、上申を願い出た。



「お暇を頂きに上がりました」

用件を述べると、やっと、彼女はじろりとこちらに視線を向けた。いつものような、ふてぶてしいまでの余裕が、今は、感じられない。
(やはり、ご機嫌は悪そうね……)と、まるで人事のようには考え、うっすらと笑った。

「何か、可笑しいか?」
「いえ、別に。……失礼仕りました」
「奴らの一件なら、お前は公式には咎められないはずだぞ。天蓬とは、正式に婚姻していた訳じゃあるまい」

ま、公然の仲だったがな。と、初めて、観世音菩薩はにやりと笑った。

「いいえ、私に公にお咎めがあった訳ではありませんわ」

は微笑んだ。公でない扱いの変わりようなら幾らでも。でも、そんな事はもう、どうでもいい。

「私に、五衰の兆候がございます。近々、観世音菩薩様の下でお役目を果たす事、叶わなくなりましょう」

観世音菩薩は、眉1つ動かさぬ。傍らに立つ次郎神の方が、息をのんだ。

「ご迷惑をおかけする前に、後任の者をお決めくださるよう、お願いに参りました。どうか……」

は頭を下げた。きっちりと結い上げた髪に刺した簪が、小さく、ちりりと鳴った。

「……どうか、お許しくださいませ……」

観世音菩薩は、目の前の部下を睨み据えた。

「五衰の始めは『身体臭穢』だ。お前ぇ、とてもそうは見えないぜ」
「己が体の事ですもの、自分に判れば充分です。傍目にも見苦しくなってしまう前に、身を隠したく思っております故、今日、まかりこしました次第です」

お互い、何かと型破りな部下と上司の間を、探るような視線が行き交った。
上司の方が、もう1度目を眇めて問い質す。

「仮病じゃねぇだろうな」

は声を上げて笑った。

「こんな事に偽りを申し上げて、何の得がありましょう」
「違いねぇがなぁ。それにしても……」

観音は、傍らの蓮の花を1つ、無造作に手折って言った。

「天上人であろうと、自分の寿命を知ると動揺するもんだ。お前にはそんな様子が少しも無ぇ」

穏やかに微笑むだけの部下を見下ろし、観世音菩薩はゆっくりと頭を振った。そして、まるで暫しの休暇を許可するかのように、あっさりと言った。

「では、。一両日中に、お前の職務を解く。明日には後任の者を配属するので、引継ぎと身辺整理をしておけ」

静かに頭を下げたに、観世音菩薩は更に宣言した。

「但し、役目途中で職を退く事については、処分を受けてもらう」
「菩薩!……」

たまらず口をはさもうとする二郎神を制して、観音は続けた。

「謹慎だ。その身柄は俺が預かる。辺境近くに、俺の別宅がある。仕事が片付いたら、身の回りの物だけを持って、すぐに行け」

そう言うと、観世音菩薩は、すっと立ち上がった。
思いがけぬ言葉に、動けぬままのの耳に、通り過ぎる上司の声が、小さく聞こえた。

「ご苦労だった。ゆっくり休め」

は、目を閉じて、ゆっくりと、崩れるように平伏した。
背後で、二郎神が、静かに扉を閉める音がした。






涙など、もう二度と流さないと思っていたのに。
小さな雫が、目の前の床に、1つぶだけ、滴り落ちた。







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Material from "妙の宴"