木製のカウンターの向こうには、彼、猪八戒の姿が在る。
流れるようなその所作を、一切の無駄のない手さばきを、その穏やかな笑顔を見るのが、私は本当に大好きだった。







Recollection of the perfume.


― 前編 ―







「いらっしゃい、さん。今日はもう、お仕事は終わりなんですか?」

私がカウンターの右から二番目の席、いつもの定位置に座るや否や、八戒が、中から声を掛けてきた。
白いぱりっとしたドレスシャツに、黒のベストとギャリソンエプロンが、今夜もきっちり決まっている。綺麗な瞳の色に合わせた翠のリボンタイと、いつもかけているモノクルが、彼をちょっとした洒落者に仕立て上げていた。
「うん、めいっぱいお腹空いちゃった」今日のお勧めは何? と私が問うと、彼は小さく苦笑しながら、今日のメニューを差し出してくれた。
厚手の紙に書かれたお品書きの文字が、いつになく端正で几帳面な雰囲気だ。ということは、今日は店長ではなく、彼が書いたんだろうか。私が訊こうとするよりも先に、彼は「今日は香草の良い物が手に入ったんですよ」とさらりと言う。このレシピは僕のオリジナルなんですよ、と、笑って言ったその顔は、ちょっと得意げな感じであった。
時は既に宵を過ぎ、いよいよ夜も更けてきた。西洋風のオールドバーを気取ったこの店の中には、相変わらず、常連客の見慣れた顔があちこちに在る。
さして広くない店内の、約三分の二を占めるテーブル席の方では、今日もカードゲームに一喜一憂する連中の賑わいがある。そちらの面子も、半分以上が知った顔だ。明るめのシェードランプの下、余裕の笑みでカードを広げている紅い髪の彼が、私の存在に気付いて軽く片目をつぶって見せた。
「悟浄は今日も調子良いようですね」八戒が、私にエールのグラスを差し出しながら、小さく笑う。その真意はすぐに分かったので、私も、同じように笑って彼に同意した。
そして私はまた、厨房とカウンターを行き来する八戒と、悠然とグラスを磨いたり、客の注文に応じてシェイカーを振ったりしている店長とを交互に捕まえては、いろんな事を喋りまくる。二人とも嫌な顔をしないのを良い事に、職場での出来事、師匠の愚痴、うちの勤め先でよく売れる品物の話題など、いつもいつも、気が済むまでこうして話しているのだ。
そうしているうちに、八戒が「冷めないうちに召し上がってくださいね」と、香草チキンのグリルソテーの皿を持ってきた。美味しそうな匂いと、ほかほかと立つ湯気とが、私のすきっ腹を刺激する。
良かった、今日は苦手なピーマンが入ってない。密かに安堵しながら、ちらりと八戒の顔を伺うと、彼はにっこりと微笑みを浮かべていた。
この笑顔が恐ろしく見える時。それは、彼の勧めてきた料理の中に、私の嫌いな物が入っている時だ。
「好き嫌いはいけませんよ。食事はバランス良く摂らないと」有無を言わさぬその笑みにどうしても逆らえなくて、私はいつも、心の中で泣きながら箸を付けるのだ。けど、今日はどうやら、そんな苦しみには遭わずに済んだらしい。
口にしたチキンソテーはやっぱり美味しくて、つい、口元が緩んでしまう。調子付いて、「八戒って、絶対良いお婿さんになれるわね」と私が言うと、彼は一瞬、困ったような、戸惑うような複雑な笑みを浮かべて、ありがとうございます、と小さく返事をした。横では、店長が水割りを作りながら密かに笑っている。
職場から家に帰る途中の、こんな他愛もないやり取りと美味しいご飯。時間にして数十分程度のこのひとときが、私にとって何よりも貴重で心安らぐものであった。



八戒と私が出会ったのは、ごくごく最近の事である。
これは、後で聞いた話なのだが。彼がこの店で働き始めた理由というのが――何でも、客の入りが少なかったある雨の日に、暇潰しを兼ねて、店長と悟浄とでカード勝負をした事に始まるらしい。
使うのはトランプの53枚、ゲームは一回きり。もし悟浄が勝てば、それまでに溜めていたツケが、全部チャラになるとの事だった。
で、その勝敗の行く末は、

「同居人を無断で賭けの担保にするなんて、完全な人権侵害ですよねぇ」

私が聞いたのは、ここまでである。その後、家でどうなったのかが知りたくて、悟浄にも話を訊いてみたのだが、彼はただただ首を横に振るだけだった。
ちゃん。世の中には、知らない方が幸せっつーコトもあんのよ」情けない顔で笑った悟浄の傍で、八戒は、無言でグラスを磨きながら、やっぱりにこにこと笑っていた。私はそれ以上何も訊く事が出来ず、結局、真相は未だに謎のままである。
でも。たった一ヶ月間だけの短期バイトとは言え、こうして八戒の働く姿を眺め、美味しい手料理を食べられるのだから。八戒本人と、ついでに悟浄も、非常に気の毒ではあるが、私にはとても嬉しい結末である。
その恩恵にあずかるのは私一人だけではない事は、ちょっと、女としては物足りないものもあるのだけど。



「そう云えば、さん。その後、調子はどうですか?」

八戒がそう言って、食後の茉莉花茶を私の前に差し出した。
私が「エールの方がいいな」とねだると、彼は笑いながら、明日もお仕事でしょう? と窘めに掛かる。体を気遣ってくれるのは有り難いけど、この仕事、そんな事で良いんだろうか。ちらりとフロアの方を伺い見ると、店長が微かに肩を竦めていた。
何も見なかった事にして、私は、強引に話の方向を元に戻す。

「うーんと、進み具合は相変わらずかなぁ。
 そこそこの物は出来上がるんだけど、何となく、作りたいイメージとは合わなくて」
「難しいんですね」

心配そうな八戒の眼差しを、私は黙ってグラスに口を付けてやり過ごした。
彼が、とても記憶力の良い人である事に気付くのに、三日もかからなかったような気がする。私が駆け出しの調香師であること。まだ独立するまでに至ってなくて、師匠の店で働きながら修行を積んでること。実家の父にあまり良く思われてなくて、未だに帰って来いと手紙が来る事等。食事の合間にちょっと話しただけのことを、彼は、全部しっかりと憶えていた。勿論、私の食べ物の好き嫌いや、好むお酒やお茶の種類も、全部。
私が今、オリジナルの香水を作ろうとしている事は、一体いつ話したんだっけ。私自身も忘れているのに、よく憶えていたものだ。

「師匠に言われちゃったわ。
 まず作りたいイメージをはっきり思い描け。やみくもに香料を合わせても、鼻が狂うだけだって」
「厳しいお師匠様ですね」
「そうなのよ。すっごい頑固親父でね、弟子をビシバシしごくのが生き甲斐なのよ。
 でも――」

私はそこで一旦言葉を切って、再び、グラスに口を付けた。
そして。師匠の言葉を反芻しながら、もう一度、八戒にこっそり視線を戻す。私の見ている目の前で、彼は手早くポテトのチップスとナッツを皿に盛り、紙ナプキンを添えて、テーブル席の客の元へと運んで行った。
並ぶ木製のテーブルと、あちこちでくゆる煙草の煙の間をすり抜け、絡んでくる女たちの口説き文句をさらりと笑顔でかわすその姿は、いつ見てもスマートで気持ちが良い。断ってもまだ食い下がっている女たちに、ちょっとだけ嫌な感情を抱きながら、私は、残っていた茉莉花茶を一気に呷った。

誰にも言っていないのだが――私が目指す香りは、彼自身のイメージである。
彼が香水の類を付けないことは、店長や、悟浄から話に聞いて知っている。けれど、どうしても作りたい。彼に、私の作ったオリジナルの香りをまとって貰いたい。
だが、そんな意気込みとは裏腹に、試す調合はいつも、何かが足りなくて決め手に欠けるのだ。優しいイメージ、穏やかなイメージ、ちょっとスパイスを利かせた、洗練された男のイメージ、etc。どれも、何処かで何かが違っている。
笑う顔の優しさと、流れるような立ち振る舞い。さり気なく見せる細やかな心配り。だけど、モノクル越しに見える瞳の翠が、密かにそれらを裏切っている。稀に、ごくごく稀に差し込む翳りのようなものは、一体何だというのだろう。
それが掴めない限り、私はいつまで経っても、目指す香りは完成させられない。根拠は無いが、何となくそんな気がするのだ。

私がグラスを空け、店長に代金を渡すのとほぼ同時に、悟浄がカウンターの方へとやって来た。
「何、ちゃん、もうお帰り?」悟浄寂しーい、と、ふざけ半分に肩に手が回る。と、そこへ、ちょうど八戒が戻って来た。
彼はカウンター内の定位置につき、下げてきた酒瓶を手際よく棚に片付けながら、「無理に引き止めちゃ駄目ですよ」と悟浄を諭す。その笑顔に、悟浄は笑みを引き攣らせながら手を引っ込めた。

「ご馳走様。とっても美味しかったわ、八戒。また明日ね」
「はい。さんも、お仕事、頑張って下さいね」

呼び捨てでも良いって何度も言ってるのに、どうしても、彼の「さん」付けは消えない。
その事実に一抹の寂しさを覚えながら、私は店を出、一人家路に就くのだ。いつもいつも。

八戒がこうしてここの店で働いているのは、あと僅かな間だけ。
その間に、香りは完成するだろうか。そしてそれは、彼に気に入って貰えるだろうか。
日に日に募ってゆく思いと焦りが、私を毎日、調香の作業に駆り立てる。刻々と近付く別れの日もまた、私の焦りに拍車をかけた。
逸る気持ちは時に手元を狂わせ、掴もうとするイメージの輪郭をぼやけさせる。仕事中でも時々失敗をして、その度に、師匠のカミナリが落ちてきた。
それでも、私は諦めなかった。どうしても、彼に私の作った香りを渡したい。その身に、まとって貰いたい。ただその一念だけで、私は毎日毎日、仕事の後に工房の調香室に篭って、カレンダーの日付とも睨めっこしながら、必死に見えないイメージを模索し続けた。



だが、そんな日々は、意外な形で結末を迎えることとなる。

「――ちゃん。そう云えば、聞いたかい?」
「え、何を?」

八戒の勤務期間も、残り一週間を切ったなぁ……と、ぼんやり考えていた日のこと。
いつも通り、カウンターの特等席で食事をしていた私に、店長がこっそり話し掛けてきた。
テーブル席では相変わらず、悟浄を中心とした常連たちが、カードゲームに盛り上がっている。で、八戒本人は、倉庫に酒と食材の補充に行っていて、カウンターの中には居ない。
店長は、奥の勝手口の方と、テーブル席の方を――その視線の先には悟浄の紅い髪と眼があった――ちらちらと伺い見ながら、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、

「あのさ、八戒君なんだけど……明日で、店を辞めちゃうんだよ」
「え!? だってまだ、約束の期日まで一週間近くあるんじゃ――」

驚く私の顔を見て、店長は「やっぱり話してないんだねぇ」とため息をついた。
やっぱり、とはどういう意味だろう。それも少し気にはなったが、それよりも、

「何で八戒が辞めなきゃなんないの? 店長、どうして彼をクビに?」
「おいおい、人聞きの悪いこと言わないでくれよ。僕としては寧ろ、給料の額上げてもいいから、ずっと来て欲しいくらいなんだよ。
 でも、どうしてもの事情があると言ってね――」

店長の話によると。八戒が「辞める」と言い出しただけでなく、悟浄までもが今までのツケを全部清算し、ついでにキープしていたボトルも賭け仲間にあげてしまっているらしい。本人たちは何も言わないが、二人とも、微妙に様子が変であると。
「これ以上、馴染みの顔が減るのは寂しいんだけどねぇ――」言いながら店内を見回す店長の横顔には、寂しさの色がにじんでいる。
そこそこ賑わっていた筈の店は、ここ暫く、やたらと空席が目立つようになっている。八戒目当てで来ていた新しい女性客たちは、その殆どが姿を消していた。噂では、暴れ出した妖怪に殺されてしまったとか、あるいは自分自身が暴走して人を襲ったとか。減る客足と反比例で、世間はどんどんと物騒になっている。
と、そこへ、八戒が酒瓶を抱えて戻って来た。辞めるというのが嘘のような、今までと全く変わりない涼しい顔をして、

「今日の海老と根野菜のラップサンドは、気に入って貰えましたか?」

笑いかけてくれる八戒の顔が、まともに見られない。私は食べながら、黙って首を縦に振った。










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