― 後編 ―



泣きたい気持ちをぐっと抑えて、私はそのまま、閉店の時間まで店に居座った。
最後の客が帰り、看板からも灯りが消える。「こんな遅くまで大丈夫なんですか?」と案ずる八戒に、私は笑って、お茶のお代わりを頼んだ。私のこの行動は、店にとっては迷惑極まりない筈なのだが、店長は黙って好きにさせてくれている。
私がお茶を飲むその横で、八戒はテーブルを順に拭いて周り、備品を整え、明日の開店の準備をしている。
その背中に、私は思い切って、声を掛けた。

「どうして、明日で辞めちゃうの?」

私の言葉に、八戒はふっと拭き掃除の手を止めた。振り返った翠の瞳が、戸惑うように、ためらうように私を見つめる。
「バラしたのは悟浄ですか?」こちらの出方を窺うような問い掛けに、私は無言で首を横に振った。お願い、嘘だと言って。祈るような思いを胸いっぱいに抱えながら。
だけど。

「事情があって、この街を暫く離れることになったんです」

八戒の語り始めた話は、私の祈りをことごとく覆した。
悟浄を含めた数人で、暫く旅に出るという事。行き先は遥か西の方で、ちょっと行って帰ってくるような近い場所ではないという事。ずっと危険と隣り合わせで、無事に戻って来れるかどうかも分からない事――
言葉を濁していた部分も多々有ったけれど、そんな事はどうでも良かった。八戒ともう会えなくなる。その事実だけが、ひたすらに辛くて。悲しくて。
彼がひととおり話し終えるのを待って、私は再び、彼に問い掛ける。

「どうしても、行かなきゃいけないの?」
「ええ」
「じゃあ、お別れに……私を、抱いて」

言ってから、自分でも、しまった、と思った。幾ら何でも唐突過ぎる。
案の定、八戒も心底困った顔をして、その場に立ち尽くしている。唇が、一瞬僅かに動いたような気がしたが、何と言ったかは分からなかった。
長いような、短いような、気まずい沈黙が、私と八戒の間を占める。ややあって、

「……さん。すみません」

彼は、今にも消え入りそうな声で、そう答えた。
失言だったと詫びようとすると、彼は私に手で制するような仕草をして、

さん。貴女が嫌だ、という訳ではないんです。
 ただ、僕は、……僕の手は、誰も、抱けないんです。相手が貴女でも」
「大切な女性(ひと)が、居るのね?」
「ええ、……居ました」

言葉が、さり気なく過去形に置き換わっている。
けれど私は、特には追求しなかった。それよりも、顔も名前も知らない女性(ひと)への羨望と嫉妬の念が、胸をちりちりと焦がしていて。その痛さに、言葉さえ出なくなっていたのだ。
千々に乱れる私の心を他所に、八戒の独白はまだ続く。

「それに僕は、大罪人なんです。――」

静まり返った店に響く声は、まさに彼の懺悔そのものだった。
モノクルの向こうに見える瞳の翠が、ゆらゆらと悲しげに揺れている。その右目は義眼で、実は殆ど何も見えていないという事は、この時になって初めて聞いた。
数年前、世間を騒がせていた大量殺人事件の犯人は、かつての八戒であるという事。それは恋人を無くしたが故の、復讐であったという事。右目を失ったのもその頃で、この眼はまさに罪の証なのだと――彼は、静かな口調でそう語った。

「僕は、たった一人の女性すら護り切れなかった男です。その上、罪も無い沢山の人を殺してしまった。
 ……こんな僕に、貴女を抱く資格なんか、無いんです」

僕のことは忘れて下さい。言い切った彼の口調は淡々としていて、表情もひたすらに穏やかで、却って悲しく、痛々しく見える。
ああ、そうか――私は、不意に気が付いた。彼をイメージする香りが、なかなか出来上がらなかったその理由を。
この男性(ひと)に、ただ優しいだけ、穏やかなだけの香りは似合わない。彼の柔らかさは、そんな単純なものではないから。
そして。私は改めて、先程の自分の「抱いて」発言を心から悔いた。
彼の抱える深い痛みや悲しみも知らずに。私は何を。

「……ねぇ、八戒。明日も、店に居るのよね?」
「ええ。明日が、最後ですけど」

私の問いに、八戒は柔らかな口調で即答した。最後、という言葉が、胸の奥までずしりと響く。
その辛さを出来る限り押し殺して、私は努めて明るい口調で、

「じゃあ明日も、今までと同じように、美味しいご飯を私に食べさせて頂戴」

巧く笑えていたかどうか、自分ではよく分からなかった。
そんな私に、八戒は表情を僅かに和らげ、「分かりました」と深く頷く。そして何事も無かったかのように、黙ってこちらに背を向けて、拭き掃除を再開した。
壁に掛かっている時計の針は、もう一時を回っていた。ぱたん、とドアを開ける音がして、店長が中に入って来る。いつの間に、外に出ていたのだろう。全然気が付かなかった。
ちゃん、家まで送って行こうか?」気遣ってくれる店長の言葉を、申し訳ないながらもやんわりと断って。私はもう一度、掃除を続ける八戒の傍へと歩み寄った。
正直言って、声が掛け辛い。あんな話を聞いた後だから。こんな遅くまで店に残り、黙々と仕事をする彼を邪魔するのも、かなり気が退ける。
だけど。私はありったけの勇気を振り絞って、

「八戒。……お別れに、握手して貰ってもいい?」

この申し出に、八戒はまた目を丸くして、テーブルを拭く手をぴたりと止めた。
「言った筈ですよ、僕の手は――」断ろうとする彼の言葉を、私は強引に打ち切って、

「私ね、八戒が料理作ったりグラス磨いたりしてるのを見るのが、とっても好きなの。
 作ってくれるご飯も、淹れてくれるお茶やお酒も、大好き」
「………………」
「私にとってはね、八戒の手は、美味しいご飯を食べさせてくれる手なの。だから」
「……分かりました」

無茶苦茶な理屈をつけて私が差し出した手を、八戒は、そっと握り返してくれた。
思ったとおりに優しくて、でも男の人らしい大きな手。この感触は、きっと一生忘れない。
ありがとう、と。私が、やっとの思いで口にした言葉に、彼は「お礼を言うのは僕の方ですよ」と、握る手に少しだけ力を込めた。
その意味が分からなくて、私が訊き返すと、彼はにっこりと微笑んで、

さん。実は僕も、毎日ここで貴女に逢うのが楽しみだったんですよ」
「? どうして?」
「嬉しかったんですよ。貴女は……僕の作った料理を、誰よりも美味しそうな顔で食べてくれたんですから」



その後の私の一日は、非常にハードなものとなった。
八戒と店長に別れを告げ、店を出た私は、家には帰らずに工房の調香室へと取って返し、もう一度初めから、香りの調合をやり直した。
掴んだイメージを表現するのは、やっぱり一筋縄ではいかず、納得いくものが完成したのは夜明け近く。師匠の呆れる顔を他所に、私は一時間だけ仮眠を取って、そのまま昼間の仕事に就いた。それまでと、全く同じように。
そして。仕事帰りにあの店に寄り、八戒の最後の料理を存分に堪能した後で――私はいよいよ、作ったばかりの香りを、彼に差し出した。
ラッピングまでは手が回らず、素っ気無い紙袋に入れてしまったのは、我ながら失敗だったと思う。それに、事情を知らない他の客たち、特に女性たちの間から、棘のある眼差しも山ほど飛んできた。
で、八戒は案の定、暫く躊躇っていたようだったが、私の「頑張って作ったのよ」という――こんな台詞は、本当は調香師失格なのだけど――ダメ押しに、ようやく受け取ってくれた。
それだけで、私は何だか胸がいっぱいになって。帰り際に、「気に入ったらいつでも追加注文してね」と言うのが精一杯だった。



私が八戒に会ったのは、それが、最後である。
以来、彼や、一緒に行った筈の悟浄の消息は、私の耳には全く入っていない。



「――有り難うございました。また宜しくお願いします」

今日最後のお客様を送り出して、私はほっと息をついた。
あれから随分月日が経った。私も師匠の元から独立し、小さいながらも自分の店を持つようになっている。
巷を騒がせた妖怪たちの原因不明の暴走――『異変』もすっかり収まり、香水や匂い袋といった所謂贅沢品も、段々と需要が伸びつつある。嬉しいことに、私の作った香りを、と贔屓にしてくれる固定客も居て、私の店は、それなりに経営が成り立っていた。
かつて私が毎日立ち寄ったあの店は、今はもう無くなってしまっていた。店長は一言「故郷へ帰る」とだけ言って街を去り、店自体も人手に渡っている。あの居心地の良かったカウンターも取り壊され、今では、林檎や茘枝(レイシ)といった青果が店頭で幅を利かせている。たまに買い物に立ち寄るのだが、その度に、胸の奥がちくりと痛んだ。
そして、

「………………」

一人残った私の手には、淡いグリーンのガラス瓶が一つ。あの日、八戒に渡した香水のスペア分だ。
緑の匂いを強く孕む、雨の森をイメージした香り。時に優しく、時に静かに、時に悲しい冷たさや激しさで降る雨のイメージに、ひっそりと咲く水仙の香りを――『自惚れ』の花言葉は、言わば私の弱音である――ちょっぴり足して、瓶には四つ葉のクローバーのラベルを貼った。古い言い伝えのとおりに、彼の元に幸運がやって来るようにと祈りながら。
この香りを、彼は気に入ってくれたのだろうか。それを知る術は、何処にも無い。
独立して以来、私は幾つもの香水を調合してきたし、新しい香りも幾つか生み出していた。だがこの香りだけは、あれ以降一度も作っていない。それどころか、正式な銘さえ未だに付けていないままだ。
あの男性(ひと)のためだけに作った、世界にたった一つだけの香り。彼以外がまとうのは考えられなかったし、何よりも、彼に認めて貰えなければ、何の意味も無いのだから――

からからん。

その時、不意に。玄関のドアベルが鳴った。思い出に浸っていた私の意識が、急に現実に引き戻される。
表には『閉店』の札を下げておいたのに、見えていなかったのだろうか。あんな大きなはっきりとした文字なのに。
私が怪訝に思いながら振り返ると、そこには。

「遅い時間にすみません。これの、追加注文をお願いしたいんですけど」
「…………!」

そう言って笑うその顔に、私は思わず息を呑んだ。
これは夢だろうか、それとも。吃驚して声も無い私に、彼、猪八戒はあの頃と同じ、いや、あの頃よりもずっと明るくて力強い笑みを浮かべて、

「旅の間も、ずっと大事に使っていたんですけど。この通り、全部使い切ってしまって」

彼の綺麗な手の中には、空になった香水瓶が一つ。
銘の書かれていない、四つ葉のクローバーのラベルも、汚れて所々擦り切れてしまっていたけれど。

「確か、追加注文はいつでも受け付けてくれるんでしたよね?
 営業時間外で申し訳ないんですけど、是非、お願いしますよ。……

その言葉を聞けたのが、その笑顔に逢えたのが嬉しくて、私は思わず、彼の胸へと飛び込んだ。



驚きがちに、でも優しく抱きしめてくれた彼の身体からも。
微かに、あの香りが漂っていた。










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