花鏡に向い舞台用の化粧をおとす。結い上げた髪をほどき衣装を脱ぐと、素顔の自分が鏡の向こうから少し疲れた顔で笑う。 小さなステージのある酒場の舞台裏。今夜の出番を終えたは帰り支度をしていた。旅の途中、路銀稼ぎにここで歌うようになってしばらくになる。 「さん、お疲れさま」 「この後飲みに行かない?」 顔馴染からの誘いに、は愛想良く笑って首を振った。 「ごめンなさい、また誘って頂戴な」 「なーにー、つきあい悪いの」 冗談半分の文句に冷やかし声が混じる。 「彼氏が待ってるんでしょ」 「あぁ、あの赤い髪の? だったら早く行ったほうがいいかも」 好意ばかりとは言えないものを含んで、楽屋に溜まっていた若い女達が笑う。それには取りあわずに、はバッグを肩にかけて扉を開いた。 「じゃ、お先にね」 酒場の細い廊下を通って、楽屋から裏口に出る。切れかかった蛍光灯が切れ切れに照らし出す路地に人通りはない。荷物を詰め込んだバッグを肩に掛け直すと、は生ぬるい夜の空気の中に待ち人を探した。 秘密めいて囁く声、ジリッという金属が擦れる音。その方向にが目をこらすと、暗がりの中に人影が浮かび上がった。 人影は一つ。いや二つ。 小柄な影は若い女のもの。細い指には似合わない十字を刻んだジッポのライターを握り、炎が消えないようにもう一方の手を添えている。その炎に照らされたもう一つの背の高い人影。咥えた煙草に火を点けようとしたのだろう。炎に顔をよせれば、紅い髪と瞳が蜂蜜の光沢をおびて光る。 はその様子をしばらく腕を組んで眺めていたが、やがて手近に転がっていたゴミバケツをつま先で蹴り上げた。軽く蹴ったつもりだったのだが、鈍い金属音は人気のない路地に騒々しく響いた。 二つの人影はびくりと離れ、こちらを覗う様子を見せる。やがて背の高い方の人影が速足でに近づいてきた。 「よ、」 「待たせちゃった? 悟浄」 は何ごともなかったように、待ち合わせの相手を笑顔で迎えた。 「いーや。俺も今きたトコ」 「そう、ならいいンだけど・・・」 は笑顔を崩さずに、悟浄の背後に目をやった。暗がりに立ちつくす若い女性。肩の辺りでカールさせた金髪が、蛍光灯の明かりに鈍く照らされている。その足元には数本の煙草の吸殻。 「あの娘は?」 「ん〜。なんつーか」 悟浄はぼりぼりと頭をかいて口を開いた。 「つきあってる野郎のことで、相談があるって言うんだけどな」 「で、お話してたの?」 「それが、よく分かんねーの」 悟浄は背後を振り向くと、金髪の彼女に向かって軽く手をあげた。 「じゃーな」 そのままの肩に手を回して歩き出す。 「ドコ行こっか」 「そうねぇ」 歩きながらちらりと背後を見たは、薄暗い路地に残された彼女の顔に、うっすら笑みが浮かんでいるのを見て取った。 ―あぁ 煩い― どうでもよかったはずなのに。 最高と最低の気分をいったりきたり。 「悟浄・・・・・・?」 返事はない。 今は昼下がり。夜に会うことが多い悟浄とがこの時間に顔を合わせているのは珍しい。悟浄は仲間との夕食まで、は夜の舞台まで。偶然に揃った時間。食堂の窓際の席に腰を下ろし、飲茶をしていた二人だった。 さっきまで冗談をとばしていた悟浄が、今は頬杖をついてじっと窓の外を眺めている。 ―なに見てるの、悟浄・・・― は悟浄の視線の先を追った。窓の外は雨。いつもは賑わう街路も、今は急ぎ足で行き過ぎる人影もまばらだ。軒を並べている露店の主たちは、やる気のなさそうな顔で恨めしげに雨空を見上げている。 悟浄の視線は露店のとぎれる路地の片隅にそそがれていた。悟浄が見ていたものを見つけ、はそっとため息をついた。 そこには子供が泣いていた。5.6歳ぐらいの男の子。雨をよける傘も手を引いてくれる人も無く、独りで泣いている。 二人そろって窓の外を見ている姿が妙だったのだろう。横を通りかかった店の主人がつられて外を見て、やれやれというように頭を振った。 「またか」 「知ってるの、おじさン」 の問いに主人は渋い顔でうなづく。 「すぐそこの家の子なんだがね、ダンナが他所で作った子を引き取ったはいいが、それっきりさ」 「それっきり?」 主人に注いでもらった熱い茶をすすりながら、が首をかしげる。 「すぐにダンナはまた他の女と出て行って、あの子と」 主人が顎をしゃくって窓の外を指す。 「奥さんが家に残されたって話だよ」 「ふぅん」 がたりと椅子を倒して悟浄が立ち上がった。そのまま黙って雨の中に出て行く。 「なんだい、ありゃあ」 「いいの、すぐに戻ってくるから。それよりタオルを二枚と・・・何か温かいもの頂戴な」 呆れ顔の主人にそう言いながらもの目は、悟浄の姿を追いつづける。 「そりゃ構わんがね」 主人は首を振りながらも、店の奥に引っ込んでいった。 一人残ったは、手の中で冷めていく茶を一口飲んだ。雨にぬれるガラス窓の向こうでは、悟浄が子供の側にたどり着いていた。腰をかがめ何か話しかけているようだ。子供は戸惑っていたが、やがて顔をごしごしとぬぐうと、悟浄の後について歩き出した。 店の戸が再び開いて雨と風とが吹き込む。 「おら、あのお姉ちゃんとこに行きな」 悟浄は雨にぬれた髪をかきあげると、軽く子供の肩を押した。 おずおずと近寄ってきた子供を、は優しいお姉さんの笑顔で迎えた。タイミングよく出てきた店の主からタオルを受け取って、一枚を悟浄に渡し、もう一枚で子供の頭を拭いてやる。 「あんたらも物好きだね」 主人はそう言うと湯気の立つスープの鉢をテーブルに置くと、辺りのテーブルを拭きはじめた。 「一緒にご飯食べよっか」 が誘っても、子供は動こうとしない。 悟浄は子供をひょいっと抱きかかえると、椅子に座らせた。 「うめーぞ。ここのメシは」 の向かいに悟浄、その隣に小さな子供が座って、飲茶が再開する。は卵スープを三人分取り分けると、椀の一つを子供の前に置いた。 「はい、どうぞ」 子供は悟浄との顔色をうかがうだけで、手をつけようとしない。 「ガキは人のメシを奪ってでも食うもんだろうが。ほれ食え」 悟浄は肉まんやちまきの皿を子供の前に押しやったが、子供は手を出そうとしない。 は冷めてしまった茶を飲み干し、お代りを頼もうと片手を上げた。と、向かいに座っていた子供がびくりと体を震わせた。椅子の上で縮こまり両手で頭を庇う。その震える頭に悟浄の大きな手がのったかと思うと、ぼさぼさの髪をくしゃっとかき回した。 「なんにもしねーよ。だから食え」 子供は腕の隙間から悟浄の顔色を覗っていたが、やがてそろそろと両腕を下ろした。 怯えた瞳が悟浄を見上げる。 「ほんとうにいいの?」 「あぁ」 「たくさん食べてね」 子供の目がテーブルの上と悟浄、の間をさまよう。やがて子供は肉まんを手に取りかぶりついた。 柔らかな肉まんを、ぎゅっと握りしめる子供の腕は細かった。薄汚れた服からのぞく手足や顔のあちこちに痣が見て取れる。 悟浄が子供を見る。 は悟浄を見る。 雨は止まない。 ―あぁ 嫌ね― 優しい気持ちになんてなれない。 嫌な女になっていく。 「だ・か・ら、悟浄と別れて欲しいの」 は少し首をかしげて、目の前にいる女性をながめた。いつだったか、悟浄の煙草に火を点けていた金髪の彼女だと気づくのに、少し時間がかかった。 しかし、どうやっての宿をつきとめたのだろう。あげくに部屋の鍵まで手に入れて中に入り込んで。 今夜は宿の自分の部屋でゆっくり過ごそうとしたと、それについてきた悟浄は、けたたましい出迎えを受けていた。 チェリー・ピンクに塗られた唇から、勢いよく投げつけられる言葉はの耳を素通りしていく。 遊び 本気 愛してる ふさわしい 似合わない 私 私 私 悟浄 悟浄 私 悟浄 私たち その意味を理解しようとするのは諦めて、は自分の部屋の惨状に目をやる。荷物はひっくり返され、部屋中に散乱していた。香玉作りの材料が入った壜は割れ、交じり合った香りが眩暈がするほど濃厚に部屋を満たしている。仕事用の衣装はびりびりに破られ、ガラスの破片が散らばる床に放り出されていた。 胸のうちで被害金額を計算して、は気が滅入ってきた。 ―どうせだったら、悟浄の方の宿に行ってくれればよかったのに― そう考えて、思わず笑い出しそうになる。 「なに笑ってるのよっ!」 不意に金切り声がしたかと思うと、胸元をつかまれては我に返った。 「よせって」 あっけにとられていた悟浄が、二人の間に割って入った。 「なにやってんだよ、あんたは」 「悟浄」 金の髪の女性は、熱っぽい目で悟浄を見るとその腕を取った。 「もう大丈夫よ。早く帰りましょ」 「はぁ?」 迫力に気おされ、悟浄はそのまま引きずられかける。 「ちょ、待てって。あんた彼氏は?」 「ちゃんと別れたから。悟浄が言った通り」 「別れたぁ? とりあえず手ぇ放せ」 「もぉ、恥ずかしがることないのに」 傷つけないようにと選ぶ言葉は、愛を含んで聞こえる。 力を加減した接触は、じゃれ合いに見える。 当人がどう思っていようが、傍から見れば立派な痴話喧嘩だ。悟浄は絡みついてくる腕を引き剥がすと、後ろから女の肘をつかんで押さえた。 「悪ィ、ちょっと送ってくる」 短い視線をに投げて、悟浄は開けっ放しの部屋のドアへと向かう。 「家、ドコよ」 「あのねぇ」 甘えた声を上げる女性と悟浄は、立ちつくすから遠ざかっていく。 嫌 見ないで 見せないで 聞かないで 聞かせないで 触らないで 触らせないで 嫌! 「悟浄」 言いながらは結い上げた髪から、蝶の細工が付いた簪をそっと抜いた。 「ん?」 悟浄が振り向く。 女を両腕で押さえている為に、胸は無防備に空いている。はその胸に向かって簪をふりかざした。が、相手はそんな事には慣れっこだ。悟浄は女から手を離すと、身体をひねっての一撃をかわした。 冷たく光る簪は悟浄の上をすべり、横腹に刺さって止まった。蝶の細工の根元から、白いシャツに赤い花が咲くように血がにじむ。 「ひっ」 悲鳴をあげたのは、金髪の女だけだった。 「外に出てな、あんたは」 悟浄は女の口を押さえ、部屋の外へと押し出した。 「っ・・・痛てぇ」 悟浄は扉に鍵をおろし、腹に刺さった簪を引き抜いた。そのままに投げて返す。 簪のつけた傷は細く深い。悟浄はシャツを脱いで傷口に押し当てた。 「死ンじゃわない・・・わよねぇ」 「あぁ? 死ねるかよ、こんなもんで」 死なないことと、痛むことは別だ。悟浄は顔をしかめながらを睨んだ。 「刺した方が死にそうな顔してるんじゃねぇよ」 は伏し目がちに頷くと、静かに答えた。 「ごめンなさい」 「謝るくらいなら、最初っからやるなっての」 「そうじゃなくってね」 手にした簪を玩びながらが言う。 「ちゃんと短剣を使えば良かったなぁ、って」 「おい! ・・・っ」 出した声の大きさが傷に響いたのか、悟浄は顔をしかめて横腹をおさえた。その様子を眺めながら、は銀細工の蝶についた血を袖口でぬぐい、また髪にさした。 言っても仕方がないから黙っていた。悟浄が女子供に優しいのは、病気のようなものだからと。物分りのいいフリを続けて、あげくにこんな馬鹿な真似。 「部屋、片付けなきゃ。今夜はもう帰って頂戴な」 は悟浄に背を向けて、辺りにちらばった荷物を拾い始めた。靴の下で壜の破片がじゃりっと音をたてる。 「次はちゃんと心臓を狙うから・・・・・・」 震えないで 声。 零れないで 涙。 これ以上みっともない真似を晒させないで。 「その時はよけないでね。悟浄」 丸めた背中が不意に暖かくなった。人肌の温もりと重みを絡めて、日に焼けた腕が後ろからを抱きしめる。 「いい女にヤられんなら、本望よ」 耳元で低い声がささやく。 「一緒にイかない?」 「悟浄・・・」 しなやかな緑の導火線の先に咲いた紅い罠 艶やかな花弁は来る者を拒まないから 甘い香りと蜜に誘われて惑う蝶はあとを絶たない 手折って独り占めしたい きれいな紅い花 「馬鹿ね」 棘で傷だらけになっても |