「――ふぅ」

吹き抜けた夜風が、汗ばんだ身体をかすめてゆく。
昼間の暑気が嘘のような、そのひんやりとした感覚が、火照った肌に心地良い。そっと目を閉じていると、高ぶっていた神経もゆっくりと冷やされてゆくようだ。
額にうっすらと浮かんだ汗を拭い、が一つ息を吐くと。背後で不意に、かちり、とライターの着火音がした。

「………………」

暗がりの中にあっても、その金糸の髪はよく目立つ。少なくとも、くゆらせる煙草の火種と同じ程度には。
薄月の下、佇む三蔵の纏った白い法衣と、傍らの遺屍が落とす幾つもの暗影が、皮肉めいた対比図を描き出す。物言わぬ死者たちに対し、己が生を見せ付けるが如く紫煙をふかす三蔵の姿は、らしいと云えばあまりにらしく、は苦笑を禁じえなかった。尤も、自身もこうして涼んでいるのだから、あまり人のことは云えないのだが。
暗暗とした森は静謐に包まれており、この場に生きて立っているのは、三蔵との二人だけである。
抗戦の最中にはぐれた悟空、悟浄、八戒は、今頃何処に居るのだろう。皆、無事だろうか。

「で、どうするの、三蔵? 皆を探しに行く?」
「面倒くせぇのは御免だな。奴らの方からこっちに来させろ」
「皆に、この暗い中を探せ、って? ほんっと、平気で無茶言うわね、貴方は」

は肩をすくめながら、嫌な男ね、と小さく呟いた。
向こうから何の合図も送られて来ないなら、下手にここから動かぬ方が賢明だろう。それに戦闘時の銃声が聞こえていたなら、それを手がかりに彼らの方がここに来るかも知れない。そう考えれば、三蔵の判断は確かに正しい。
が、しかし。それらは全て、彼らの身が無事であれば、という仮定でのみ成り立つ話である。まさか、とは思うのだが、彼ら三人が生きている、という保障は何処にも無いし、全員が一緒に居るという確証も無い。
なのに。

―― 本当に、しょうがない男ね。

同意半分、呆れ半分に肩を竦めるに、三蔵がじろり、と険しい視線を投げ付けた。が、はまともに取り合わずに、浮かべた微笑で受け流す。
そして。顔にかかった髪を軽く振り払うと、傍らの光景に改めて目を向けた。

息絶えた者たちの屍が、夜の森に累々と横たわっている。
月明かりだけが頼りな闇の中では、絶命した彼らの顔はおぼろげにしか見えない。が、よくよく目を凝らしてみれば、流された血が乾き凝り、黒く変色して顔や身体に貼り付いているのが分かった。
破れた衣服はボロ切れのように力無くはためき、折れた刀や弓矢が散乱している。少し足を踏み出してみれば、転がっていた空の薬莢がつま先に当たる。それにつられて、す、と視線を足元に下ろすと、主を失った手首が虚空を握り締めていた。
辺りには血や硝煙の匂いが蔓延し、壊れた金属製の防具がかたかたと鳴り続ける。乾いた小さなその音は、まるで死者たちの上げる長恨の声のようにも聞こえた。
もっとも。敗者たちの最期の姿など、何処でも大抵こんなものだが。

「おい、いつまで見てるつもりだ」

沈黙を破るかのように、三蔵が僅かに声を荒げて問い掛けた。
肩越しにそちらをちらりと見ると、刺を孕んだ眼差しとぶつかり合う。

「ンなに嫌ならとっとと棄てろ。泣き言なんざ聞きたかねぇ」
「まさか」

不快感も顕わなその言葉には、主語となるべき単語がない。
が、は澱むことなく即答する。

「でも、明日は我が身よ。貴方も私も」
「………………」

素っ気無く返し、すぐに前方に向き直ったに、三蔵の目つきが一層険しくなった。
暫しの間を置いて、背後で、ち、と忌々しげな舌打ちが聞こえてくる。同時に聞こえたじり、という音は、吸い終えて捨てた煙草をふみ消した音だろう。苛立たしげなその様子が、背中越しでもはっきりと分かった。
その直前、三蔵の手がこちらに伸ばされたような気がしたのは、の思い違いだったのだろうか。



風が、流れてゆく。
漂う血と硝煙の匂いをかき散らし、森の木々をざわめかせながら。
生死が紙一重な黒暗の中。弔う者のない地獄絵図の傍らで、三蔵の戴く金糸の髪が、の黒髪が大きく煽られて舞い上がる。

清濁入り乱るこの混迷の世においては、未来はまさに無明の闇。
妖怪たちの自我の喪失、という現象と同時進行で、人間たちもまた破滅の一途を辿っている。今を謳歌する猛者たちは敗北を恐れ続け、力無き者は悲嘆に明け暮れながら空を仰ぐ。
倫理や道徳は何の意味も成さず、良識が欲と虚栄に歪む。大悲大慈の理は偽善にすり返られ、温情は疑念に取って代わられ、愛は絡みもつれて禍根へと変じる。命有ることが幸福だと素直に喜ぶことも出来ず、時に死が真の救済に繋がる不条理に、己が生まれ落ちた事さえ後悔の種に成り得てしまう。
この「異変」を機に、実態が一気に露呈した――そんな、悲しい程に無情で理不尽な時代の中で。
もまた、振るい続ける剣と共に、敢死(かんし)の念を常に抱いてはいるのだが。

鏖殺(おうさつ)の余韻が未だ残る両手を、風が静かにすり抜けてゆく。
その感覚が、たまらなく痛い。



「……下らねぇ」

その時、ふと。三蔵がそう吐き捨てた。
やけに苦そうなその眼差しが、あらぬ方向を睨み付けている。その様子から察するに、それはに宛てた台詞ではなく、半ば無意識に発したものらしい。訝しむの視線に気が付いて、三蔵は煩わしげに眉を眇めた。
くるり、と背を向けたと同時に、火が点けられる二本目の煙草。深く吐き出された煙が、闇に広がった。

「お前が、ンな簡単にくたばるようなタマか。真顔で寝言抜かすんじゃねぇ」

問答無用で発せられた言葉に、の目が丸くなった。
対する三蔵は、相変わらずこちらに背を向けたままである。からは見えないが、相当の不興顔をしているのだろう。無言で佇むその背中にも、苛立ちが露骨ににじみ出ていた。
そんな三蔵のその様に、は首を捻りつつ、

「やあね、それじゃ私、よっぽどの豪傑みたいじゃないの。か弱い女性に何てこと言うのよ」

我知らず、笑いがこみ上げてきてしまう。
何がそんなに可笑しいのか、自分でもよく分からない。が、懸命に堪えても笑いは止まらない。
小刻みに肩を震わせているに、三蔵は僅かに語気を荒くして、

「お前の何処をどう見れば、“か弱い”なんて言葉が出てくる。ざけんのもいい加減にしろ。
 てめェみたいな女、殺してもまず死なねぇよ」
「だから、人を不死身の化け物みたいに言わないでってば。貴方こそ、冗談にしては酷過ぎるわよ、それ」
「こっちは本気だ。一緒にすんな」

肩越しに睥睨する眼差しに、ありありと浮かぶ不快感。この暗がりではよく見えないが、こめかみには青筋も立っているかも知れない。
こんな短いやり取りの中に、そんな癇癪を起こす事が有っただろうか。はますます頭に疑問符を浮かべつつ、大人気無い男だ、と肩を竦める。

「……この、ワガママ坊主」

陰惨な現場に立つ白い僧形は、憮然と紫煙を燻らせていた。
暗がりに浮かぶ金糸の髪が、肩に掛けられた経文が、風に揺れている。



――この男は、己が死に怯臆(きょうおく)はしないのだろうか。



西へと向かう長い旅路は、言い換えるなら果て無き修羅の道。一切世情の風評を蹴り飛ばし、日々連ねてゆく闘諍(とうけい)を力づくで乗り切って。同行者が各々に抱える迷情を横目に、時には己自身が晒す醜態に失笑しながら、遥かな地を目指してひた走る。
は言わば途中参戦の身だが、日々繰り返される刺客への迎撃を通じ、この旅の過酷さは既に確知していた。

そんな旅の中で、三蔵はを指して「こいつは死なん」と勝手に断言する。
『天上天下唯我独尊』の誤用を地でいくような、尊大で朴素な態度そのままで。悟空や、八戒や悟浄と全く同じ扱いで。

気が付けばの身にも絡み付いていた、「信頼」という名の重い枷。
抗えば一層重くのしかかり、干渉を拒めば逆に強く戒められる。甘くなければ優しくもない癖に、時に思わぬ所で掬い上げられる。
如何に死線の淵に立てど、生き抜いて己がままに在り続けよ、と。三蔵が言外に示す要求は、まさに絶対的支配者の如き横暴さを以って、問答無用でをここに繋ぎ止める。
死は背反に他ならないと、先導するその背で断言しながら。

―― いっそ体だけの関係で済んでいれば、どんなに気が楽だっただろう ――

『無一物』の教えを胸に刻んで、高き理想を追い求めながら。この男は、一体どれだけのものを欲すると云うのか。
共に歩み続ける者も、対等に関わり合える者たちも、既に掌中に収めている筈なのに。



曲がりなりにも僧侶の癖に、欲張りで。我侭で。自分勝手で。卑怯で。
可笑しくて、涙が出る。



「………………」

風は、いつしか止んでいた。
ずっと聞こえていた木々のざわめきも消え、場は再び静寂と死臭が占拠する。
凛とした夜気の中に、我知らず零す溜息一つ。その耳元で、金のピアスが――魔剣『千尋』が、音も無く揺れる。

持て余す迷情も、思慕も、矜持も、反発も。
結局はこの男の手の平の上に在るのなら。せめて。

「――ねぇ三蔵、一つお願いしたい事があるんだけど、いい?」
「何だ。つまらねぇ事だったら、殺すぞ」

聞き飽きた決まり文句に苦笑しながらは、三本目をふかす三蔵へと歩み寄ると、自身の煙草を一本銜えた。
そして。二の腕をそっと掴むと、開いた方の手を口元に添え、煙草の先を三蔵のそれに近付ける。

「ちょっと、そのまま動かないでね」
「…………」

が少し背伸びをすると、煙草と煙草の先が触れ合った。
ほどなくして。赤く灯る火種が一瞬輝きを増し、新たな紫煙が昇り始める。
刹那。三蔵の手がこちらを捉ようとしたが、はするり、と逃れて身体を離した。

「ありがと♪」
「――ふん」

にっ、と微笑むに対し、三蔵の眉間には深い縦ジワ。ふいっ、とそっぽを向いた横顔は、心底腹立たしげである。見事に空振りしてしまった手が、気まずそうに袂に仕舞われた。
そんな三蔵のその様に、してやったりと内心ほくそえみながら。は火が点けられたばかりの煙草の煙を、ふうっ、と美味そうに吐き出した。
ぴりぴりと肌を刺す程の怒気を横目に、くすくすと漏れる笑い声が、たゆたう煙と共に静寂に溶けてゆく。

束縛を図るその強欲な手に、ほんの少しの抵抗と報復を。
いつか必ず迎える別離の時にも、悔い無く笑って飛び立てるように。

各々の生死に関わらず――添い遂げるなど、所詮は叶わぬ泡沫の夢。だから。

と、その時。がふと笑いを止め、三蔵がち、と舌打ちをした。
次の瞬間、

「――見つけたぞ玄奘三蔵、今日こそ死んでもらうっ!」

再び吹き始めた風の中、耳障りな怒鳴り声が、周辺に響き渡った。
眉を顰めつつ視線を上げると、木々の合間に十数人程の妖怪の姿。その表情は判別出来ないが、下品な嗤笑が煩わしい。

「夜中に愛人と二人連れたぁ、とんでもねぇ生臭坊主だな。最高僧の名が聞いて呆れるぜ」
「男四人の相手しながら旅して、それでもあんだけ殺しまくるような女だ。あっちの味も違うんだろうよ」

俺たちも愉しませろ、全員いっぺんに相手しても大丈夫だろ、と、絶笑混じりの野次が方々から飛んできた。この手の台詞は独り旅の頃から聞き慣れてはいたが、それでもやはり癇に障る。
が吸いかけの煙草をぴん、と指で弾き落とすと同時に、三蔵の銃が火を吹いた。

がうんっ!

「……煩せぇんだよ、このウジ虫どもが」
「どうしてそーいう発想しか出来ないのかしら。ったく、下品な男は嫌いよ、私」

妖怪の一人が倒れたのを機に、乱戦の火蓋が切って落とされた。
三蔵が続け様に発砲するその傍らで、もピアスを剣へと変化させる。蒼い刃が闇を突くと同時に、一人が絶命して崩れ落ちた。
が二人目、三人目を迎撃するその背後で、幾度も響く銃声と断末魔の絶叫。怒号と罵声が頻繁に飛び交い、濃厚な血臭が空気を陵辱する。
そんな乱撃戦の間隙を縫って、がちらり、と振り返ると。清廉な白が、銃を連射しながらこちらに背を向けていた。

――もしも今、この背中に剣を突き立てたら、貴方はどんな顔をするかしら?

刹那。そんな愚とも付かぬ想像が、脳裏を掠めてゆく。
が、は自らそれを一笑に伏し、改めて剣を構え直した。
捕縛を企む汚穢な手をかわし、その心臓に突きの一撃。倒れた刺客の頭を踏み付けて、包囲する連中に啖呵を切る。

「この私を“愛人”だなんて呼んでくれたこと、きっちり後悔させてあげるわ。覚悟なさい」
「――ンなつまらねぇ事で、熱くなってんじゃねぇよ。この馬鹿が」

空の薬莢を捨てながら、三蔵が横から口を挟んだ。
「貴方に言われたくないわ」眉を顰めたを横目に、弾丸を再装填された銃が次々と敵を屠る。
怯む刺客たちを睥睨する、鋭利な刃にも酷似した紫暗の瞳。下司が、と吐き捨てるその横顔に、「ウゼぇ」の極太文字さえ見て取れた。
そんな三蔵の背に背を合わせつつ、もまた剣をかざし、包囲する敵を睨み返す。

「面倒くせぇのは御免だ。さっさと片付けるぞ」
「判ってるわよ」

幾分か頭数を減らした刺客たちを見据え、三蔵は銃を構え、は剣をかざしつつ毅然と起立する。
更に勢いを増した風に逆らうように、互いに背中を預け合いながら。



二人の繰り広げる殺戮は、今暫くは終息する気配は無かった。









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