月青白い光が満ちた森の中で、幽かに水の音がする。 せせらぎの音とは違う、気まぐれに、魚のはねる音のような、断続的な水音。 目をさました八戒は、3人を起こさないよう、ジープからそっと降り立った。 見上げると、煌々とした満月と目が合った。降り注ぐ光に背を押されながら、彼は、森の中を音の方へ向かって歩いていった。 藪をかき分けて進んでいくと、ぽっかりと開けたところは、透明な水を湛えた池だった。見わたすと、誰かが楽しげに泳いでいる。のんびりと浮いていたかと思うと、身を翻して潜り、しばらくすると思いもよらぬところから水面へ踊り出てきた。 「…………!」 声をかけると、彼女は驚いた風でもなく、嬉しそうに手を振り返した。 鮮やかに抜き手を切って、こちらに近づいてくる軌跡に沿い、細波が光をきらきらと揺らしている。 「八戒、どうしたの?。こんな夜中に」 「それはこっちの台詞です」 は「それもそうね」と言って、笑った。こちらの岸は、水際でもある程度の水深があるらしく、池の縁に手をかけて胸から上だけを水面に出している彼女の様子は、まるで池に棲むウンディーネのようだ。 「今夜は暑かったし、散歩してたらこんなに綺麗な池があったんだもの。通り過ぎるには勿体無くて」 「無用心じゃありませんか?。1人でなんか泳いでて」 八戒の言葉に呼応するように、どこか遠くで獣の遠吠えが聞こえた。 「大丈夫よ。月がこんなに明るいから」 2人が見上げた中天には、青く丸い月が、じっとこちらを見下ろしていた。星は見えず、その冷たく透明な光は、空に穿たれた真円の穴のみから流れ落ち、身体ばかりか精神の中まで染み込み浸してくるようだ。 は、八戒に再び微笑みかけると、黙って手を差し伸べた。八戒は、その手をとると水を滴らせた身体をゆっくりと引き上げて、そのまま抱きしめた。 「……貴方の服まで、濡れちゃうわ」 「誘ったのは貴女じゃないですか」 もつれ合って倒れこむ。柔らかい草が、2人を受け止める。 「『月』は幻惑の象徴なんですよ」 「タロットカード?」 「そうですね」 くすくすと笑う声がする。 「池から上がった蠍が、獣に食べられちゃうなんて、聞いた事が無いわ」 「確かにそれは新解釈ですねぇ」 苦笑しながら、どちらからともなく唇を寄せ合った。 風は無い。森の中はしんと静まりかえり、周囲の木々すら青く映る。視覚でははっきり見えている情景なのに、妙に現実感が無い。 自分を抱きしめる腕が誰なのか、そんなことすらも曖昧になっていく気がして、は目を閉じて、相手の名を呼んだ。 「…っか…い…………」 目を薄くあけると、自分を見下ろす彼の顔が、逆光にぼやける。 頬に触れようとした彼女の手をとって、八戒はその指先に口付けた。 「……手、冷たいですね」 「泳いでたんだもの」 「なんだか、人間の手じゃないみたいですよ」 何か言い返されるかと思ったのに、彼女は否定もせず、うっすらと微笑んだ。 「月の光の中では、誰も人のままでなんて居られないわ」 彼は、その微笑む唇をなぞると、草の上に生き物のように広がる黒髪に顔を埋めて、囁いた。 「なら、貴女も僕も、仲間ですね」 「そうね。嬉しいわ」 蒼い蒼い森の中で、触れた肌から精神まで混じり合ってしまいそうな、夜。 空に浮かぶ月だけが、冷静に、2人を、見ていた。 |