二つの線



不殺生ふせっしょう戒」 …… 生き物を殺してはならない



 さくさくと、木の葉だらけの獣道を歩く。
 その足は誰もが見ても、はっきり分かるほどおぼつかない。
「うう……」
 時々、その形のいい唇からうめきともため息ともとれる声が漏れる。
 鮮やかで濃い赤の髪を揺らし、ふらふらと、歩く足に限界が来た。
「も、だめ……」
 小さく呟いたと同時に、ばったりと倒れ伏した。
 濃紺の道士服が汚れるのも構わずに。
「……おなか、すいた……」
 は、あまりにも情けない台詞を弱々しく呟き、今まで繋ぎとめていた意識を手放した。



 目を覚ましたのは、ふかふかの床の上だった。
「……あれ?」
 ここは、天国なのかしらん。
 眼球だけ動かして、辺りを見まわしてみる。
 豪奢な内装は、どうやら名のある人間の屋敷なのだろうか。
「あ、目を覚まされましたね」
 柔らかい声と共に、少女がこの部屋の中に入ってきた。
 年恰好は15〜6か。ゆったりした衣装の布地の光沢から、かなり高価なものだろうと推察できると考えれば、大きな屋敷の令嬢か。
 長く赤い髪を煌びやかな髪飾りでまとめ、余った分は背中に垂らしている。
「ええと、ここは……」
「あ、まだ起きない方がいいですよ。だいぶ衰弱されているみたいですから」
「う、そうか」
 やんわりと床につかせるほっそりした手に、は頷いて少女の言うとおりにする。
「……あなたが助けてくれたの?」
「あ、はい……。お手伝いで山菜を採っている時に」
「朋蘭、お客人の様子はどうだね」
 不意に、やさしい男の声が聞こえてきた。


「父上。お客様は、目を覚まされたようです。
 でも、かなり衰弱しているみたいで」
「そうか。お前も疲れているだろう。
 早く部屋に戻って休みなさい」
 父上、と呼ばれた男は、少女とは違う緑の髪を結い上げた壮年の男性だった。
 着ている衣装は少女のものよりも落ち着いた色合いだが、やはり高価な布地で仕立てられた一品とわかる。
「はい。
 あの、ごめんなさい」
「ん、いいよ」
 少女――朋蘭はぺこりと頭を下げる。
 は微笑んで床の上でひらひらと手を振ると、彼女は慌てて部屋を出ていった。

「……お加減はいかがですか。お客人」
「ええ、まあ、お腹はすいてるけど、それぐらいね」
 男性に笑みを浮かべて言うと、は大きく息をついた。
「あとで、粥を持たせましょう。空腹とはいえ、たくさん食べると胃が驚いてしまう」
「どうもありがとう。何から何まですいません」
 重ねるように礼を述べると、彼は『いいんですよ』と笑った。
 その笑顔が、父親に似ている気がして、はそっと目を閉じた。



「――ああ、もう歩けるのですか」
「ええ。お陰様で」
 数日ほどして、は男性の自室に礼を言いに赴いた。
 実際、まともに歩けないほど衰弱していたのだが、少女の献身的な介護と振舞われる料理のおかげで、ここまで回復したといっても過言ではない。
「今日は何用で?」
「はい。そろそろ、ここをお暇しようと思います。
 これ以上あなたのお嬢さんや他の皆さんに迷惑をかけるのは、どうかと思うので」
「そうですか。
 あれも、あなたの話をとても楽しそうに聞いていたようなのですが」
 穏やかに言う男性に、はとんでもない、と首を振った。
「あたし、面白い話をしているわけではないんですけど。
 ……そういえば、お名前を伺っていなかったですね」
 あのあとこちらの方から名乗ったものの、相手の名を聞いていなかったのだ。
「……そうでした。
 人は、私を鵬魔(ほうまおう)と呼びます」
「鵬魔……。聞いたことがあるわ。
 人を殺さず、幻術で夢を見せる妖怪と」
 事実、彼ほど平和を愛する妖怪はいないだろう、という噂はよく聞いた。
 その彼が、今こうしての前でやさしい笑みを浮かべている。

「……なぜあなたは、人を殺すことをなさらないのですか?」
「はて。そういう問いをされるとは」
 口をついて出たの問いに、鵬魔は苦笑いを一つして頭を掻いた。
「そうですね。
 私は、人と妖怪が共存できる世界がいちばんいいと思っているのです。
 それにね、さん」
「はい」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「いつか私も、人間になりたいと思っているからなんですよ」


 きょとん、としたの脳裏に、見たことのないはずの母親の幻がよぎる。

『いつか、私人間になりたいな』

 いつだったか、父親から聞いた、生みの母親の口癖。
 それすら叶うことなく、妖怪たちの凶刃に倒れたけれど。


「あなたは、死んだ母と同じことを言うんですね」
「あなたの、お母上ですか」
 は頷き、小さく笑みを浮かべた。
「父からもよく聞かされました。人と妖怪が仲良くできる世界ができればいいのに、とも」
「それは、私もあなたのお母上も同じ気持ちなのかもしれませんね」
「そうですね」
 そして、二人は笑った。






 後に。
 鵬魔が一人の狂った人間によって殺された、という噂をが聞くのは。
 もう少し後の話である。


 赤い髪と目をした禁忌の子供、
 彼女と同じ禁忌の子を愛し、最期まで人と妖怪との平和を望んだ鵬魔
 二つの線が交わることは、もう、ない。








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