不盗人



不偸盗ふちゅうとう戒」 …… 与えられていないものを盗んではならない



 そこを知るものは、ある。
 知らない者は生涯知る事はないし、また。知らないからと言って人生や政治や生活に困るような事は、ついぞ起こることはない。
 けれど、人生を過ごしていればあるのだ。

「……幻と言うわけでは、ないようだな?」
「失礼ですね、今生の闘神太子。焔殿」
 闘神太子――その名を焔と言う。
 両手に手械と鎖をつけ、これでも天界で「不殺」である筈の神々の中で唯一「滅殺」を許されている神でもある。
 見かけこそそこらにいる「ちょっと金持ちっぽい青年」ではあるが、腐っても『闘神』であるが故に実力は計り知れない……ただし、彼に科せられた「宿命」さえなければ。その気にさえなれば、天へ反旗を翻す事も出来たのかも知れない。
「お前、人間ではあるまい? かと言って、妖怪でもない。あえて言うのなら神に近いかも知れないが……さりとて、神とも言えないが。
 何がおかしい?」
「焔殿、あなたがもし笑みを認めたのならば。それは確かに笑みだったのでしょう……ですが、それが笑みであると何を以って証とされるのか。それが興味深く思われます」
 何者でもない事は、一目で見て取れた。
 この場は清浄なる空気と汚濁された残滓……あえて言うのならば、たった今まで邪悪なる存在がいたかの様に見える。けれど、その存在はすでにここにはない。
「わたくしは、。この森に住まわせていただいてる……そうですね、守人とでも思っていただければよろしいかと思われます」
 自ら名乗ったのは、少女と思わしき顔立ちの娘だ。一件すると幼女にしか見えないのだが、その瞳の奥には酸いも甘いも経験した者だけが持ちえる光を宿している。
 着ている服は、白いゆったりとした服はに似合っている様に見えた。
「守人か……一体、この場の主とやらは何者なんだか」
「それでしたら、先ごろまでおいででした。もはや、かの方はかの方のあるべき所へと戻られましたが……今日は客人が多いですね」
「ほう?」
 建物は、小さな家が一つ。小屋と言ってもいい。
 その前に広げられた、テーブルと椅子。日よけ傘もあるが、この森の中でどれだけ傘が必要なのかは不明だ。そこにあったお茶のセットを見る限り、どうやらこの場に自分以外の誰かがいたのは本当らしい。しかも、ついさっきまでいたとが言ってる様に……それでも、どうやらそれだけではない様子でもあるのだが。
「かの方は、焔殿のよくご存知のお方。
 そして、いずれお会いになる事でしょう。『想い』が続くのであるならば」
 僅かに、焔の目が開いた。
 目前の少女を、を殺すのは簡単な話だ。神の力を宿した自分の腕を、一閃すれば事は足りてが命無き躯に成り果てるのには十分だろうが、それでもの言う言葉には少なからず興味を引かれた。
「俺の『想い』か……お前に何が分かる?」
「わたくしが判るのは、事実のみ。
 焔殿が天帝と名乗る者と人の女性の間に生まれ、それ故に生まれながらに背負う宿命に殉じ。自らを躯となさり、そして……『刻』を待っておられる事くらい」
「何者だ?」
 これが天界であるのならば、焔とて大した感慨は抱かなかっただろう。自分の存在は隠すように―――実際隠されて育てられた。生き残ってしまったけれど、誰も知らないと言うわけでもなかった。だけど、ここは地上世界……何やら通常空間とは異なる空気を感じ取るけれど、だからと言ってそれが何かはわからぬ世界。
「わたくし……ですか。実は、わたくし自身にも計り知れないのです。
 人と思って生きてきた様な気がします。ですが……その点のみであるのなら、闘神太子焔殿、あなたをうらやましく思います。
 ただ、わたくしはこの森にあって多くの方々と知り合う事も。住み続ける許しを得る事も出来ました。あの方がわたくしを咎める事がないのは、そう言う意味なのでしょう」
 慣れた手つきで、小さな幼女そのものの手で、は一杯のお茶を入れた。
 どうやら、「飲め」と無言で語っているのだろう。
 確かに、この空間にはそれを促す空気がある。この森を預かる立場―――それをが望んで得た結果なのかまでは判らないけれど、見ただけではこの森を脱出できるだけの能力を持ちながら……匿われているかの様に見える。
「冷めますよ、それとも現状の闘神太子が猫舌。とか、申されませんよね?」
 嫌われてる……とまでは言わないが、言葉の端々に棘があるのはいたし方のない事なのだろう。理由はどうあれ、は焔の事をよく知っているかの様に見える上に情報は正確だ。おまけに、人の精神を逆撫でするツボみたいなものを心得ているらしい。
「ほう……」
「西洋のお茶と、東洋の果実を組み合わせたお茶です」
 それは、甘い。覚えのある香りと赤い液体をしているお茶だった。
 桃のにおいのするそれを、興味を覚えて一口含む……好きな人には好きなのだが、あまりにも甘い香りと対照的に少し渋みを感じる。糖類を一切入れていないのだ。
「焔殿、よろしかったではありませんか?
 これから先、望む2番目と3番目の願いがかなう事は委細承知されたのです」
「そう言う……事か、お前の主とやらが、ようやく判った。
 そして、この場にある筈のない痕跡を感じる……、ここは一体……いや、もうどうでもいい事か。いずれ、天界の奴らがこの場を知った所で全ては終わっている」
 僅かに微笑むの笑みは、どことなく人生をあきらめたかの様に見える。
「何を笑うかと、問いただしたい様ですね? 焔殿。
 わたくしは、世の大罪を存じているのですよ。そして、焔殿の想いは新たなる大罪を生み出す事になる……そうして、焔殿の二番目の願いも三番目の願いが叶う」
 そして、焔の最も強く望む願いが叶う事はない。
「お前は…、どうする?」
 共に来るか、それとも焔を止めるかと言う質問だ。
「焔殿、今はまだわたくしがこの森を出る事は叶わぬ事でしょう。
 この森に来る『お客人』達……彼女達、彼、そしてかの方……今だけで焔殿を除いても片手では足りぬ人々が訪れておられるのですよ。その時、お茶を差し上げるべき者がいなければ皆さんは心休まる事もありません。
 それに、わたくし達はともに罪深き大いなる大罪を背負いし者達。世界から欲望と言う何者にも。それこそ、神々にも妖怪にも人々にも共通する想いを抱いた瞬間に世界から盗み出した至宝なる存在。
 この世にあるあらゆる存在達が願ってしまった為に生まれ、わたくし達が世界から盗み出してしまった……かの方を用いて、焔殿は自らの願いをかなえようとなさっている。
 わたくしに、何が出来るでしょう?
 かの方を以って作り出した新天地に出向く事も、この場で焔殿を止める事も、それはわたくしの「今」なすべき役目ではありません。
 焔殿、かの方もその側にいる方々も。そして今生に巡り合われた全ての方々も、決して焔殿とは同じにはなりえません。先代闘神太子も、その製作者も、天帝すらも」
 焔は、答えなかった。だから何もしなかった。
「一番の願いは、叶う必要はない。
 なぜなら、いずれ『彼』が叶えてくれるからだ。だからこそ……」
 YESと言わずを連れ出さず、NOを言わずを悪戯に殺さなかった。
「焔殿」
 世にある全ての存在よりも大きな大罪をなすというのならば、それも悪くないと思ったのかも知れないが……それは、誰よりも自分自身がわからなかった。
「来世でお会いしましょう、あるのならば。ですが」
「いや、その必要はない」
 静かに、は頭を下げた。
 焔の気配が遠のき、そして再び頭を上げた頃には焔の姿はなかった。
「悟空を世界から盗み出した、その大罪の下にありて騒乱にある人々……ならばこそ、悟空を用いて新天地を望む焔殿ならば、先代闘神太子や彼女達よりお可愛らしく見えるなどとは。少なくとも、誰にも言えぬ事実なのでしょうね……愚かしいほどに」








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